古賀暹『北一輝』(御茶の水書房、2014年)を読んで

著者: 内田 弘 うちだひろし : 専修大学名誉教授
タグ: ,

[北一輝像の一新] 古賀暹さんのこの本は、従来の北一輝のイメージを一新するものです。副題に「革命思想として読む」とあります。近代地動説の始点コペルニクスの『天体の回転について』のように、まさに北一輝研究を革命=回転する(revolve)ものです。古賀さんは北一輝を《明治維新の自由民権運動の思想=「魂」の実現を一貫して追求した人間》として復元しています。これは画期的な北一輝像です。最近、刊行されました松浦(まつうら)寿(ひさ)()さんの『明治の表象空間』(新潮社、2014年)もその書の冒頭近くで古賀暹さんと同じように北一輝を読み替えています。渡辺京二さんの『北一輝』(ちくま学芸文庫、2007年)もふくめて、いまや北一輝像も革新される時代になりました。北一輝像をふくめて近代日本思想史像それ自体が大きく転換しているのではないでしょうか。

 

このような北一輝評価は、かつて(1958年)の竹内好の北一輝評価を継承=発展するものでしょう。竹内好は、北一輝に「日本と中国との運命共同体的な実感的把握」という「1つの真理」を発見するといいます。「北一輝の予見は当たらなかったが、それは今日いえることであって、仮に十年か二十年後になってみれば、いまの日本人の中国観より北の方が正しくなるかもしれないのである」と予見しています(『日本と中国のあいだ』文藝春秋社、329頁)。

 

そのような竹内好の北一輝論は例外でした。かつての北一輝論といいますと、たとえば、橋川文三が編集・解説している『超国家主義』(現代日本思想体系[31]、筑摩書房、1964年)のほうが一般的な北一輝評価でした。そこでは北一輝は「魔王」として、テロリズムの総元締めみたいな人物として、あるいは、なにやら非合理主義の塊みたいな人物として紹介されています。北一輝は思想的恐怖の対象のようです。そう記述する背後には、戦後民主主義の平和主義があるでしょう。しかし、その平和主義は戦中の経験をしっかりふまえたものでしょうか。戦後の日本社会の平和主義は、語ることのできない苛烈な「戦場体験」を伏せたままの平和主義、「戦後改革」ではなかったのではないでしょうか。伏せられた事実にこそ、克服すべき明治憲法体制の正体が凝集されているでしょう。

 

[敗戦直後の天皇制体験]  昭和天皇は敗戦後、全国を行幸しました。筆者が小学校2年生のときのことです。北関東の地方都市・宇都宮の孤児院を昭和天皇が視察するというのです。残暑で暑い1947年9月4日の午前中、町の中央道路に沿ってその周辺の小学校の生徒たちが動員されました。「お迎えの長い列」を作るためです。天皇が乗った「お召し車」が通過する前から、引率する小学校の教員たちは、何かに取り憑かれたように必死・懸命です。生徒たちに《(腰を45度前に曲げる)「最敬礼」をしたまま、待て》と命令します。《天皇陛下のお姿を見たら目がつぶれるぞ、絶対に見るな》と生徒たちに大声で怒鳴ります。生徒たちは命令されるまま、数分間、腰をまげたまま、じっと立っていました。腰が痛くなりました。9月上旬は残暑で地表から照り返す熱で顔が赤くなります。それでも命令に従い、私たちは眼下の砂利(じゃり)を見つめ腰をかがめたまま待ちます。やがて「お車」がゆっくりとジャリ、ジャリ、ジャリと音立てて前を通過してゆきます。中央道路が砂利の道であったためです。車が過ぎ去ってしばらくすると、「直れ!」の命令が下り、ほっとして立ちあがりました。生徒たちは皆、痛い腰をさすりながら疲れた体で、学校に戻りました。

 

