古代の中国史を逍遥する(2) 

著者: 合澤 清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
タグ:

参照文献:『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』平勢隆郎著(講談社:中国の歴史02 2005)/『黄河の水』鳥山喜一著(角川文庫1963)/『新十八史略』駒田・常石ほか著(河出文庫1,2 1993)・・・[上からそれぞれ、『シリーズ02』、『黄河』、『史略』と略記]

前回(1月26日 https://chikyuza.net/archives/108494 )の続きです。

周王朝を瞥見する

『史略』によれば、周王朝の始祖は后稷(こうしょく)といい、堯舜時代の重役で、姓は姫(き)で名は棄(き)である。后稷というのは農事をつかさどる長官という身分のことであったが、飢饉時に農耕に優れた棄を評価した伝説の帝王・舜に抜擢され、「后稷」という官職名がその呼び名になったといわれる。后稷亡きあと、当然のことながら多くの凡庸な後継者に混じって、公劉や古公亶父(ここうたんぽ)といった有能な子孫たちも生まれ周王朝の基礎が築かれた。この古公の孫が有名な西伯=周の文王(名は昌しょう)である。多くの人材が彼を慕って集まったが、中でも著名なのは太公望呂尚と西伯の子で後の武王の弟、孔子がその範をとったことで名高い周公旦である。

(1)太公望呂尚と文王西伯

少々脱線して三題噺めいたものになるが、・・・。

太公望(呂尚)といえば、日本でも古川柳に「釣れますかなどと文王そばに寄り」と詠まれているほどで、釣り人の代名詞となっている。しかし本来の意味は、釣り人とは無関係であった。

ある日文王西伯が狩りに出かけた折、渭水の畔で釣りをしている老人に出会う。その横顔を見た瞬間に「これぞ太公(古公亶父)が待ちんだ人物に違いない(太公望)」と直感して話しかけた結果、その人柄にほれ込んで自分の師として周に迎えたという。

呂尚も恐らく、自分を真っ当に評価する者への仕官を求めて毎日渭水へ釣りに出かけていたものであろうが、その目的が、魚ではなくて「人物」であったことは言うまでもない。

この両者の出会いが面白おかしく伝えられた結果、呂尚を釣り人=太公望と呼ぶようになったという訳である。

もうひとつ太公望呂尚についての面白い逸話がある。

それは「覆水盆に返らず」という故事の謂れに関わる。彼は若いころ読書三昧にふけり、一向に家事を顧みなかったため家計は火の車であったという。当然ながら女房殿は愛想を尽かして離縁して家を出ることになる。

そして後年、彼が周の武王を佐けて殷の紂王を討ち、その論功として斉に封ぜられたとき、元の妻が戻ってきて、復縁を迫ってきた。彼は水鉢の水を地面にこぼし、この水をもう一度水鉢にすくってみろと言う。彼女の怪訝そうな顔を見て曰く「覆水盆に返らず」と。

この「覆水盆に返らず」の話も確か落し噺の材料になっていたように思う。

もちろん、今ではこんな逸話は男社会の遺物で世間には通用しないであろう。最近の森喜朗(シンキロー)氏の「つい本音が吐露されてしまった」40分間の演説が世間の袋叩きにあっているように、ただの男のエゴにすぎない。

ことの序に「覆水盆に返らず」の英語訳といわれるIt is no use crying over spilt milk.を手元の英和辞典で調べてみたが、どうも「覆水盆に返らず」とは違った意味のようだ。こちらは「こぼれたミルクを今さら嘆いても仕方がない」という意味で、「後悔先に立たず」の方がより近いことがわかった。

 

次は少々堅い話で横道にそれるが、『シリーズ02』は、「姓と氏」について次のように説明している。ここにはマルクスの言う生産力の増大とそれに伴う生産関係(共同社会、都市国家)の変化という関係が鮮明に現われている。

「漢字が広まる過程で、都市国家の首長を侯とした。その首長が称したのが『姓』である。同じ姓の諸侯が同族の扱いを受けた。例えば周の同族とされた諸侯は、『姫姓』を称している。鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。耕地が急激に増え、都市の数も急増した。都市間の人の移動は頻繁になり、伝統的絆とは異なる新しい秩序が形成される。都市には、出自を異にする人々が集まる。そうした人々は、出自ごとに氏を称する。この氏は、都会の住民に広がり、ついには皆が氏をもつにいたった」(下線は筆者)

