現在、私たちが多少の恐怖心を抑制しつつ見守っている福島原発凶事に関して、数年前に出版された小冊子『原発を並べて自衛戦争はできない』(山田太郎著)は、素人にとって必読書ではなかろうか。
―原発で最も危険なのは、原子炉そのものではなく、核反応が十分に起きた核燃料、特に、・・・、使用済核燃料なのである。・・・(燃料プール)の中にたまった膨大な放射性物質が万一環境に放出された場合の危険性は言葉で表現することも至難なくらい大きい(p.5)。
―燃料プールは、原子炉格納容器の外側で原子炉建屋の最屋上階にある。つまり燃料プールの上には建屋の天井があるのみである。・・・つまり、ごく小さな通常爆弾に対しても無防備といってよいであろう(p.11)。
今日私たちは、原発技術者山田太郎氏の数年前の警告を身にしみて実感している。人間が意図的に引き起こす戦争ではなく、大津波という自然による攻撃であったからこそ、現在レベルの災厄で済んだともいえる。とはいえ、現在の災厄も「想定外」の大悲劇であるのだが。
かつて、北朝鮮が核実験をする数年前、北朝鮮に軽水炉建設の援助をするか否かで議論があった。私、岩田には、北朝鮮に敵対的な立場の人々がその援助に反対であったのが不思議であった。ピョンヤンを囲むように数基の原子力発電所を建設してあげれば、平和時にピョンヤン市民の福祉向上になるだろうし、有事の際には原発へのピンポイント爆撃による致命的破壊がありうることを北朝鮮当局に認識してもらえれば、戦争抑止力になるはずなのに、と語っていたものだ。私、岩田は、地震その他の自然災害が全くないとしても、人間社会に戦争の可能性がある限り、原子力の平和的利用=原子力発電所には反対であり、原子力の軍事的利用=原子爆弾に対してはその保有の正負を思索中である。平和的利用とは、大量の核反応を常時持続させることであり、有事の際に最も危険である。原発とは、敵国ないし敵一般のために自国内に核地雷を設置してあげるようなものであり、かつそれを起爆させるか否かは、敵国ないし敵一般が判断し決定する。それに対して、原爆は、平時において核反応が不在であり、有事の際、敵国民の頭上で起爆させるか否かは、自国の判断による。すなわち、自分たちの理性を働かせる余地がある。
そんなことを考えていたから、今日の凶事を目撃して山田太郎氏の冊子を再読した。
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