[皆と空気]  皇国教育の担い手であった教員たちは、敗戦を何事もない「終戦」として、戦前から戦後にずるずる連続的に入っていったのです。そこに明確な区分はありません。《区分はなかったのですか》と、もし尋ねれば、《【皆】が同じようにそうしたではないか、なぜ私だけに問うのか》と言い訳したでしょう。《【皆】がしていることには従う》、《各自に【皆】が一方的に迫ってくるという意識形態》、《予め共同性 (【皆】)を想定しそれに従う個人の行為がまさにその共同性を再生産することを自覚しない行為》、つまり、《没個人的自発性の相互強制関係》、これが戦時体制の組織基盤です。この【皆】は、いまどうなっているのでしょうか。【皆】は【空気】となっていないでしょうか。

 

[日本鬼子の三光作戦]  記録映画に「日本鬼子(リーベン・クイズ)」があります。まさに《焼き尽くす・殺し尽くす・奪い尽くす・》の「三光作戦」を中国大陸で実行した元・日本兵士が、カメラに向かって証言する映画です。《これから話すことは家内(妻)にも言っていないことです》といって語りはじめます。奥の部屋で妻が心配そうにみています。老兵士が語る戦場経験はまさに《生き地獄》です。

 

中国大陸、見渡せば辺り一面農地に敷設された長い鉄道線路に、何十輌の貨物列車が「獲物」を待って停車しています。先頭の蒸気機関車は、出発を待ってときどき白い蒸気をシュッ、シュッと吐きます。鉄道線路を背に日本陸軍兵たちは銃剣を前に突き出し一列横隊に前進します。価値ある物はすべて略奪します。農地の作物はもちろん、農家の豚鶏などの家畜、倉庫の穀物・野菜も皆奪います。《それだけはもっていかないで、それは来年播く種ですから》といって懇願する農民を銃剣で衝いて殺し、農家に火を放ちます。略奪物はすべて貨物列車に乗せます。その略奪物を旧財閥系の大手商社が売りました。その巨額な資金はどうなったのでしょうか。・・・是非ご覧ください。

 

日本の旧国家テロリズムはいまなお、伏せられ隠されています。そのような歴史の暗部については、学校や受験勉強では、分からないようになっています。語り得ない戦場の直接体験と歴史の組織的計画的な隠蔽です。そのような歴史の隠蔽を自覚しない戦後のあり方はこのままでよいのでしょうか。この問いが戦後70年ちかく経過しても、なお問われているのではないでしょうか。都合のよい部分だけの歴史継承はありえません。その部分だけを継承する姿勢は足腰が弱い。その部分は守れないのです。歴史のつまみ食いはできません。

 

[北一輝の神田区の地図] 筆者は『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年)という本を出したことがあります。石川啄木の東京時代は1908年から始まります。2年前の1906年に、23歳の北一輝(北輝次郎1883-1937)が『国体論及び純正社会主義』を自費出版しました。そのころ、中国からの留学生が特に神田区に沢山きていました。多いときには1万人を超えました。日本の学生より多かったのです。神田に中華料理店が多いのはその名残です。

 

秋瑾地図220140719内田弘2-1

20140719内田01

『秋瑾詩詞』の表紙と奥付(国立国会図書館所蔵』▲秋瑾ゆかりの地「神田区」

❶ 清国留学生会館 神田区駿河台鈴木町18 番地
❷ 中華留日基督教青年会館 神田区北神保町10 番地
❸ 平出修法律事務所 神田区北神保町2 番地
❹ 秀光社 神田区中猿楽町4 番地
❺ 豊生軒 神田区中猿楽町20 番地
❻ 経緯学堂 神田区錦町3 丁目10 番地
❼ 錦輝館 神田区錦町3 丁目18 番地
❽ 正則英語学校 神田区錦町3 丁目2 番地
❾ 東京外国語学校 神田区錦町3 丁目14 番地
10 東京基督教青年会 神田区美土代町3 丁目3 番地
11 革命評論社 神田区美土代町3 丁目1 番地
(注)人文社発行「東京郵便局明治40 年東京市15 区・神田区全国J のうち、
ここに掲げた部分に❶~11を挿入した。(2010 年6 月1 日内田弘作成)

 