(2)殷の紂王、妲己そして周の武王

再び、伝承と史実を織り交ぜた三題噺めいたものに戻る。

殷朝最後の王である紂王の暴戻さは、あまりにも有名で、よく古代ローマの暴君ネロと比べられることがあるが、両者ともに若いころは大変聡明な名君だったといわれているのは興味深い。紂王は有蘇(ゆうそ)という国を討った見返りにその国王の娘で絶世の美女とたたえられた妲己を戦捷品として得ることになる(美女を戦捷品としてやり取りすることは古代社会では当たり前だったのだろうか、同様な話はホメロスの中にもある。アガメムノンとアキレウスの対立もそれに起因している)。紂王は妲己を溺愛し、二人はたちまち淫蕩で贅沢な生活にふけるようになる。人民から重税をとりたてて豪華絢爛な「鹿台」を建て、そこで連日連夜、酒池肉林の遊蕩生活を送り、それを諌める者に対しては残虐な「炮烙の刑」(燃え盛る火の上に渡した銅柱の上を裸足で歩かせて、落ちて焼け死ぬのを見て楽しむというまことにサディスティックな刑罰)をもって報いたといわれる。

かかる暴虐非道な専制君主を討伐(放伐)することは古代中国では「天命を革める」ことに他ならないと考えられ、これを「革命」と呼んだという。

さてこの周の文王こと西伯昌は実に穏やかな人物であったらしく、かつて殷の紂王に「炮烙の刑」を諫めた折も-西伯はそのために一時幽囚されていた-、また周の肥沃な土地を狙って戎狄族が侵略してきたときにも、諍いによる人民の犠牲を恐れて、あっさりと自分の土地を明け渡し、一族のみで西方へと移動したという。それでも彼の仁徳をしたって、天下の三分の二の民が殷に見切りをつけて周へと集まってきたといわれるが、しかしなお彼は殷を討伐しようとはしなかったそうである。

殷の紂王の討伐に動き始めるのは、彼の死後、その後を継いだ発(周の武王)であった。彼は呂尚を師と仰ぎ、弟の周公旦の補佐をえていよいよ紂王打倒へと向かう。

然り而して、周の武王が殷の紂王を打倒して新たな周王朝を打ち立てたのは、紀元前1122年のことといわれる。

 

さて前回の小論中、「中国史に関する常識の再検討」という小見出しの中で簡単に触れたのであるが、この時代の領土(領域国家の国土)の地理的な広さを思い出しながら再考してみたい。

『シリーズ02』では松丸道雄の田猟説(でんりょうせつ)という学説が紹介されている。この時代を考えるうえで非常に興味深いのでその個所を引用したい。

「田猟とは狩猟のことで、王やその命によって各地に赴いた名代が、祭祀の一環として行った。軍事演習を兼ねた狩猟をおこない、そこで得た獲物を神にささげた。田猟地の間を王が移動するその具体的日程が解り、それを一覧にして数学的証明がなされた。それまで殷の王都から遠く離れた地とみなされていた地を含む21地について、その内の18地は相互に最大三日以内に移動できる範囲内にあり、残り3地も最大四日以内に移動できる範囲内にあること…王の移動には、明らかに往復を意味する語句もあることなどから、半径20キロ程度の円内に18地が全て納まるだろうという結果が得られた」

「半径20キロ程度の円内は、当時の都市国家が統括する範囲にほぼ重なる。つまり、殷王は、殷という都市が直接管理する範囲内をあちこち移動し、そこで儀礼をおこなっていた、ということになる。また、田猟地の中に、服属する氏族の名が混在するということから、おそらく、殷の王都の周囲には、服属する氏族の村が出来上がっており、そこに服属する氏族から物資がまず送られ、そこからさらに王都に物資が運ばれたのだろう。村は服属する氏族が殷に貢納の義務を果たすにあたって、ぜひとも必要な中継地の一つであった」

こういうことを考慮して孔子の行動範囲について推測するとき、それは案外狭い範囲でしかないようだという結論が出てくる。

(3)周公旦と孔子の「理想像」の古訓

武王の弟の周公旦は、殷が打倒された後、その論功により魯に封ぜられる。魯の都は曲阜で、後の孔子の生誕地である。周公は武王が亡くなった後、自らが周朝の王位を踏襲するのではなく、武王の子のまだ幼い誦(しょう)=成王を立てて摂政として国事に当った。

彼は七年間その職に就き、その間、殷の残党と組んで周の転覆を図る実弟たちと闘い、それを討伐した。こうして成王誦が成人した後、政権を王に返し、自らは「北面して臣下の列に加わった」という。この後、この周公の誠実な生き様が子々孫々まで教訓化され、周王朝は紀元前770年に東遷するまで約350年間も続いたといわれている。しかし、周王朝の話はここでは省略する。

いずれにせよ大まかに言いうることは、周公の封土である魯の曲阜出身の孔子が、自国(郷里)の英雄傑物を聖人化して讃え、古訓として喧伝して歩いたこと、都市国家の拡大、相互の対立、自国王朝の正統化の主張などが複雑に絡み合いながら訓話化され、さらにそういう一地方の伝承を一層普遍化してより広大な国家統治の道具(忠君愛国の道義)に形成し直していこうとする試みが行われたのが、この後の春秋戦国時代であろう。

