原発にしても沖縄の米軍基地にしても、軍需産業化も、憲法改正も機密保護法も、・・・特別何を知っている訳でも、考えてる訳でもないが、どれもこれも、そりゃないだろうと思う。フツーに考えれば、反対せざるをえない。
右を向いても左を見ても、どこにもここにも反対の声があるから、自分だけが納得行かないと思っている訳でもなさそうだ。なぜこれほどまでに反対せざるを得ないことが多いのか?どう考えても、誰かが、どこかの利害関係者たちが、市井の関係者の意見などをろくに聞かずに、自分たちの都合で物事を決めて、人びとに押し付けているからとしか思えない。全ての関係者が納得する結論は得られないかもしれないが、それでも誰もが納得する意思決定プロセスを踏んでいれば、ここまでの反対の声が上るとも思えない。
多くの人たちが納得のゆくプロセスを踏めばと思うのだが、これ以上ないというまで関係者の合意のもとに進めたことですら、致命的な問題になったことがある。それを思えば、一部の利害関係者の都合で決めたことが、多くの人たちから反対される、あたりまえじゃないかと言いたくなる。孫子やなんやらの昔ながらの能書きの話とは違う。もう半世紀前のことだが、反対だらけのなかで、多少の反省の念をもって、見てみる価値はあるだろう。
七十年代のオイルショック前後のアメリカの自動車業界の状況は、問題を問題としてだけでなく、問題を生んだ原因と、原因の背景まで含めて、考えられるあらゆる面での合理的判断とそれが引き起こした致命的な問題の一例として、よくここまでのケースがあったものだと驚く。
ガソリンをまき散らして走っていると揶揄された、今日日の視点からみればミニ恐竜の感のあったアメ車。燃費など気にすることもなかった豊かなアメリカの象徴的存在だった。そんななかでもフォルクスワーゲンのビートルは低所得者層や二台目、三台目の車として、それなりの人気があった。アメ車とは比較しようのない価格と維持費の安さ、なによりも燃費のよさが売りだった。
ディビット・ハルバースタムの『覇者の驕り』には、アメリカにおけるビートルと日産がアメリカ市場に参入すべく、西海岸の高速道路でビートルを見つけては、比較性能試験を繰り返したことが昨日のことのように描かれている。
[テストコース]
同書によれば、確か日産はまだ自社のテストコースを持っていなかった。高速走行の性能を確認するには、車をアメリカに持ちこんで高速道路を走ってみるしか方法がなかった。
ただ、ビートルが上陸してもビッグスリーはその影響を無視した。無視したというより、気にする理由がなかった。乗り心地のいい、安全な大型車が常識だったアメリカで、小型で燃費に優れたという特徴で食い込めるのは、オイルショックに見舞われるまで、ビッグスリーにはとるにたらない市場だった。
八十年代以降、ビッグスリーの地盤沈下を横目で見て、あんな大型車ばかり作ってきて、ビッグスリーの戦略が間違っていたとか、極端な言い方で「アメリカ人は働かいない」からとか「優秀な技術者は軍需産業に行ってしまって、自動車をはじめとする民生製造業には優秀な人材が行かなくなってしまっているから……」という俗説のような話が、さも当たり前のようにされていた。ジャパン・アズ・ナンバーワンのような節操を欠いた無知な後知恵の見本のような主張が溢れていた。
オイルショックを予見できなかったのは、ビッグスリーだけでもなし、誰しも原油価格の高騰に対応する用意などしてなかった。
それまで通りの安いガソリン価格を不変の条件として、ビッグスリーも関係者もこれ以上はないという合理的な判断をしていた。当時のビッグスリーと関係者の考えは、おおよそ次のようだったろう。
- アメリカでは、従来通りの大型車の市場競争が続く。
- 小型車は大型車に比べ廉価で、その分利幅も利益も小さい。
- 燃費のいい小型車が市場全体に与える影響は無視できるほど小さい。小型車市場は、ビッグスリーが相手にしている市場とは別の、とるに足らないニッチな市場で、気にしなくていい。
- 大型車を基準として全てが動いてきていて、小型車はその設計基準も経験もない。生産ラインは大型車用しかない。小型車には、大型車と共通化をはかれない部品も多いから、小型車市場に参入するには、部品メーカーまで含めて、小型車専用の全工程の製造設備が必要になる。それには莫大な設備投資が必要になる。ニッチな市場から上がる利益では採算にあわない。
- 巨大な設備投資と開発費をかけて利幅の小さい小型車市場に参入することを株主も銀行を含めた金融市場も了承しない。
- 利幅が小さいから、メーカーの販売組織もディーラーも小型車を扱いたくない。
7) 利幅が小さければ、利益も上がりにくいから、忙しいだけで賃金が上がらない。ヨーロッパや日本の労働者と同じ土俵で競争するー小型車市場への参入には労働組合も賛成しない。
8) 投資に値しない小型車市場はヨーロッパと日本のメーカーに任せておいて、自分たちは利幅の大きな大型車に特化した方が得策。
これが、ビッグスリーの経営陣も労働組合も、ディーラーも、株主や銀行や金融界も含めて関係者の誰の目にも、また全てのアメリカ人にとっても、これ以上はないという合理的な判断とその背景だった。その合理的な判断の結果が、オイルショックのせいで、燃費の悪い、不必要に大きい乗用車になった。
誰かが、何かが間違ってか、短期的な視野で見誤ったとか、どこかの組織のエゴで誤った判断をした結果として生じた問題ではない。予知しえなかった市場環境の大きな変化によって、これ以上はないというほど合理的な判断が致命的な問題を引き起こす結果となった。
豊なアメリカの消費文化の象徴だった大型車が、ある日突然、アメリカが機能していないことの象徴になった。誰の目にも合理的に見える判断であっても、市場の変化がそれを問題にしてしまういい例だろう。人智の限りをもってしても、問題になることを防ぎ得ないという教訓を残してくれた。
この合理的な判断の結果を思えば、多くの関係者にとって合理的とは言えない判断が問題を引き起こす。当たり前だろう。「モノつくりの日本」は昔の話で、「反対作りの日本」とでもした方がいい。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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