北一輝の『国体論』を印刷したのが、上に添付した地図の番号④の「秀光社」です。現在の神田神保町の四つ角の近くにありました。いまは、中国の女権革命家・秋瑾(1875-1907)の故郷の浙江省紹興の料理をだす「(かん)(きょう)酒店(しゅてん)」という中国料理店になっています。魯迅がよく通った紹興の居酒屋の名に因んだものです。本書の著者である古賀さんが住んでいたのが、地図の番号②の「中華留日基督教青年会館」です。古賀さんによりますと、そこに北一輝の夫人も住んでいました。古賀さんがこの本を出す機縁は、このような歴史地理的な機縁があったからでしょう。

 

秀光社は孫文たちの中国同盟会の機関誌『民報』を印刷していました。その印刷所の社長は藤澤外吉といいます。中国革命家と親交のあった人物です。《その秀光社から北一輝が『国体論』を出したということは、北一輝があらかじめ秀光社の存在がどのようなものか、知っていたから》でしょう。というのは、その本を出してまもなく北一輝は地図の番号⑪の「革命評論社」を訪問しているからです。そこは中国同盟会の東京の根拠地でした。あるいは、藤澤外吉が革命評論社を北一輝に教えたのかもしれません。北一輝にとって明治維新と辛亥革命は連結すべきものであったのでしょう。清国人留学生である秋瑾も、明治維新をモデルに中国革命を考え、日本に留学しました。浙江省紹興で清国打倒をめざす軍事蜂起を、自分や実母の装飾品を売って調達した「自己資金」で準備中、清国の国軍に密告され逮捕され、1907年7月15日早朝に斬首刑にされました。その秋瑾の遺稿詩集『秋瑾詩詞』は、日本にいる彼女の同志たちによって編集され、秀光社がそれを印刷しました。

 

[統治観の比較思想史]  比較思想史の方法でみると、北一輝の思想の同時代性が分かります。そこで、つぎの三書を比較します。この3つの文書に或る共通の統治観を読み取ることができます。

 

{1} 孫文の『三民主義』。

 

{2} 北一輝の『日本改造法案大綱』。

 

{3} 旧日本陸軍の総力戦体制構築計画の一環「民主主義に関するする報告書」。

 

{1} まず孫文(1866-1925)の『三民主義』です。これは1907年から推敲を重ねて1924年に刊行されました。孫文の死去の直前です。孫文は革命中国の統治形態を三段階に区分します。すなわち、《軍政→訓政→憲政》です。革命軍が清国軍を打破して樹立する権力は「軍政」です。ついで、革命を指導した者、つまり孫文が大統領として統治する「賢人支配」です。これが「訓政」です。その後、ゆくゆくは民主主義的な憲法に基づく「憲政」に辿り着くといいます。

 

古賀さんは孫文の欧米主義に批判的です。中国の歴史と現実に即した革命を考えるからです。竹内好の日本に対する議論も同じ観点です。変革の主体はその地から湧出してくると考えるからです。外国から優れた研究を導入することは自国への何か目的がなければ、外国崇拝に始終します。自国の研究は軽視し、外国の誰彼がああ言っているこう言っていることで終わる議論は肝心なものを欠いています。ノーベル賞を受賞すると、急いでそれを権威に文化勲章を出す。おかしくないでしょうか。《良い物は日本からは内生しない。外からやってくる》のでしょうか。

 

{2} 北一輝の『日本改造法案大綱』(1919年)はどうでしょうか。これは先にあげた『超国家主義』に伏せ字なしに収録しています。北一輝は冒頭で、天皇を御旗に「軍事クーデタ」を実行するといいます。既存の枢密院を撤廃し官吏を罷免し、かわって、公募制の50名の「顧問院」を置きます。いわば「革命評議会」です。したがって、最初は「軍政」、つぎに軍隊をバックにして天皇を頭とする賢人たちが統治する「訓政」が始まります。北一輝は「デモクラシーが正しい政治形態であるという科学的根拠はまったくない」と『日本改造法案大綱』で明言しています。しかし、25歳以上の日本男子には参政権を認めるとも書いていますから、天皇中心の「訓政」に普通の日本男性は政治参加できると考えていたでしょう。北一輝は、女性は保護の対象であって、政治に参加する主体とは考えていません。こうしてみると、北一輝も基本的に統治形態を《軍政→訓政→憲政》と考えていた、と判断されます。

