口先だけのセールスマン-はみ出し駐在記(追補)

生産能力が消費能力を超えて、作れるから売れるから、売れるから作れる時代になって久しい。かなりの時間が経ってはいるが、人の考えや社会一般の通念が社会経済の変化に追い付かない。七十年代の日本では、技術屋(作る方)が事務屋(売る方)より社会的な地位が上と多くの人たちが思っていた。(今でもそうかもしれない)  機械を作る機械を製造している工作機械メーカにおいてはなおさらで、事業の中心には技術屋がいて、事務屋はその周りの使い走りのような立場に置かれていた。

だらしのない駐在員だったが、昔ながらの社会通念を引きずった日本人、技術屋としてのプライドがあった。エンジニアだと(でありたいと)思っているのに、スーツを着ているだけで、セールスマン(事務屋)によく間違えられた。セールスマンではなくエンジニアであることを伝えたとき、技術屋であることに誇りをもった口ぶりに、アメリカ人の否定的な反応が返ってきたとことがある。否定的な反応に、当初は腑に落ちないですんだが、だんだん、そりゃないという割り切れない気持ちになった。

工業でも農業でも巨大な生産力を誇るアメリカでは、既に売れるから作れるが常識になっていた。製造業においても事務屋が中心にいて、何をするのかを決めるのは事務屋で、技術屋は事務屋が決めたことを最低限のコストでやる-製造するのが仕事になっていた。事務屋が技術屋を仕切っていて、社会的な地位も事務屋の方が技術屋より上だった。

事務屋のなかでも大きな力をもっていたのが、日常的に客と接して、「売る」仕事をしているセールスマンだった。一消費者として接するセールスマンの偏った-日本人の感覚では奇形化した-知識と能力のありようには驚きを超えて呆れかえった。

赴任早々、M先輩につれられて車のディーラーをあちこち回った。どこでも出てきたセールスマンは売っている車の仕様についてほとんど何も知らない。何もしらないくせに、客を取り込む口先の滑らかさだけは一人前の、ただそれだけの人たちだった。セールスマンの御託を拙い英語の能力で聞き取ろうとしたが、聞き取ったところで、内容が乏しいというよりなにもない。排気量は知っていても、馬力は、数値を知らないという以前に馬力とは何かすら知らない。車の仕様も価格も車の窓に張ってある仕様書に書かれている。セールスマンと話さなければならないのは、表示価格からいくら値引けるかだけだった。

 

痩せこけて、猫背に胴長短足、日本でも既製服がしっくりこないから、イージーオーダーだった。アメリカにきて、スーツをと思ったが、注文服屋にゆく度胸はない。ニューヨークで既製服は合いっこないだろうと、期待しないでちょっと高級な紳士服屋に行って、うれしい誤算があった。こんな体型の者にも、ちょっと手を入れれば着れる既製服があった。

店に入って、あれこれ見始めたら、セールスマンが話しかけてきた。口ぶりからして、いくら売ったかで給料が決まるコミッション制のセールスマンなのだろう、車のセールスマン以上に口が上手い。客の好みを聞き出して、余程変わった嗜好の人でもなければ、かなりのレベルで話をつないでくる。うまく乗せられて、フツーのアメリカ人には高級ブランドのスーツを買った。買わされたという気にはさせないうまさがあったし、頼んだちょっと面倒な手直しもきちんとしてきた。出来上がってきたスーツには満足したが、手直しはしたのは仕立て屋で、セールスマンが何をしてくれた訳でもないと思っていたし、今でもそう思っている。

数か月後に、またその紳士服屋に行った。前に世話になったセールスマンは接客中だった。あれこれ見ていたら、別のセールスマンが声をかけてきた。前のセールスマンと話をしなければならない理由はどこにもない。きちんと対応してくれれば、誰でもいい。手直しの要求を理解して仕立て屋につなげるだけのことで、フツーの知能レベルがあれば事足りる。

前に世話になったセールスマンが接客を終えて、別のセールスマンと話をしている間に割り込んできた。その日本人はオレの客だという主張だった。セールスマン同志でちょっと言い合って、別のセールスマンが引いた。言い合いを横で聞いていて、それがアメリカの一般的な、ちょっと高級な紳士服店の仕事の仕方なのかと呆れると同時に、誰の客と決めるのはそっちの都合で、客であるこっちの都合はどこにあるんだと、腹が立った。

