河内謙作弁護士の「挙証責任(立証責任)は訴えた民衆(原告)側にある」との「司法論理」を紹介したことに対し、吉田魯参氏が反論されましたが、私(諸留)も全く、吉田魯参氏の指摘に同感です。
我が国の司法の「逆転(逆立ち)した司法論理」は、原発訴訟以外のその他の法理論でも、堂々と展開されてきています。
水俣病裁判でも、当初は「原告(被害者)側に立証義務がある」の線で、司法側も押し通そうとしました。しかし、立証には多額の訴訟費用を要するのみならず、水俣病との苦しい闘病と平行しながら、高度な分析化学の知識や、各種の疫学的実験データーの検証や収集などなど・・金銭的及び精神的に、大いなる過酷な負担を、不知火海沿岸零細業民や地域住民被害者たち(原告側)に強いることになりました。
その為、従来の司法界での「常識」とされてきた「過失責任論」ではなく、いわゆる「無過失責任論」が司法の判断基準として、新しく導入された、という画期的な転換がなされてきたという経過があります。
今回の福島第一原発事故においても、当然、この「無過失責任」を司法にも認めさせる方向で、市民運動をもっていくことが当然のことです。
私(諸留)は河内謙作弁護士が、いかなる立場の人物かは知りませんが、彼が、原発推進派の片棒を担ぐような人であったり、原子力ムラの「お抱え弁護士」であるなら論外です(相手にする気もありません)。
しかし、そうではなく、少なくとも、今回の福島第一原発事故の「国策」によって被害を被った国民大衆を救済する側に立つ市民派の弁護士であるなら、電力会社や政府の横暴とそれに阿諛迎合する司法に対し闘おうともせず、いきなり、最初から「不法行為においては被害者が加害者の故意・過失を立証しなければならない」とする、『過失責任主義論』を持ち出すなどとは、市民派弁護士とも思えない、愚かな発言だと言わねばならない!
現在の我が国の司法は、過去の一連の原発訴訟を概観するだけでも明白な通り、司法の機能を果たしていない。我が国も司法も原発ムラ、ベッタリである。
電力会社や国側の資料だけに全面依存し、司法としての自らの判断を回避させ、かっての砂川判決での「統治行為論」(「逆立ちした法理論」)を彷彿とさせる、「行政府が進める国策の原発事業に司法が口出ししないのが三権分立村長の原理からも当然」を根拠として、原発停止の訴えを全て退けてきた民衆蔑視、三権分立を空洞化させてきている現行のお粗末な我が国司法界であっても・・だからといって、そんな民衆蔑視の司法と闘おうともしないのは、納得できない。
最初から「過失責任主義」(不法行為において損害が生じた場合、加害者がその行為について故意・過失が無くても、損害賠償の責任を負うとする)の法理論を振り回すのは、実に情けない。
まして、原発の場合、今までにも多数の人も指摘してるように、事故原因解明に繋がる重要な資料・データ・解析結果・現場調査報告などなど・・それらのほとんどが、未だ電力会社側(被告側)が握り隠匿し続け、公開を拒み続けてきているのだから!!
なおさら「無過失責任」の線で追求すべきだし、法廷闘争の戦術としてもそうあるべきである!
最終的に勝訴し得るか、敗訴となるか・・の見通しの点で、「戦術的には(仕方がないけど)「過失責任」で闘ったほうがより勝ち目があるからやむを得ないけど・・」との、訴訟技術論的・戦術論的に「過失責任論」云々・・・を持ち出すというのであるなら、また多少は理解できるが・・。
しかし、今回の河内謙作弁護士の主張には、そうしたニュアンスすら、全文熟読しても、どこにも全く見いだせなかった!
低線量被曝問題を始め、原子炉の設計構造やその運転操作なの現場での運用などなど・・・これを放射能汚染被災者住民側に、立証責任を負わせる事自体、犯罪的行為である!
福島第一原発事故の将来の訴訟で、「無過失責任」を司法が、もし、採用できないとすれば、吉田魯参氏も明晰に指摘してる通り、
「そうした判断もできないような裁判官・官僚(公僕)はその資格無し」として
主権者である私たち国民が堂々と罷免を要求すべきである。
今、問われているのは、法律や科学技術などの専門的知識というより、民主主義の根本をしっかり自分の手に奪い返そうとする健全なる「素人にも解る当然の常識」である!
私たち市民の「常識」が問われているのです!!
河内謙作弁護士に猛省を促します。
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