以上は『黄河』や『史略』に見られるかなり潤色された物語であるが、これらをもう少し平勢隆郎の『シリーズ02』を参照しながら反省的に整理してみたいと思う。

殷・周史に関する若干の反省と小括

「書かれた事実」ということに関して、『シリーズ02』は、次のように断っている。

「本書でご紹介する『書かれている』『事実』は、戦国時代の領域国家で作られた。この領域国家の国家領域は、新石器時代以来の文化地域を母体として形成された。そうした文化地域をまとめた領域がいわゆる天下である。始皇帝は、この天下を統一した。戦国時代の論理は、より大きな天下の論理としてまとめなおされる」

ここで歴史にとって「事実」とは何かといった哲学上の話をしたいとは思わない。上で気楽に触れてきたことを、『シリーズ02』を参照しながら整理したいだけである。ただその際、「事実」といわれることを「客観的かつ絶対的」な真理だなどと盲信しないでほしいと願うだけである。「書かれたもの」には当然ながら、その時代状況、当事の考え方(書いた人およびその背後の力関係など)が色濃く反映されているはずである。その点を様々な状況を検討する中で見極めることが重要であると思う。

その一例として、本文中でも何度かそれとなく問題にした孔子とその教え(儒学、後には道教や仏教とともに儒教という一種の宗教として崇められるようになった)の淵源を振り返って考えてみたいと思う。

先述したように、また松丸道雄の田猟説から推測しても、孔子の行動範囲(テリトリー)は案外狭いものであったようだ。それは当時の「國」が狭い領域のものであったこと、また交通形態の発達程度や自然環境の制約などが大いに影響している。

「國」また、「夷狄」に関して平勢隆郎は次のように述べている。

「出土史料を整理してみると、『國』は西周時代には『或(域)』になっている。都市の時代には『域』だったものが、領域国家の時代に『國』になったのだと考えられる。つまり、都市から外に広がる一定の地域を『域』と表現していたのが、都市を文書行政で統治する領域国家の時代になって、その『域』すら囲まれる存在になったため、『國』という字が生まれたのである」

また周の文王に関する個所で触れた戎狄=「夷狄」という発想も、かなり後の時代から振り返って、文明的に遅れているとみなされた部族への蔑称として名付けられたことが推察できる。つまり戎狄=「夷狄」とは、「中国」にとってはあくまで「内なる外」であった。

「『中国』(文化の華咲く地域)と対で『夷狄』(野蛮の地域)がある。その『夷狄』の地は、戦国時代の認識では天下領域の中にある。『戦国策』など、各国を往来した人士の説話が多く残されているが、彼らが問題にする天下の領域は、戦国時代に割拠した国家領域を併せたものになっている」(以上『シリーズ02』)

さてそこで、孔子伝説の真相を平勢隆郎の本の勝手な抜粋によってまとめて、今回の報告に一応の区切りをつけたい。

「春秋時代といえば、孔子であり、この人物ほど歴代の尊崇を集めた思想家もいない。尊崇を集めたが故の理想化もかなりある。われわれが目にすることが多い孔子像は、宋明理学(朱子学・陽明学など)とまとめられる学問体系の中で語られたものである。士大夫(したいふ)の理想としての孔子像である。これとは別に、後漢から唐にかけての注釈を通してうかがえる聖人としての孔子像がある。更に、後漢時代にさかんに作られた『緯書』の孔子像である。

孔子は弟子をたくさん育てた。その弟子たちもさらに弟子を育てた。そうして増えていった孔子の後継者たちが、戦国時代には、各国で活躍するようになる。その過程で次第に形を整えるのが原始儒教である。その儒教はわれわれが知る儒教とは異なっている」

「『論語』は戦国時代に原形ができ、漢代になって今見られる体裁に落ち着いた。地域性をも加味した検討、どこで作られ、各地においてどのように加工されたのかの検討がこれまでなされてこなかった。『学派』の問題を出土史料に関連付け、地域性を加味することが求められる。…孔子の教えは、魯という都市に始まり、賛同者を得て先ずは近隣に広まった。広まる過程で、孔子の弟子たちの展開した主張は都市の論理ではなくなっていく。そして領域国家ごとの要請に沿って、それぞれの国家の論理を述べるうえで利用された。国家ごとに国家ごとの要請があったから、つくりだされる内容も、国家ごとの差異が顕著になった」

孔子の教えといえば、われわれはすぐに「孝」や「忠」や「礼」などを思い浮かべる。しかし、孔子ご本人は意外に「侠客無頼の人」だったようである。また、司馬遷の『史記』に描かれた孔子像は、公人ではなく私人として作られたものであると平勢は言う。

私が面白いと思うのは、時の為政者によって孔子は様々に利用されながら「聖人君子」の代表に祭り上げられていったことである。北一輝の有名な「乱臣賊子」という言葉が、司馬遷からの引用であったことも教えられた。

2021.2.15記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1156:210218〕