日本政府はアメリカとともに、中国が近年に南沙群島で埋め立てや施設の建設を進めていることを批判、同群島の所属をめぐって対立する周辺諸国への援助に乗り出している。その姿勢は国際法の原則に立って不法に対処するといったもので、こうした事態に至るまでに日本がどのように関わっているかという歴史についての自覚はうかがえない。
この諸島は近代の海図に Spratly Islands と記されていて、中国をはじめ、アジア諸民族の地理認識は反映されていなかった。第一次世界大戦後に、日本の民間業者がこの群島でリン鉱石の採取を始めた。業者は無主無人の地とみなして政府に日本の領有を請願したが、政府は無主の断定には慎重で領有には動かず、台湾総督府の管轄下に置いて採取を黙認するにとどめた。日本はこの群島を新南群島と称した。業者は昭和の不況期に事業を一時中止し、すべてを残して帰国したが、その間にフランスが調査して1933年に領有を宣言、日本は国際仲裁裁判の提案を拒否し、実績を主張して対抗した。
日本の外交は1936年ごろからドイツに接近して対外強硬色を強めていったが、台湾経営でも小林躋造以降、総督に海軍首脳を任命する慣例となり、台湾は南進拠点と目されるようになる。新南群島の支配の強化も画策され、政府は1938年に領有を決定して台湾総督府の所管として高雄市に所属させ、群島のすべての島々に日本名を付した。ここからは民間の燐鉱産地ではなく、海軍の指導下の軍事拠点としての性格を強めていき、潜水艦の基地が作られるまでになる。その後の南方進出への布石であったといえる。日本の領有は1945年の敗戦まで続いた。サンフランシスコ平和条約第2条の領域の規定では台湾・澎湖諸島とは別個にf項で新南・西沙両群島の放棄を記している。開発の着手が第一次世界大戦後では権利を保留する余地はなかった。放棄後の連合国側による処分の過程は筆者はまだ調べていない。
ここまでの経過を見ると、領有までの過程が尖閣列島の場合とよく似ている。進取の気性を持った民間業者が無人の土地を無主の地とみなしてそこで事業を起こしても、長期にわたって強い抗議や妨害を受けない時代であったこと、日本の外務省は外国との摩擦や係争を恐れて領有を宣言せず、時機を見計らって領有に動いたことである。その時機とは尖閣列島では日清戦争であり、新南群島ではナチス・ドイツの強大化で英仏のアジア支配の余裕が失われた事態である。後者は日中戦争の行き詰まりを日独防共協定やアジア諸地域への進出で打開する動きと一致している。列強の反応は国際的な緊張を反映して日本の意図への憶測や警戒を生み、現在の中国と似た立場に置かれた。日本政府も英米仏の議会や報道の反応を注視していた。インドシナもフィリピンもボルネオ諸地域も独立していなかったし、中国とは戦争のさなかで、周辺諸地域自体の意思が考慮されることはなかった。
現実に周辺地域に住む漁民などの反対はなかったのだろうか。民間の燐鉱採取だけのことであれば周辺の漁業活動との摩擦は大きくはならないだろう。しかし、領有前に海軍武官が関わって立案された詳細な整備計画では漁民の植民も含まれ、海賊対策にも触れている。重・軽の機関銃や小銃の装備も提案されていた。この提案には外務省が難色を示し、総督府も責任を逃げているのだが、海賊対策への言及は周辺海民との摩擦が現実に存在したことを示唆しているのではないだろうか。
日本の支配は強国による南沙群島支配の原型となった。放棄後の処分は連合国の責任だが、植民地の宗主国も解決を果たさず、独立した周辺諸国が係争に直面することになったといえるのではないか。
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