危機から「コミュニズム」へ 第4回

「抑圧されたものの回帰」としての贈与と返礼への志向が、具体的には反所有・平等への志向として歴史のなかに繰り返し現れてくることは、「コミュニズム」とは何かを考える上でたいへん重要な契機となります。人類史は、一方で富の拡大と蓄積を求め、そのための手段として資本制メカニズムや国家を生み出しました。私たちが現に生きている社会がそうした人類史の志向の結果であることはいうまでもありません。だがその一方で人類史は、そうした志向に対抗するかのように、繰り返しそうした富の拡大と蓄積を破壊しようとする反所有・平等への志向もまた生み出してきたのです。このことは、人類史のなかで「コミュニズム」の潜在的な可能性が決してなくならないということを意味します。それは、富の拡大と蓄積に向かう上でもっとも洗練された、もっとも強力なシステムである「資本=ネーション=ステート」(柄谷行人)の三位一体のうえに築かれてきた「近代世界システム」(I・ウォーラステイン)が2001年と2008年のふたつの事態を通してはっきりと終焉へと向かい始めた今、あらためて大きな意味を持ちます。

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 ここで本格的に来るべき「コミュニズム」の問題について考える前に、もう一点だけこれまでのコミュニズムの歴史のなかで生じた問題についてふり返っておきたいと思います。

 歴史的に見た場合、コミュニズム運動がもっとも活発に展開されたのは宗教の領域でした。これは、宗教が生み出す幻想的な共同性、共同体が現実の社会に存在する貧困や不平等の対する強い批判や反措定としての意味をたやすく帯びるからだと考えられます。前回触れた古代ユダヤ教のエッセネ派から中世カタリ派を経て宗教改革時代の再洗礼派へ至るユダヤ-キリスト教の異端の流れ、あるいは日本の一向門徒集団などその例は枚挙に暇がありません。

 ところでこうした宗教的コミュニズム運動の源流をたどってゆくと、古代オリエント地方で生じたひとつの宗教的傾向に行き着きます。それはマニ教やゾロアスター教、さらには原始キリスト教における「グノーシス(ギリシア語で「知識」を表わす)」派などに現れている傾向です。

 そこに共通して見られるのは、真理と非真理、善と悪、光と闇、霊と肉といった対立要素からなる強烈な二元論です。そして重要なのは、両者がたんに対立して並存しているわけではなく、たとえば悪は善の、闇は光の、肉は霊の一挙的な顕現、つまりは「啓示」によって完璧に滅ぼされるとされていることです。先ほど触れた「グノーシス」という言葉は、まさにこうした啓示の神秘的瞬間を表わす言葉に他なりません。別な言い方をすれば、神は真理や善や光や霊として、非真理や悪や闇や肉(この肉は基本的には被造物という意味になります)に満ち満ちているこの世に啓示という形をとって顕われるということです。そしてこの神の啓示に触れた瞬間この世のすべてのものが一挙に破壊され滅んでしまうのです。

 このイメージの背景には、旧約聖書にあるソドムとゴモラの物語に象徴されているような古代オリエント都市国家の富裕と奢侈の問題があったと思います。人類史上最初に農耕文明および商業文明が始まった古代オリエント地方、いわゆるメソポタミア地方は、ティグリス=ユーフラテス川の流域に広がる肥沃な場所でした。そのため早くから膨大な富の蓄積が行われ、それに伴なって強力な王権が形成されます。ジッグラドと呼ばれるピラミッドをしのぐ規模の巨大建築――「エデンの園」のモデルだといわれています――、あるいはやや時代が後に下がりますが、古代バビロニアの暴君として名高いネブカドネザルニ世が作ったといわれる「バビロンの空中庭園」などは、そうした豊かさや強力な王権のシンボルでした。

 ところで先ほど触れたソドムとゴモラの物語を見ると、商業によって栄え奢侈と性的放縦が横溢していたこのふたつの都市は神が天から下した火と硫黄によって焼き尽くされて滅んだと書かれています。両都市とも死海のほとりにあったと考えられるのでやはり古代オリエントの都市国家だったといってよいと思います。その都市国家に下された神罰は、欲望をほしいままにして貪婪に富と快楽を追い求める人間社会に対する懲罰でした。この神罰の構図はどこか前回触れた、ひとつの共同体に富と力が集中して他の共同体を支配するようになり、結果として国家が形成されることを阻止するために戦争を行う氏族的社会の構図と似ていませんか。そしてこの神罰の構図が先ほど言及した二元論の本質となるのです。こうした発想が古代オリエントの富裕と奢侈を背景にして生まれたのでした。

