今人類の生存基盤である社会が、近代世界システムの作り上げた「社会」もろとも解体・崩壊しかねない危機的状況にある中で、その危機からの脱却の道として「コミュニズム」が求められていることについて第1回で言及しました。ではここでいう「コミュニズム」とはどのようなものなのでしょうか。
ここでカッコを取ってコミュニズム=共産主義一般の起源の問題から入っていきたいと思います。エンゲルスの『家族、国家、私有財産の起源』をまつまでもなく、コミュニズムの原型は原始共産制です。ただし乱婚制や母権制が存在したかどうかは基本的にはコミュニズムの問題とは無関係といってよいでしょう。問題の核心はそこに所有制度が存在しないということだけだからです。では所有制度、さらにはその基礎となる所有概念が存在しないということは何を意味するのでしょう。
詳しい議論は省いて端的に結論だけいえば、それは原始共産制の社会を構成する基本原理が「贈与」だということです。例えば狩猟社会では、狩りの獲物を均等に分配します。狩りで誰がいちばん働いたかというようなことは考慮されません。しかもこの分配は狩りに参加しなかった女性や子ども、老人などにも及びます。それは明らかに贈与です。そして贈与の原理を通してその社会においては「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」コミュニズムの原理が具現化されるのです。もちろんこうした原始共産制は歴史的に見れば早い段階で消滅します。こうした原理を通して社会が組織されうるのは非定住少数集団の段階だけだからです。逆に言えば人類が定住を開始し、定住に伴なう農耕や牧畜が始まれば富の備蓄が始まり、それと平行して「財産」の観念や「財産の多寡」という格差の観念も生じてくるということです。にもかかわらず贈与の原理は原始共産制が消滅した後もしぶとく存続してゆきます。現代社会においても贈り物の習慣が残っていることなどはその証になるでしょう。ではなぜ贈与の原理は存続するのか。じつはコミュニズムの問題を考えるとき、このことがたいへん重要なポイントとなります。
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ここで贈与の原理の持つ意味について考えてみましょう。贈与というとふつう私たちはひととひとの間の贈与関係を考えます。しかし贈与の原理の根底にあるのはじつはひと同士の贈与関係ではありません。ここで贈与原理が成立する社会を別な側面から見てみましょう。贈与原理が、したがって原始共産制が成立する社会は、宗教的に見ると呪物信仰の支配的な社会です。いわゆるアニミズムやマナ信仰の段階の社会です。では呪物信仰とは何でしょうか。一言で言えば、それは自然と人間の未分性に根ざす世界観ということが出来ます。そして自然と人間の未分性は呪物信仰においては、人間がたんに自然と連続的であるというだけでなく、むしろ自然こそが人間の起源であり根源であるという認識へとつながります。そしてこの認識は呪物信仰においては通常、人間にも自然にも宿る魂(アニマ)の根源性というかたちで具体化されます。つまり人間も自然も根本的にはこの魂から贈与された存在であるという認識です。ところで贈与には必ず返礼(お返し)が伴います。それは、一種の債務関係といってもよいでしょう。かりに魂(この魂は次第に「カミ」と呼ばれるようになります)からの贈与によって自らの存在が生じたとするなら、人間はこの魂=カミに対して債務=負い目を負います。負い目は早く解消しなければなりません。この負い目の解消のために行われるのが返礼、つまり対抗贈与です。この対抗贈与を行うことによってはじめて債務=負い目は解消し、安定した秩序が保たれます。このことは具体的にはどのような事態を指し示しているのでしょうか。
原始共産制に対応する非定住採集狩猟社会の段階が過ぎ定住社会が出現すると、富の備蓄に伴ない財産が発生すると先ほど言いました。しかし問題はそれほど簡単ではありません。じつはこの富の備蓄と財産の発生と平行してもうひとつの重要な社会的実践が始まるのです。それは「消尽」あるいは「蕩尽」と呼ばれる行為です。ようするに蓄積された富を一気に費消する行為です。明らかにそれは富の備蓄と矛盾しますが歴史的に見るとそうなります。これは何を意味するのでしょうか。