 

古賀さんによれば、北一輝は自由民権思想を一貫して実現しようとして生きました。その思想の具体的な(過渡的な)姿がこれではないでしょうか。北一輝は1916年6月から1919年12月末までの3年半、親交のあった宗教(そうきょう)(じん)が暗殺された上海に滞在して『日本改造法案大綱』を執筆しましたから、中国の統治の思想と実態から示唆を得ていたと思われます。

 

注目すべき点は、北一輝の「改造法案」と「戦後改革」には、かなり共通性があることです。明治憲法体制解体=日本国憲法制定(象徴天皇制)、皇室財産(の大半)の没収、枢密院・貴族院の解体、財閥解体、農地改革、普通選挙制導入、刑法改正、民法改正、労働三法制定などです。北一輝の構想する「軍事クーデタ」の代わりに「連合軍」が「軍事占領」で「日本改造」実行したとも考えられます。日本軍の使命として北一輝が構想した日本改造を占領軍が実現したと読み替えられます。このような類似性を北一輝=怪物説・魔王説が隠蔽してこなかったでしょうか。とはいえ、北一輝の旧財閥などからの資金調達法やクーデタを筆者は是認するわけではありません。

 

{3} 最後は、デモクラシーに関する1919年の日本陸軍の調査報告です。日本軍は第1次世界大戦(欧州大戦)を直接に体験していないから、無謀なアジア太平洋戦争(1931-45年)にのめり込んでいったのだ、とよくいわれます。しかし、実情はかならずしもそうではありません。その一端を明らかにするのが、黒沢文貴の『大戦間期の日本陸軍』です。旧日本(陸海)軍は、欧州大戦から世界は「総力戦体制」に入ったことを察知しました。その戦争直後の1919年から、来るべき総力戦にそなえます。北一輝の『改造法案』と同じ年です。原敬内閣の陸軍大臣田中義一のもと、総勢105名委員からなる調査委員会を組織しました。委員長は菅野尚一少将です。委員の中には、永田鉄山、杉山元、そして「2・26事件」で戒厳司令官となる香椎(かしい)(こう)(へい)がいます。その委員会の活動は調査報告書を『月報』などでまとめています。それとほぼ並行して、1916年から1922年まで全国の各所、各要人に、新時代の戦争観を説明しています。新時代への組織的対応です。

 

その調査報告に「デモクラシー」に関する調査報告があります。そこに、彼らが如何なる統治形態を構想していたのかが伺えます。《天皇制を容認しない民主主義》は厳しく排除します。天皇制、すなわち、天皇・枢密院・貴族院・衆議院・官僚制・在郷軍人会などを、天皇の統帥権のもとにある陸海軍がわきから補佐するという体制です。《国体のなかに民主主義を恵与のかたちで容認する》というものです。したがって、当時の陸軍の政治体制構想も、軍事権力を背景に「憲政」を部分的に容認する「訓政」《(軍政→)訓政(→憲政)》であることが浮かび上がってきます。孫文・北一輝・旧陸軍は、背後に軍事力が控え部分的に国民に民主主義を容認する「訓政」を基本に考えていたと判断されます。

 

これは偶然の一致ではありません。英仏の産業革命をみれば分かるように、民主主義・社会主義は産業革命の過程から生まれてきます。産業革命は第一次市民革命が樹立する原蓄国家が推進します。原蓄国家はいわゆる開発独裁体制です。その体制を打破するのが産業革命から主体として登場してくる労働者たちです。日本の産業革命は1880年代から1925年までの間と考えられます。まさに北一輝の時代です。労働者たちの要求が民主主義・社会主義です。それらは近代語、近代的要求です。このことを北一輝は、「社会主義が私有財産の確立せる近代革命の個人主義・民主主義の進化を継承するものなり」と、明確に認識していました。旧天皇制勢力は北一輝のクーデタの標的です。彼らには北の革命論は決して容認できなかったでしょう。そこに深刻な対立があります。

