(一)、
千葉正健さんを偲ぶ会を次の通り行います。
*10月10日14時から16時まで
*早稲田奉仕園リバティホールにて
*会費3000円
*弁当用の軽食は用意しますが、アルコールは多くは用意しません。
*発言は記録にとって、特に不都合と本人から申し出がない限り、事務局としては後に歴史記録として活用します。
千葉正健さんを偲ぶ会の事務局はさらぎ徳二著作集刊行委員会です。
(二)、
千葉正健さんといっても多くの方がご存じないでしょう。数点、御紹介します。
西暦1940年(昭和15年=皇紀2600年)4月生まれ。享年71歳。本年5月16日、自宅風呂場において脳梗塞発作と思われる状態で亡くなりました。
都立駒場高校から中央労働学院に進み、並行して日共党員から第一次ブンド党員となり、当時から自分自身のグループ、社会主義青年運動(SM)を組織し、主観的には森田実氏に師事し(終生変わらず)、60年代前半は「米ソ核実験断固反対、中国核武装断固支持」を掲げて政治と軍事を別けた上で統合する戦略家として革命党を作ろうとしていました。
62年、11歳年上で日共所感派として活躍し肺結核で雌伏していたさらぎ徳二氏と出会い、グループに迎え入れ、(「マルクスレーニン主義派」、電通ブンドとの)共産主義者同盟結成(64年8月)、(旧ML派半数分離、独立派合流、関西ブンドとの統一による)共産主義者同盟統一委員会結成(65年6月)などを経て、66年10月(マル戦派を受け入れての)共産主義者同盟再建(第6回大会)を果たした、その全過程の主導者です。
しかし、自分自身が主導したその第6回再建大会に出席しませんでした。本人はその理由を終生明かしませんでした。私は、これを渚さん問題を処理した事への責任を取ったものと考えて居ます。渚帝国主義論以外に第一次ブンドから第二次ブンドにつながる人脈の中からは経済学的素養を感じさせる経済理論が出てきていない事は明白でしたが、岩田世界資本主義論と正面から渡り合って勝てる理論でも在りませんでした。
千葉さんはブンド生え抜きの経済理論家として渚さんが絶対に必要だと考えてのだけれども、それに理解を示すグループがSM以外一つも有りませんでした。共産主義者同盟統一委員会書記長としては自分が引導を渡すほかはなかったのです。それが、渚帝国主義論を支持していたMLグループの第二次ブンドにおける不思議な存在の仕方につながったと見るべきでしょう。
渚さんへの責任、第二次ブンド結成時点での大グループ指導者切捨てへの懸念、は自分の負うべき政治責任だと考えて、第二次ブンドに千葉さんは参加しなかったと考えて間違いはないと思います。事実、納得できない渚氏からのブンド切り崩しは後に、「ML同盟」として結果しますし、政治局取り纏め人の不在として、第二次ブンドは(他の要因もあるにせよ)「政治局会議を拡大政治局会議としてしか開けない」悲劇の中で、「ブンドといえば共産同ではなく社学同」と謂う結果を齎すのです。
ブンドの外にあって、誰よりもブンドのことを考える人間として、千葉さんは18歳を迎えるにあたって捨てた筈の音楽の道にのめり込むより他はありませんでした。グループサウンズである、「ザ・ヴァン・ドックス」、「ザ・ギャンブラーズ」、「スパルタクス・ブンド」活動がそれです。終生音楽家であった事は千葉さんの日常を知っていた人間として間違いはないのですが、音楽や芸術では駄目なのだ、軍事を考えない社会変革活動は人間の中心的課題を考えられないのだ、としていた人間としては苦しかった雌伏期であっただろうと考えます。
そして、マル戦が抜け、MLが抜け、叛旗が反旗を翻し、赤軍が馬鹿をしでかし、戦旗が「12,18ブンド除名」と謂う組織清算をした結果、72年2月15日ゲリラ戦士結集原則を実践する魁として「鋲打ち銃による警察官拳銃奪取闘争」に単身決起したのでした。火薬の量が多すぎ、警察官の身体を突きぬけ一般人の腎臓を損傷させる大怪我を負わせて、この闘争は失敗をするのですが、「ゲリラ戦士は権力から武器を奪取して初めてゲリラ部隊に受け入れられる」原則を掲げたのです。
連合赤軍事件が発覚するのはこの1週間後です。私は、連合赤軍事件などと謂うのは「馬鹿が馬鹿なことをした」と謂う以上の何事でもないと思いますが、この連合赤軍、その前の赤軍を庇ったのも千葉さんの獄中での理論的戦いの一つでした。もちろん、その理屈に学んだ形跡がないのが赤軍や連赤の諸君です。
長い獄中生活の後、いくつかの党派再建の誘いはありましたが、千葉さんはその誘いに乗りませんでした。ブンド再建の時の不本意な局面的流れを考えれば人間を見分ける事が、何よりの核心と考えたのでしょう。社会変革は畢生の事業と考えていました。そして、社会変革の手がかりすら掴むことなく死んだのです。
(三)、
人間的には千葉さんは極めて温厚、勉強家、感受性の強い人格者でした。物事をごり押しするタイプの人間ではありませんでした。それが、政治活動家の世界に向いていたかどうかは疑問ですが、第二次ブンドの再建の主導者であった以上、不向きであったとは言えないでしょう。
しかし、そうした個性であったが故に本人が、飲み込んで、言わずにいた課題もまた多くあります。いくつか、供養の心算であげて起きます。
第一に、革命党と謂うものを本人が、「中央集権党」として考えていた事はまず、ありません。「共同戦線党」としてブンド再建を図ったことは明白です。
第二に、だとするならば共同戦線党として歩調を合わせるのに多大のエネルギーを使うのは当たり前のこととして了解して居たのだという事です。共同戦線党書記長がスターリンであって勤まるはずがないのです。
第三に、共同戦線党であると謂うことは党内フラクがそれぞれ大衆に独自のオルグ線を延ばしている筈だと謂うことです。すなわち、党そのものがソビエトや統一戦線の色合いを持っていなければ、党足り得ないのです。党そのものが一年中、党の為の闘争を語り続けていると謂う状態は想像外であったでしょう。革共同ではなく、ブンドを再建しなければ為らないと謂うのはそういうことです。
第四に、これは本人の絶筆になってしまいましたが、2011年1月22日(第2998号)の図書新聞に寄せた書評(『聞き書き〈ブント〉一代』市田良彦、石井暎禧著)の冒頭に明記されている思考の理路の枠組みです。
「戦術の前に戦略があり、戦略の前に理論がある。
理論の前に思想があり、思想の前に心がある。」
違う位相の理路だという事ですし、区別をしなくては理屈だてた話はできない、と謂うことです。
こうした事を求めて得られなかった、実践の人でした。
新左翼が歴史として語られなければ為らない時間に入った今、誠実に生きた先人として、偲ばれるに相応しい人間ではなかったのではないでしょうか。
以上