単元単位制への石塚さんの懸念に応える

 私は既成の学校制度、それ自体が耐用年数が過ぎていて、解体すべきだという意見である。それに代わるのに共に働き、共に学ぶような場所の形成を目指すべきだ。単元単位制というのは、学科によっては順序を踏んで学んでいくべき学科がある。数学などはその典型であろう。語学もある程度積み上げていくものである。そういう科目では単元ごとにマスターした者が次の単元のクラスに進めるようにすべきだというのが単元単位制の趣旨である。マスターできなかったものは再履修すべきであるが、教師の数も制約があるので、教育機器も使い、落とした生徒を補習やマンツーマン指導でマスターさせてから次に進めようというものでである。

 中には自修でどんどんマスターしていく生徒もいるだろうから、それは当然前へ進めたらいいというのである。そうでないと、足を引っ張られないようにと学力にあったクラス編成とか、習熟度とかいって格差教育の餌食になりかねない。

 単位をとって卒業資格を得るなんていう教育ではだめで、学問を楽しむようにしたいという石塚さんの意見には同感である。私は、小中高大というのは、勉強は若いうちにし、教育機関を卒業したら仕事の職業生活という発想であり、それがだめだという意見である。

 社会で生きている以上、若くても何らかの分業を担当すべきある。小学生でも学校菜園などでコメや野菜を栽培し、それで地域の市場で売ったり、地域のお年寄りに弁当を届けたりしてもいいと思う。町の清掃や美化を請け負って、その対価を行政からもらって、学校の運営費に充てることも考えられる。

 企業も労働時間は5時間までにし、3時間は研修時間にするなど、日進月歩の新しい技術やスキル、情報学習の時間を設けないことには、グローバルな競争時代を生き抜けない。

 また地域でも主婦や熟年の文化的要求を満たす文化教室などの活動も大切だ。生涯、元気に働き学ぶシステムを作り上げていくべきだということある。

 学習活動が中心の学園というのがあるとする。そこではただ単元単位制でたくさん履修したらいいというのではない。当然ゼミナールや研究会、シンポジウムが活発に開催され、さまざまな同好会なども作られ、充実した学園生活が送れるようにすべきある。

 私は、卒業というのは制度的に廃止して、職業上で通学できなくなった学生は、通信教育を受講するようにすべきで、一生学習プランを提示していくといいと思っている。

 型にはまった教育と単元単位制が結びつくと、既成の理論を暗記することで単位がとれることになり、学派とか流派の免許状みたいになってしまう懸念がある。もちろんそれらの知識や技能も必要で評価の対象にすべきだが、それに偏りすぎると、かえって創造的な知性が伸びなくなるのも確かだ。その点でも石塚さんに同感である。

 それでデューイのいうように理論は問題解決の道具であり、問題解決の実践的な集団学習によって創造的知性を養うように心がけることが大切だと思われる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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