原理主義を超えてーサルの逆襲

権力か反権力か、戦争か平和か、資本主義か社会主義か、二項対立の原理主義の罠にはまったエリートに一抹の日本将来不安。

 

人権に限界をつけず、その豊かな可能性を追及することは今後の重要な基本的課題をなしている。現在からみれば、人身売買が基本であった慰安婦問題などに限らず、国民徴兵制すら明らかに人権侵害であった。(資本主義本来の賃労働制度、これがいかに基本的人権を疎外するものであるかは、マルクスのいうとおり)。過去の人権侵害について大いに反省し今後に向けて基本的人権を豊かなものしていくことはやはり努力すべきことだ。この場合に注意すべきことは、いかなる人権も、基本的に国家権力によってこそ保証されているということの国家論の基本的理解である。弁護士さんたちはそれを前提に法律技術的に国家制度の理想的現実を追及するに過ぎない。野田医師も弁護士も反権力だ、それがその存在の絶対的な意義などとこのエリートは何を言っておるのか。国家や企業や地方団体の長のすねをけったくるようやくざなまねをして、反権力的政治を演じて、専門家としての責任を問われれば、あれは反権力の立場からちょっと表現の自由をやってみただけだ、というようなことを、専門家はすべきでないといっておる。専門家には表現の自由はない、というのは、専門家は専門的な発言に自ら責任を持つということに尽きる。野田医師が表現の自由で勝訴して満足しているようならば、それは専門家として恥なのだというような、専門家としての矜持はあるのかどうかが、疑問なのだ。

サルは二度ほど野田医師の講演を拝聴したことがある。一度は、こう鬱材の話で、薬は使わない方がよい、という話には納得して感動した。もう一回は、戦争中宗派をとわずすべての宗教エリートが総力戦体制にエキセントリックに協力したという、戦争と平和の二項対立から徹底的に糾弾する話。これには愕然とした。これでは、野田医師の専門性いかんを問わず歴史認識にも歴史批判にもならない。二次大戦といったものを原理主義的に割り切るこの人間としての無感覚・無神経に到底ついていけないと思った。このエリートも、現首相に歴史をきちんと教えられなかったと悔いているようだが、原理主義的歴史については、高校生は初めからばかにして、決してダメ教師からは学ぼうとしなかったというのが真相に近いかもしれない。