参照文献:『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』平勢隆郎著(講談社:中国の歴史02 2005)/『黄河の水』鳥山喜一著(角川文庫1963)/『新十八史略』駒田・常石ほか著(河出文庫1,2 1993)
はじめに
新型コロナの世界的蔓延のため、年末から正月にかけて寒々しいアパートの一室で過ごす羽目になり、せめて何か楽しい時間が持てないものかと考えた挙句に思い付いたのが、ずいぶん以前に読んだ中国史の読み物を眺めながら、比較的最近出された研究書によって最近の研究成果を素見してみたいということだった。
昨夏、あいにくの病に伏し、以来ほんのわずかしか呑めなくなった今のわが身の侘しさを慰めるにふさわしいだろうと埃まみれの古本を探し出してワイングラスを傾けながら、面白そうな個所の拾い読みを始めた。以下は素人の「酔論」である。
『黄河の水(改訂版)』の前書きの日付は「昭和26年 憲法記念日」になっている。しかし実際には「最初の版を世に送ってから、もう二昔の余もすぎました」とあることから推して、初版は昭和のはじめと考えられる。しかし、この書の終わりのほうには次の断りもある。「中国共産党主席の毛沢東は、…1949年9月、中国共産党そのほかの民主主義の諸団体の代表者を北平に集めて、中国人民政治協商会議というものを開き、中華人民共和国の組織などを決定し、北平(ペイピン)を北京(ペキン)と改称して国都とし、五星紅旗を国旗とさだめました。」
この自主独立を果たした中国に比べて、わが日本国は「一たび敗けたとなったら、昨日まで一等国だの東洋の指導者だのと、威張っていたその誇りもどこへやら、恥も外聞もかまわない卑屈さに変わった、あの情けない有様はどうでしたろう。」「日本人はシナを見、シナを考える心がまえを、根本的に改めなければなりません。シナはお隣の国であり、しかも昔からいろいろ深いおつきあいのあった民族です。…歴史はただ過去の事を教えるものではなく、その過去がどのように現在に関係して来ているかを示してくれるものであります。」
こういう真摯な反省の上に改定され、改めて何を「歴史に学ぶべき」かと問うことをテーマとして若者(少年・少女)向けに書かれたものである。
『新十八史略』の方は初版が出されたのが昭和31年であるが、今、手元にあるのは全8巻の文庫本化されたものだ(実際には13巻本に膨らんだようだが)。
著者によれば、『新十八史略』という書名にしたのは、曾先之の『十八史略』にならって太古から南宋の末までを扱うことにしようとしたためだったが、書肆からの要望などでかく長いものになったそうだ。書名由来のもう一つの理由は、「人格的人間を疎外しつつある現代社会に、人間の主権を復活させねばならぬ、とするわたしたち執筆者の共通の祈願の旗じるし」からだという。成程、この書に登場する人物は「良きにしろ悪しきにしろ」いずれも強烈な個性を発揮して時代を縦横に駆け巡っている。それに比べると今日ますます強く感じられる人格性の喪失感(フラット化)はただ虚しい。
戦後史を辿るまでもなく、特に昭和30年代はいわゆる「高度成長期」の走り=重厚長大の産業再編成期と重なり、日本国の経済復興の半面で、大部分の勤労大衆は、砂漠化されて何の変哲も味気もなく、単調な日常生活(会社勤め)をただ人生という時間を消化するためだけに費やし、そしてやがて老いて死んでゆく、こういう非人間化=「疎外感」を意識させられた時代でもある。この「人間性の喪失」が、西欧ではやり始めた「実存主義」の思想と重ねられて問題にされ始める。その結果、歴史の中に無意識のままにうずもれてしまうのではなく、主体的に歴史にかかわり、歴史を作るためにはどうすべきかの問いかけが人間の歴史(ここでは中国史)の中に見て取れるのではないだろうか、という問題意識が発揚されたのであろう。
『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』は、上記二つとは少し性格の違うもので、最近の考古学的な新発見、またそれによる中国古代史の新たな解読を交えながら、あくまで一般向けに書かれた「半専門的」な研究書(全12巻の中の一冊)である。
