贈与と返礼の連環は別段特別なものではありませんし理想化されるべきものでもありません。それはときには暴力の応酬というかたちを取ることさえあります。しかしそこには国家の発生以降の政治的・社会的暴力のあり方とは決定的な違いがあります。そしてこの違いから逆に贈与と返礼の連環の持つ本質的な意味が見えてくるのです。
国家以前の氏族的社会においては共同体の内外で恒常的に戦争が行われます。もちろんそれは近代的な意味での戦争とは異なります。たいていの場合戦闘はかなり象徴的なものにすぎず殲滅戦にはなりません。ではなぜそうしたかたちにせよ戦争は行われなければならなかったのか。これに関してはピエール・クラストルの『国家に対抗する社会』や『暴力の考古学』における議論が参考になります。というよりも氏族的社会がつねに戦争を行う社会だったことを私たちに教えてくれたのがクラストルの本でした。
クラストルはこの本のなかでひとつの衝撃的なテーゼを掲げます。それは、未開社会(氏族的社会)において戦争は国家を形成しないための手段だったというテーゼです。近代の戦争はつねに国家の戦争であり、戦争の意味はまず何よりも国家と結びつけて考えられなければならない、という私たちの常識とはおよそ相容れない考え方がそこには示されています。戦争が国家を形成しないための手段だって?いったいどういうことなのでしょうか。
じつはそこには前回「消尽」「蕩尽」に関して述べたことと本質的に共通する問題が存在します。すでにデュルケーム以来、未開社会が分化や所有、それに伴なう格差・不平等を拒否する社会であったことが知られています。例え首長=王が存在したとしてもそれは絶対的な力を持っていないことは前回紹介したとおりです。つまり未開社会(氏族的社会)においては首長=王が存在することは必ずしも国家の形成を、言い換えれば垂直な上下関係に基づく絶対的な権威・権力の形成を意味するわけではないということです。
戦争の持つ意味について考える前に、暴力に関してもうひとつの例を挙げておきましょう。それは「復讐」の問題です。共同体の内部や共同体間で殺人や略奪が行われると(未開社会ではそれすらもが一種の贈与行為になります)、それに対する返礼としての復讐が行われなければなりません。そうしないと債務関係が残り共同体の秩序が不安定になるからです。したがって復讐を行うことは返礼=債務の返済として不可欠になります。そして重要なのは、この復讐を行うのが債務を負った(殺された・盗まれた)人間の同族のメンバーであることです。つまり復讐は共同体の公的な行為ではなく私的な行為として行われるのです。言い換えれば、復讐の権利はあくまで私的な同族集団に帰属するということです。ところで近代社会と未開社会を区別する大きな違いのひとつに「私的な復讐行為の禁止」があります。このことは何を意味するのでしょうか。おおきく言ってポイントは二つあります。そして両者は深く関連しています。
ひとつは復讐が私的な領域から公的な領域へと移し変えられるということです。この場合公的な領域が国家を意味するのはいうまでもありません。つまり復讐は国家の専権事項となるのです。債務は犯罪に置き換えられ、返礼=復讐は刑罰に置き換えられます。このことの根拠というか基準になるのが第二のポイントである法の支配になります。復讐が犯罪-刑罰のプロセスに委ねられるのは、国家の規範としての法が共同体を支配するようになるからです。法を通して復讐は同族集団から引き離され国家の犯罪処罰という公的行為に変容します。このことは別な観点からすると次のことを意味します。すなわち復讐行為によって象徴される同族集団の自律性、自治原則が、復讐行為の権利が国家に委譲されることによって根本的に否定されるということです。同族集団も国家の内部で支配の対象となるのです。その根拠が法であることはいうまでもありません。ここにおいて未開社会を貫いている自治原則に裏打ちされた自律性が消えるのです。それは同時に所有や分化、格差・不平等の容認へとつながってゆきます。逆にいえば同族集団に担保される復讐の権利は国家に回収されない私的な共同体の自律性の根拠であったのです。