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 こうした神罰の構図には、ふくれ上がる富やそれに伴なう不平等、不正を反所有・平等への志向(贈与と返礼への志向)によって正そうとする原始共産制の遺風が感じられます。その限りではこの神罰の構図もまた宗教的コミュニズムの現われと捉えることが出来ます。問題は、ソドムとゴモラの物語にあるようにそうしたコミュニズムへの志向が、極めて苛烈かつ暴力的なイメージを通して、しかも一挙的に下される神の審判という形で現れてくることです。じつはこうした発想は旧約聖書を通してユダヤーキリスト教の伝統に取り込まれてゆきます。そのもっとも典型的な例が新約聖書のなかのもっとも特異なテクストといってよい「ヨハネの黙示録」です。そこには、この世の終末の日に神が軍勢を率いて光臨し、古い世界を滅却したうえで、それまで虐げられてきた義人(正しい人間)と悪をほしいままにしてきた人間を選別し、義人だけを新たに誕生する義の王国(千年王国)へと救いあげ、悪に染まった人間は地獄へと追いやる、というストーリーが描かれています。

こうした「ヨハネの黙示録」の神罰のイメージはその後、ユダヤ-キリスト教の伝統に底流する終末論、あるいは千年王国論と呼ばれる傾向へと受け継がれてゆきます。

 たしかにこの世には数々の不正や罪悪が満ち溢れています。だとすれば、そうした不正や罪悪への怒りが生じてもおかしくないはずです。とくにそうした不正や罪悪によって痛手をこうむった貧しい人々や虐げられてきた人々が、この耐え難い不正や罪悪を一刻も早く正してほしいと願うのは当然のことです。しかしそうした願望が、この世を一挙に滅ぼしてしまうような激烈な神罰への願望となるとしたらどうでしょうか。事実終末論やメシア主義はそうした傾向を帯びがちでした。そこに底流するのは、ニーチェの言葉を使えば「ルサンチマン」の感情です。自分より豊かなもの、自分より恵まれたものへの強烈な嫉妬と、それに根ざした破壊衝動が「ルサンチマン」の感情の源泉に他なりません。そしてヨーロッパの歴史を見ると、このルサンチマンの感情と結びついた終末論、千年王国論への志向が、現代にまで至る革命への志向のもっとも深層にある情念や欲望を形づくってきたことが明らかになります。それは、ノーマン・コーンの名著『千年王国の追求』やエルンスト・ブロッホの『革命の神学者トーマス・ミュンツァー』、『この時代の遺産』などによって示されています。

 たしかにこのルサンチマンの感情は革命の、さらにはコミュニズムの有力な源泉となっています。しかし同時にこのルサンチマンはナショナリズムや反ユダヤ主義、つまりは全体主義の源泉でもあります。千年王国論の源流というべき中世の神学者ヨアヒム・フォン・フィオーレが、ナチスの代名詞である「第三帝国」という言葉の発明者だったことはその意味でとても象徴的です。だとするならば、このルサンチマンの感情、あるいはそれと結びつく古代オリエント以来の霊肉ニ元論に彩られた終末論、千年王国論はきわめて両義的なものであり、あえていえばたいへん危険なものであることになります。わたしたちのコミュニズム問題に引きつけていえば、こうした傾向は武力革命によるコミュニズムの一挙的実現への志向と結びつきます。ロシア革命も、中国革命も、クメール・ルージュの革命も基本的にはこうした志向の産物でした。それがいかなる結果を生み出したかはすでに歴史が教えているところです。スターリンの粛清が約700万人の犠牲者を出し、文化大革命が約5000万人の、クメール・ルージュの革命とその後の粛清が人口450万人のカンボジアでじつに150万人の犠牲者を出したという事実は、ルサンチマンの感情に根ざす終末論、千年王国論に源流を発する武力革命論がいかに危険で破壊的なものかを物語っています。しかもそれによって現代社会にはコミュニズムへの先験的ともいえる恐怖と嫌悪が刷り込まれ、そのためにあるべきコミュニズムをめぐるオープンな議論が極度に困難になってしまっているのです。

 したがってあるべきコミュニズム像からは基本的に終末論的・千年王国論的傾向が取り除かれなければなりません。それは武力革命によるコミュニズムの一挙的実現という発想を完全に捨てるということと同義です。誤解がないようにつけ加えておきますが、そう言ったからといって、様々な場所で起こる自然発生的な実力行使や蜂起まで否定するというわけではありません。問題はあくまでコミュニズムの実現にあたって終末論的・千年王国的な一挙性、暴力性が否定されなければならないというところにあるのです。このことがこれからのコミュニズムをめぐる議論の前提にならなければなりません。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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