原爆B29撃墜の夢

著者: 岩田昌征 いわた・まさゆき : 千葉大学名誉教授
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八月は戦争を思い、考え、語る月のようだ。大東亜戦争開戦の月、十二月よりも心にかかる負担は、やや重いようである。

私は、昭和13年7月生まれであるから、終戦の年、昭和20年は、国民学校1年生であった。昭和19年に東京世田谷の我家、現在私が生活している家から、父を残して、母と兄弟と埼玉県幸手町へつてを頼って疎開していた。一軒屋を借りていた。

その町の何とかと言う寺に東京から子供達が学校単位の集団疎開で宿泊していた。ある日、御米ではなかったと思うが、御団子を相当多量につくって御寺にとどけたことがある。その御礼としてその国民学校の先生方から帳面や鉛筆等の筆記用具を沢山いただいた。そのおかげで、私が中学を卒業するまでは、それらの帳面や鉛筆を使って、終戦後の粗末な紙質のノートや折れ易いペンシルを文房具屋で買い求めることはなかった。戦前のピカピカ、テカテカした紙質の立派な帳面を用いていた。

東京空襲が始まると、B29の大編隊が頭上をゆうゆうとゆっくり飛び来たり飛び去って行くのを、家の近くの靴下工場の材木置場につまれた材木の上に仰向けに横たわって、見上げていた。何日もそうしていた。私達子供達は熊ケ谷あたりにあると言う飛行場から零戦や隼が舞い上り、B29を撃墜するのを心待ちにしていた。もっとも、あんな大きな重爆撃機は体当たりでやるしかないと、子供心にも知っていて、体当たりを願っていた。噂があって、日本の戦闘機が体当たりをしかけたが、跳ね返されて墜落してしまったとも聞いた。それでも体当たりを願っていた。戦時中の子供心は残酷なものである。自分達よりも十歳位年上の御兄さん達が大切な命を散らすのだとは、実感していなかった。

終戦の翌年の4月、国民学校の担任の女の先生から「明日は、墨、硯、筆を用意して来なさい。」と言われた。翌日は、先生が指示する教科書の諸箇所を黒々と塗り潰す作業であった。国民学校2年生になった私達にはその意味が全く分かっていなかった。何の感慨もなかった。後年になって知ったことだが、上級生や中学生は、その行為の精神的意味をつかんでいて、彼等に軍国主義教育をさずけた先生達やその上に君臨した日本国家に対して不信感を心に深く刻み込まれたと言う。昭和20年に1年生だった私達は、精神的な意味の軍国主義が心に彫り込まれる以前の状態にあった。教科書の墨塗りは単なる手技にしかすぎなかった。軍国と言うより愛国少年であった。

肝腎の8月15日であるが、東京の家を守っていた父はいなかったと記憶するが、家族全員が居間のラジオの前に正座して玉音放送を聞いた。私には放送がよく聞きとれず、意味不明のまま途中で座をはずして一人家の前の通りに出た。異様な感じに襲われた。人っ子ひとりいなかった。人影も物音もなかった。ただただ完璧に蒼い空があった。家々の影が黒かった。これが私の終戦であった。悲しみもなければ、安堵もなかった。敗けたと言う実感もなかった。何かが起こったのであった。数ヶ月後、近くの日光街道の杉並木の下でとまったジープにのった米兵のMP(?)を見た。あえて言えば、その時が私にとっての敗戦なのであろう。

私が戦争中の生活に関してではなく、戦争に関して持っている知識は、すべて戦後に得たものである(注)。空襲に関してさえ、小学校4年(あるいは3年)で東京に戻って、我家のすぐ裏まで一面の焼け野原になっているのを見て、しょう油びんがくにゃくにゃになって転がっているのを見て、実感したのである。

ミッドウェー海戦の例の「魔の20分」にせよ、零戦や隼やグラマンを上まわる性能の紫電改の勇戦にせよ、広島と長崎の原子爆弾にせよ、すべてブッキッシュな、あるいは戦後映画による知識である。でありながら、そのようなシーンを読んだり観たりすると、昭和19年、20年の愛国少年の心にもどってしまう所がある。

本土防空戦闘機隊紫電改の勇戦を観ると、どうしてあの重量ある原子爆弾をかかえて鈍重なB29を広島と長崎の上空で紫電改全機が体当たりしてでも撃墜してくれなかったのか、と妄念が心に湧いてくる。

(注)唯一の例外がある。疎開する以前、隣家の高月中将が大陸で戦死した時、私達おさな児は、「支那人(当時の呼称)は卑怯だ。便衣がうしろから射った。」とおこっていた記憶がある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion1415:130814〕