じつは戦争の意味もここにあります。未開社会において戦争の意味は、暴力的な贈与と返礼の連環としての戦争を通して共同体の内部に強力な統一性が成立するのを阻止するというところにありました。共同体間の戦争にしても同様です。ある共同体が突出した強さを備えて他の共同体の上に君臨するという事態を避けるためにこそ戦争が存在したのです。つまり戦争は共同体が国家形成に向かう上からの統一化を阻止し、自らの自律性を維持し続けるための手段だったのです。近代国家を前提とする領土獲得(所有)のための戦争とちょうど正反対の意味を未開社会における戦争は持っていたということです。その根底に贈与と返礼の連環を通した所有原理の否定が存在したことはいうまでもありません。視点をずらすと、このことはルネ・ジラールや今村仁司が考察しようとした「満場一致の暴力」「第三項排除の暴力」の拒否を意味しています。共同体の満場一致の暴力、つまり第三項排除の暴力によって排除された対象はマイナス項をプラス項に置き換えると王になります。この王は排除の聖痕を帯びることによって取り替え可能な「弱い王」とは異なる、永続的な「強い王」となります(この意味で暴力の犠牲者と王は意味論的には等価です。このことは聖とケガレの相互循環として現れます。国家成立の一つの意味はこの循環を断ち切り、聖とケガレの違いを固定化するところにありました。天皇制と被差別部落の関係はこの視点から捉え返されねばなりません)。このあたりは氏族的社会の段階における多神教が国家段階における一神教へと推移してゆく過程とオーヴァーラップさせることが出来るでしょう。多神教のカミの脆弱性に比べはるかに強力な、絶対的ともいえる権威を備えた「神」が一神教とともに誕生しますが、それと満場一致の暴力、第三項排除の暴力によって誕生する新たな王の持つ性格は重なり合います(歴史的に見ると、それは紀元前14世紀のエジプトにおいて唯一神アトンの信仰を確立しアマルナ王朝の創始者になったトゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)の父アクエンアテン(アクナトン)から始まります)。
とはいえこうした国家の形成(一神教の成立)は決して単純なかたちで進行したわけではありません。例えばアマルナ王朝は早くも息子のトゥト・アンク・アメンの時代になると変質し、結局氏族的社会の延長上にある貴族・神官支配の秩序へと回帰します。古代ギリシアは統一国家なき都市国家連合でした。その時代はアレクサンドロスの世界帝国によって終わりますが、その後のローマ帝国においても私たちの常識に反して属州の自治の原則が維持されます。神聖ローマ帝国の時代の中世ヨーロッパにおいても皇帝は存在しましたが、たえず自治の拡大をねらう諸侯の蠢動によって強力な統一性を形成することは出来ませんでした。このように共同体の自治原則、自律性を否定する国家=王(皇帝)の統一性の形成はスムーズに進んだというよりはつねに紆余曲折を繰り返したというべきです。そしてその根底にあったのは、歴史の深層に贈与と返礼のプロセスへと回帰しようとする反所有・平等への強い志向が存在し続けたという事実です。それは一神教の内部でさえ生じています。原始キリスト教生誕期に発生したエッセネ派と呼ばれる徹底した無所有と原始共産制を主張するユダヤ教集団などはその一例ですし(彼らの存在はクムラン洞窟で発見された「死海文書」によって知られました)、12世紀のヨーロッパに登場したアッシジの聖フランチェスコが無一文・清貧を主張して始めた宗教運動はたちまち多くの信者を獲得しました。さらにはルターが始めた宗教改革運動の過程で生まれた再洗礼派ラディカルズの運動も、完全な財産の共有と平等を掲げたミュンスター千年王国に象徴されるように一種の共産主義運動といえると思います。このように反所有・平等への志向は繰り返し歴史のなかに登場します。そしてその根底にあるのが贈与と返礼の連環への回帰の志向なのです。柄谷行人は新著『世界史の構造』でこれをフロイトにならって「抑圧されたものの回帰」と呼んでいますが、この「抑圧されたものの回帰」にこそコミュニズム運動の有力な源泉を見ることが出来ると思います。