ともあれ、ここでは気楽に中国史の散歩を楽しみたいだけの気まぐれ読書である。この最後の、最新の書物を道案内にしながら、適宜先の書物と見比べて歴史物語の背景などを楽しみたいと思う。
中国神話の特色はアニミズムにあるようだ
『新十八史略』(以下『史略』と略記)によれば「中国は神話にとぼしい国であるといわれている」そうだが、それでも太古の神々の世界についての物語は、彩り豊かで、天然自然との一体感にあふれ、それでいてまたいかにも中国的な悠久の時の流れを感じさせるものだ。ギリシャやローマの神話、あるいは『旧約聖書』で物語られる神話とはひと味違う面白さをもっている。
著者によれば、このような物語は、「素朴な民間伝承や非正統的な古伝の中に断片的ながら生き生き」した形で見られるもので、「オーソドックスな史書のなか」には見出し得ないという。
『黄河の水(改訂版)』(以下『黄河』と略記)が、大黄河を主要舞台にした歴史物語となっているのも、中国の歴史がどこまでも自然環境と密着してあること、とりわけ黄河や長江という二大大河が象徴する広大な大自然と人々との格闘抜きには語り得なかったことの謂いであろう。
余談であるが、中国大陸の広大な大自然を彷彿させる次のような言葉がある。
「空山 人を見ず」(人っ子一人見えない山、という意味である)。日本でも田舎の裏山に入れば、こういう情景に遭遇することがあり、格別珍しいことではない、と考えがちである。しかしこの表現が、詩人の王維が長安郊外に設けた山荘(「輞川山荘」もうせんさんそう)の広大な規模を表す形容であるとすれば、驚きである。庭の中に池や築山を設け、人工的に深山の雰囲気を醸し出す程度のものとは全く別次元のスケールである。
閑話休題。だがここでは、神々の世界、つまり神話伝説として伝えられる先史時代を一気に飛び越えて、殷・周・春秋・戦国と呼ばれる時代から始めたい。
中国史に関する常識の再検討
そこでまず最初に、われわれが「常識」として持ち続けてきた先入見を再検討することから入っていきたい。
われわれの常識では、殷・周・春秋・戦国などの時代を彩る大国が、中国大陸全土にまたがる広大な領域を支配地域として縦横無尽に駆け巡り、覇権を争い、あるいは政権(支配権)交替を繰り返してきたということがイメージされる。これが従来教えられてきた歴史観だったように思う。しかし今や、この歴史観を全面的に見直す必要があるという。このような歴史観はかなり時代を下った後世になってからつくられたものであり、その後の歴史研究とはかなり異なっているからである。
『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』(以下では『シリーズ02』と略記)によればこうだ。
「新石器時代以来戦国時代に至るまでの歴史は我が国において展開された歴史と似よりの実態をもって語ることができる」。その特徴は次の4項に区分される。
(1)地域内に農村がいくつも存在する時代
(2)城壁都市(小国)が出来上がり、その土地に農村が従う時代
(3)小国の中からこれら小国を従える大国が出来上がった時代
(4)大国中央が小国を滅ぼして官僚を派遣し、文書行政を行った時代
粗雑な見方かもしれないが、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』とも比較可能な特徴がありそうだ。例えば「氏族(血縁)社会」から「私的所有」が発生し、内部にある種のヒエラルヒーが形成されるといった時代的経過を考えることもできそうに思う。
この『シリーズ02』が繰り返し指摘している一つのタームがある。それは「新石器時代」という概念である。例えば次のように述べている。
「(ここに)『書かれている』『事実』は、戦国時代の領域国家で作られた。この領域国家の国家領域は、新石器時代以来の文化地域を母体として形成された」