この「消尽=蕩尽」が始まる段階は、宗教的には呪物信仰が儀礼-神話信仰の段階へと移行する段階に対応します。そこには「供儀(イケニエ)」も対応しています。そしてこの段階の社会には、具体的には定住に伴なう人口の増加や社会組織の拡大に伴い、それを統括する初期段階の王(首長)権が発生します。この段階において、先ほど触れた贈与と返礼の関係が極めて重要な意味を帯びてくるのです。人間が、あるいはその集団形態としての共同体がカミからの贈与であるとき、当然にも共同体はこの贈与に対して返礼を行う義務を負います。この義務の遂行のためには共同体とカミのあいだで何らかの接触、仲介が行われなければなりません。呪物信仰が高度になってきた段階で発生するカミの代理人であるシャーマン(巫覡)はそうした接触、仲介の専門家でした。それがより高度になったとき生じるのが王なのです。王は、共同体を贈与するカミの代理人として、そして共同体の側からいえばカミから贈与された存在として共同体とカミの中間に立ちます。そして王の最大の責務は共同体がカミに対して負う贈与された債務=負い目の返済(対抗贈与)の遂行にあるのです。このとき王自身がカミの代理人である以上、債務=負い目の返済は王自身に対して直接的には行われることになります。王が主宰する共同体の儀礼がその債務=負い目返済の場となります。そして重要なのは、共同体の中に過剰に蓄積された富がこの返済の原資となるという事実です。このことは共同体の構成員のより具体的な心理にそくすと、過剰に蓄積された富は、もしそのまま貯めこんでおけばカミに対する負債=負い目を放置することにつながり、共同体の存立を危うくさせる、というように捉えられているはずです。ここで重要なのは、贈与と返礼(対抗贈与)の原理が働くとき、富を蓄積すること、言い換えれば富を贈与と返礼のあいだの循環から引き抜いて滞留させることは、共同体にとって極めて危険な事態であるという認識です。
じつはこの贈与と返礼の義務はカミの側にも適用されます。カミもまた応分の返礼をしなければカミである資格が危うくなるのです。そうしたカミは容赦なく新しいカミにとって代わられます。例えば『今昔物語』などに出てくる猿神の話を想い起こしてみてください。滝の向こう側にある集落に迷い込んだ若者がその集落の長の家で歓待を受けるが、それは毎年山からやってくる猿神にイケニエとして奉げるためだったという話です。しかしこの若者はひそかに足のあいだに刀を隠しておき彼を喰おうとした猿神を逆に退治してしまいます。そしてこの若者がその後その集落の長になるのです。これは明らかにカミの交代の物語です。一方的に共同体の富を収奪するカミが新しいカミにとって代わられるのです。このことは具体的には王の交代として現われます。十分に返礼をなしえなくなった王は共同体の成員によって殺され新しい王が即位する事例は、人類学の泰斗であるフレーザーの『金枝篇』以来数多く報告されています。カミ=王もまた贈与と返礼の義務を免れ得ないのです。この場合カミ=王の返礼は「気前のよさ」として遂行されます。まさにここで富の消尽=蕩尽が行われるのです。しかもこの返礼は共同体内部だけでなく、西太平洋に見られる「クラ交換」のように共同体間でも行われます。贈与の原理は社会原理としてみた場合極めて普遍的なものであるといってよいでしょう。
ではなぜこうした贈与の原理が存続するのか。それは、「国家に対抗する社会」(P・クラストル)の維持のためです。共同体の上位に国家という絶対的な支配権力が発生し共同体の自立的な存立を危うくするのを阻止するためなのです。同時に重要なのは、その阻止のための原理が、所有原理を否定する贈与の原理によって行われるということです。贈与原理とそれを通した所有原理の否定のうちには、原始共産制に置いて純粋に維持されていた絶対的に平等な「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」社会構成原理が、もちろん大きくかたちを変えながらも保存されているという事実です。私は原始共産制を離れた「コミュニズム」の可能性について考える出発点をこの贈与原理に見たいと思います。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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