6月11日(土)の反原発デーにシンポジウム「福島第一原子力発電所の事故を通して、世界のエネルギー・環境問題を考える」(関東弁護士会連合会・日本弁護士連合会主催、弁護士会館2階)を聴講した。
後藤政志(元東芝原子炉格納容器設計技師)と林勉(元日立製作所原子力事業部長)の対論、そして飯田哲也(環境エネルギー政策研究所所長)と小野章昌(元三井物産原子燃料部長)の対論がシンポジウムの主軸であった。
四氏の肩書きから推察されるように、後藤と飯田が原発封印派であり、林と小野が原発温存派である。
後藤と林の闘論の勝負は、前者に軍配を上げざるを得ない。後藤は、原発技術には諸他のエネルギー源と比較すると本質安全が不在であると主張し、その主張を技術具体的に説明しているのに対し、林は原子炉固有の安全性として自己制御性を抽象的に指摘しつつも、具体的にはいわゆる五重の壁を再説するに留まる。林は、いわば絶対に墜落しないジャンボ機が可能であると言いたいが如くである。勿論、そんな事は不可能であるから、墜落の危険性があるが故に、ジャンボ機を利用しないとすれば、どんなマイナスが経済社会に降りかかるのかの方向へ論を進める。CO2問題であり、エネルギー問題である。後藤が原発に焦点をしぼってその本質安全の欠落を説くのとは異なって、林の方は、原発から視線をずらして、原発温存を説く。ちなみに、ジャンボ機云々は、私の語法であり、林がそう言っているわけではない。後藤の言う本質安全とは何を意味するのだろうか。私なりに考えてみた。例えば、家火事の場合、ガスもれ警報、ろう電防止、子供の火遊び注意、耐火材使用など何重もの安全装置がついている。不幸にしてそれが突破されて火事となる。消防車がやって来て消火活動をするが、水不足で手の打ちようがなくなり、延焼し、大火事となる。そんな最悪の場合でさえ、燃える物がなくなって自然鎮火の原理が働く。しかしながら、原子力事故には自然鎮火がない。永遠の消火活動が必要となる。もしも、このような理解で本質安全をとらえるとすれば、林はこの問題に全く答えていない。
それ故、林は、小野の「自然エネルギーの限度」論へバトンタッチし、原子力エネルギーの必要性の強調で原発を守護する。飯田は、「戦略的エネルギーシフト」を論じて、再生可能エネルギーの未来が制度政策次第で基本的に明るいと説く。飯田は小野に対論することで、後藤を助けることになっている。私の見る所、再生可能エネルギーをめぐる飯田と小野の対論勝負は、両者の言い分と根拠にそれなりの理があるように見え、引き分けか取り直しのように見える。しかし、仮に小野の主張に分配を上げたとしても、実は、後藤対林の対論で林が優位に後藤が劣位になるわけではない。原子力エネルギー供給が消えた分だけ再生可能エネルギーで補填できないと言うだけの事であって、本質安全な諸エネルギー源の供給天井を制約条件とする経済生活・産業構造を新構築すればよいだけの話しである。もっとも相当に苦しい事業であろうが。
ところで、私は、このシンポジウムの質問意見用紙に次の如くに記しておいた。①過去40年間に三度の原発大事故(スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマダイイチ)を経験したが、これからの40年間にやはり三度の原発過酷事故が起ると予想するのは自然か、不自然か。②核拡散防止条約と同じく、外交努力によって原発拡散防止条約締結を国際社会に働きかけるべきではないか。②についてだけ、ここで補足説明をさせてもらおう。私見によれば、原爆とは燃えていない核物質の保管であり、原発とは燃えている核燃料の保管であって、人間による理性的制御の可能性に関して、後者の方が前者よりはるかに小さい。前者に国際条約がある以上、後者にもあって然るべきであろう。もう一つ、経済的理由がある。ドイツ、イタリー、日本の旧三国同盟諸国が原発廃止に向かったとしても、旧連合国の米、英、仏、露、中、印等が原発推進策を継続すると、次の過酷事故が起きるまでの数十年間、経済の国際競争力は原発使用国に有利となろう。これは、全人類にマイナスの作用を及ぼす本質不安全なエネルギーを用いる一種の不公正競争であるから、国際条約で歯止めをかけるのは自然であろう。
「ちきゅう座」では原発温存派の力作が登場しない。これはメディアとしては不自然であろう。正論だけを読んでいても、思考と行動、すなわちあたま・こころとあし・こしはきたえられない。その意味で、6月11日に弁護士会のシンポジウムに出向いたのは良かった。
平成23年6月17日(金)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1473:110621〕