これを先の4項目と比べながら考えてみると見えてくるのは、殷・周・春秋・戦国などの時代を彩る大国は、われわれがイメージさせられていたほど「大きくはないようだ」ということである。それは新石器時代の交通形態の発展度合いを考えてみれば想像がつく。
それ故、春秋時代の人である孔子が「儒学」を説いて全国を遊説行脚したという物語も、水戸黄門の全国行脚と同じような「いい加減な作り話」かもしれないことが分かる。それとともに新たな謎が浮かび上がってくる。一地方の学者(物知り)であった孔子(孔丘:魯国の昌平郷出身)の教えが、何故に「儒教」として全国化しえたのか、ということである。
「漢字文化」「青銅器文化」「鉄器文化」によって切り開かれた古代社会
続いて注目したいのは、「漢字文化」「青銅器文化」そして「鉄器」である。
少々長い引用になるが、これらの時代の全体構図を鳥瞰するうえで重要と思われるので、『シリーズ02』から摘録したい。
「殷王朝(前16世紀―前1023年)・周王朝(前1023年―前255年)は、いずれも『大国』として比較的長期にわたって周囲の都市ににらみをきかせていた。殷は、河南を中心とする一帯ににらみをきかせた。周は陝西(せんせい)一帯を首都鎬京(こうけい)により、また河南一帯を副都韷邑(らくゆう)により、それぞれにらみをきかせた。漢字を使用していた殷や周のみに目を向けがちだが、殷や周の時代、他の文化地域には、別の『大国』があった。漢字という文字の有無が問題なのではない。青銅器文化のありさまが問題になる。」
われわれは、中国の文化といえばすぐに「漢字文化」を思い浮かべる。もちろん、漢字がそれだけの影響力を持っていることは確かである。しかし、広大な古代の中国大陸には様々な文化地域が点在していたと考える方が素直で実状にあった考え方のように思う。実際に、例えば「四川文字」といわれる漢字とは別様な文字文化があったと言われる。会話言語の違いはどうであったろうか? 方言の違いというだけでは済まされないものがあり得たのではないだろうか。以下、もう少し引用をつづける。
「周王朝は、前八世紀に王都鎬京一帯を放棄せざるを得なくなり、それまで副都の役割を果たしていた韷邑が新たな王都となった。この後、秦の始皇帝による天下統一(前221年)までを春秋時代(前770年―前5世紀)と戦国時代(前5世紀―前221年)に分ける。
春秋時代は、周が河南の『大国』としてなお存在し、やがてこの地に山西の『大国』である晋が勢力を伸ばす時代であり、山東では斉が『大国』であった時代であり、陝西(せんせい)では秦が『大国』であった時代であり、長江中流域では楚が、また長江下流域では呉や越が大国であった時代である。いずれも新石器時代以来の文化地域を基礎に、『大国』としての地位を築いている。」
「その『大国』の勢力圏を官僚によって統治する方法が、春秋時代から少しずつ始まった。鉄器の普及がこの変化を支える。ある都市が中央となり、滅ぼされた都市が地方となる。その中央から地方に官僚が派遣されるようになる。戦国時代になるとこの趨勢は決定的になる。かつての『大国』の勢力圏に、戦国時代の領域国家が成長してくる。」
ホメロスの作といわれる『イリアス』や『オデュッセウス』に描かれている世界も間違いなく青銅器文化である。アキレウスの有名な鎧兜も青銅に獣の皮を何重にも編みこんだものでできている。
鉄器の出現普及は、文字通り世界を一変させるほどの影響力をもつ。農業に革命を起こす。戦闘の様相を根底から変えることになる。こうして富の蓄積、支配者と被支配者の分離、領土の拡大、敗者の奴隷化、等々が急速に進んでくる。
領土や被支配人民の拡大は、新たな統治形態を生み出す。官僚制の萌芽と文字(漢字)による支配である。「民族国家」の形成である。
(2021.1.26記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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