 

[天皇制は方便になりうるか]  古賀暹さんは、北一輝が天皇制を天皇個人に実在する個人実在説として理解していたと評価します。そのような存在であれば、不要になれば何時でも無くせる方便と考えていたともいえます。果たして、天皇制はそのような個別化された容易に出し入れできる物なのでしょうか。天皇制は、天皇個人に実在するというよりも、日本人の無意識な集合心性として遍在するのではないのでしょうか。そのような存在として再考するきっかけのため、つぎにいくつかの事例をあげます(詳しくは内藤光博編『東アジアにおける市民社会の形成』専修大学出版局、2013年所収の拙稿を参照)。

 

[被災東北の中国人嫁] 宮城大学の近代史研究者・山内明美は宮城県南三陸町の農家育ちです。山内は「《飢餓》をめぐる東京/東北」[赤坂憲雄・小熊英二編著『辺境からはじまる/東北論』(明石書店、2012年)所収]を書きました。それによれば、1918年の米騒動に戦慄した明治憲法国家は、アジア太平洋戦争(1931-45年)以前と最中に国策として朝鮮半島・台湾・東北地方を米作地に転換しました。戦後日本は朝鮮半島と台湾を失いました。東北に集中して米作地に加速的に転換します。まず世界から米を大量に買って食べました。日本に米の自給体制ができるのは、戦後の高度成長期の1960年代になってからです。1893-1902年では岩手・秋田・青森は米生産高で全国最下位グループにありました。しかし、約百年後の1990年では、福島・宮城・山形の三県とともに岩手・秋田・青森の三県が、つまり東北六県がトップ10位に入ります。

 

山内明美は証言します。「(2011年3月11日の)津波の引いた翌朝、高齢のしゅうとめをおぶってがれきを歩くお嫁さんは、実は中国人です。この町にはアジアから来たお嫁さんがたくさんいます。・・・東北は震災以前から国際化・多国籍化が進んでいました」(『朝日新聞』2012年7月4日朝刊、15頁)。北一輝も竹内好も予想しなかったかたちで、日中関係が実現しています。

 

筆者は2011年3月11日の当日、学術研究のため北京に滞在していました。人も物も飲み込んで進む巨大な津波の映像がホテルのテレビに映ります。その映像に重ねて流される字幕に《在日同胞70万人。各地の連絡先はつぎのとおり・・・》とあります。70万人のうち5万人は留学・就業の他、上記のような結婚して東北にいる中国出身者も含んでいます。テレビはアメリカ空母《ロナルド・レーガン号》が日本の東北沖に向かっている、と報じました。日本では《トモダチ作戦》の実態は不明のままです。日本とはちがい、中国ではこのような軍事情報は日常化しているようです。

 

[在日と被差別] (しん)淑玉(すご)は野中広務との対談『差別と日本人』で指摘します。

 

「その時[阪神淡路大震災のとき]、戦後の復興における差別が人を殺したって思ったんですよ。震災の時の在日の死亡率は日本人の1.35倍以上。つまり、戦後の復興の際の差別によってあそこ[神戸市長田区(在日の密集地)]に取り残された人、それから被差別部落の指定を拒んだところの人たちから、たくさんの死者がでたんです」(野中広務・辛淑玉(対談)『差別と日本人』(角川書店、2009年、106頁。引用文中[ ]は引用者補足)。

 

この本は日本における差別の悲惨と背景を明示しています。同書は膨大な読者を獲得しました。長田区の在日の被災者のひとびとは真っ先に救済の炊き出しをしました。関東大震災の記憶がなかったでしょうか。

 

[被害者への追撃] 水俣病被害者救済のために奮闘した川本輝夫の長男・川本愛一郎は父の活動を回顧してつぎのように語りました。

 

「家に火をつけられたこともあったですね。マスコミに(水俣病が)取り上げられたときは無言電話が夜中にかかって、嫌がらせの葉書も来ました。(賠償金請求を非難して)『カネ亡者』とか、『水俣を暗くするのは患者が騒ぐからや』とか、そういうビラが『水俣を明るくする会』みたいな所から出たのです」(『朝日新聞』2012年7月24日朝刊、17頁。( )は引用者補足)。