数ケ月前にあんたに世話にはなったが、手直しをしたのは、あの奥に座ってもくもくと作業をしている仕立て屋(技術屋)じゃないか。話をつないだだけのあんたに特別な付加価値を見出しているわけじゃない。今日はじめて話をしたセールスマンの方が、あんたより話が通りやすいかもしれないし、気の利いたアドバイスもくれるかもしれないじゃないか。極端に言えば、手直しをしてくれる、あの仕立て屋と直接話ができれば、あんたも今日のセールスマンもいなくても一向に差し支えない。

そこでは、手直しの仕立て屋が技術屋で、セールスマンが事務屋に相当する。客との接点にはセールスマンが立って、客が何を求めているのかを整理して技術屋に伝える。何も特別な事じゃない。仕事をするのは技術屋で、事務屋はその使い走りをしていればいいというのは、製造業が主体の社会から引きずってきた社会観のせいだけではないと思う。変わらない社会通念を引きずっている日本人には、セールスマンに認める価値が見つからなかった。

一歩さがって、その使い走りが何をするのかを決める-判断するのだから、セールスマンの方が重要なのだという主張があるのも分かる。分かりはするのだが、その主張を受け入れるにはセールスマンの知識があまりになさすぎる。客に対して、曲がりなりにも店なり企業を代表して接する立場にいるセールスマンがただただ調子よく、口先でペラペラじゃ通らない。

自分の価値を主張するのは自由だが、主張された価値を認めるかどうかの判断は、相手がすることで、価値を主張している人がすることではない。この当たり前のこともわきまえずに、主張する価値など価値でもないだろう。

上っ面の調子のいい話しかできない、奇形化したアメリカ社会の一つの現れとしてのセールスマン、幸い英語の勉強の相手くらいにはなる。

アメリカにいるのなら、そんなセールスマン相手もしょうがないと諦めがつくが、日本で中身のない営業トークでペラペラやられると、うるさい引っ込んでろと言いたくなる。

このセールスマンに対する価値判断、間違っているとは思えないのだが、ちょっと引いて考えると、この結論はどうも辻褄が合わない。日本人の目には存在価値の認めようのないセールスマンが、なぜそれほどまでに高く評価されているのか?何においても実利ベースで考えるアメリカ社会で、ろくに役に立たない者に給料を払うはずがない。製造業が、そしてその中核にいる技術屋が事業を牽引している伝統的な価値観が抜けきれないから、こう結論してしまうのではないか?

産業が高度化すると、新しい技術や製品が開発されたところで、たいした時間も経たないうちに、どこでも似たような製品やサービスを似たような価格で提供できるようになる。テレビや洗濯機、パソコンに乗用車など、日常使っているものにしても、保険のようなサービスにしても、メーカや提供者が違っても、似たり寄ったりで多少の違いがあっても、代替えがいくらでもある。代替可能社会とでも呼ぶのか、そこまでゆくと、似たようなものを上手に売れるかどうかがビジネスの雌雄を決するまでになる。その結果として、エンジニアよりセールスマンの方が優遇される社会が生まれる。

セールスマンの能力に関する問題はその先にある。テレビを作ってきた技術屋はテレビに関する技術に専念する。それ故に、テレビの製造が国境を越えてしまえば失業する。技術の進歩も商品化の進歩も早いから、特定の技術や製品群にとらわれるエンジニアより、時の市場に応じて身軽に転身できるセールスマンの方が職業として優位になる。二十年前は自家用車を売っていたセールスマンが、十年前にはパソコン、三年前からスマートフォンのセールスに、来年にはスマートフォンベースの健康管理ソフトウェアのセールスに転身するなどということが特別なことではなくなる。その時その時の金になる旬の業界から業界へと渡り歩く、売るということのプロ?のセールスマンが生まれる。売っている物やサービスの仕様-どれにしても大した違いのない-より、客をつかまえる滑らかなセールストークに磨きをかけた方が得策という社会ができあがる。

極端にいえば、口先三寸の客商売、サービス産業の極み。技術屋でありたい古い人間なのだろう、好きにはなれないが、巷を見れば、物づくりの現場にいる人たちより、対人関係で禄を食んでいる人たちの方が多い。社会の進歩が、物もサービスもあって当たり前になったとたんに、人間が社会を作り上げてきた最も基本的な能力-言語による意思疎通、最も汎用性のある能力が評価される社会に前戻ったということかもしれない。口先だけのセールスマン、物もサービスもあって当たり前、どれを持ってきても大した違いのない時代の産物なのだろう。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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