 

水俣病発覚後の住民とチッソとの折衝で会社側から「この交渉は心情を介さない交渉ごとです」という事務処理的な発言に『苦海浄土』の著者・石牟礼道子が抗議すると、会社側は「これは文学的問題ではない」と切り捨てました(『朝日新聞』2012年7月2日夕刊、7頁)。

 

[昭和天皇の原爆被害評価] 昭和天皇は1970年代に国際記者会見で戦争責任と米軍の原爆投下について問われて、どう答えたか、半藤一利たちが『占領下日本』が紹介しています。昭和天皇は「私はそのような言葉のアヤについては、文学方面を研究していないので、よくわからぬ、原爆投下は戦争だから仕方がなかった」と対応しました(下、ちくま文庫、2012年、90頁)。福島菊次郎も『ヒロシマの嘘』で同じ発言を紹介しています(現代人文社、2003年、297頁)。戦争責任・原爆投下が「文学方面」の「言葉のアヤ」に矮小化されています。「文学」が「政治レトリック」に利用されています。原爆製造の初期から関与したチャーチルが1953年に『第二次世界大戦』でノーベル「文学賞」を受賞したことは意外でしょうか。昭和天皇は自分の名において開戦したことに何の責任も感じていません。先に紹介した記録映画「日本鬼子」を思い起こしてほしい。

 

[辺見庸の現代日本像]  辺見庸は『いま語りえぬことのために』(毎日新聞社、2014年)でつぎのようにのべています。

 

「他と異なる自分独自の意見を発表する、ということは、とても虚しいことなんだ、全体のハーモニーを乱すからいけないことなんだ、と日々教え込まれている」(106頁)。「吉本隆明さんはしみじみと《自分には、》昭和天皇に対する『絶対感情』があるんだよね》という趣旨のことを言った。・・・共同幻想をいいながら、あの人自身は、自分のなかにヒロヒトを最期までのり越えることができなかったと思う」(108-109頁)。「天皇制というものは、藤田省三も言っているけれども、純粋な天皇主義者というものはいない、《天皇制俗物》というものはいると。《天皇制俗物》とは、建前は天皇の絶対を語りながら、実際には自分たちの恣意をつらぬくという、いわば天皇制利用主義です」(116-117頁)。「記憶抹殺処理法はローマ帝国にかぎらず、じつは、近現代ニッポンの民衆の集合的記憶(日露戦争勝利)や集合的忘却(アジアでの大量虐殺)などにも通底し、個別には狂者とみなされたひと、体制にどこまでもはむかった者、名状のあたわざるほどに醜猥なる者らは、しばしば暗々裏に公式の歴史から消去され、忘却の穴にうめられてしまった」(255-256頁)。

 

[日本型心性の研究課題]  辺見庸は、日常生活にそれとは認知されない姿態に天皇制を直観しています。それは成文化された制度ではない行為、むしろ無意識・無自覚の行為です。それは日々の生活過程でそれとして言葉で明示されない姿態で生息しています。《自発的に自己を抑え横並びする集合行為が無意識にもたらすもの》です。その集合心性が権力と富が集中する局所を生み出すのでしょう。そこは不可触な聖地として、そっと隠され守られていないでしょうか。そこは実は決して神秘的な場所ではないからこそ、逆に神秘化が仕掛けられるのでしょう。その対極にヒバクシャ、ミナマタ被害者、3・11の被害者たちが生活しています。いまなお東北なまりを笑う。被害者を追撃する。ヘイトスピーチを行う。まじめをセセラ笑いする心性です。この集合心性の起源・機能・消滅可能性はどのようなものでしょうか。

 

このような問題を考えるとき、17世紀オランダで『神学・政治論』刊行(1675年)で無神論者エピキュリアンとしてユダヤ教会から破門されたスピノザを追撃するように忌み嫌う多数民衆の集合心性を連想します。スピノザはその序文で、この本を少数の理性に生きる読者に読んでほしいと訴えています。(以上)