吉本隆明さんを悼む

著者: 三上 治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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いつかはこんな日があるのだろうとは覚悟はしていた。また、何度も想像したことはある。吉本さん<さようなら>と声にならない声で呟いてみても、声は深く沈んでいくだけである。僕の中には吉本さんは生きている。だから、僕はこのままでいようと思う。本棚には吉本さんの著作が一杯ある。その一冊一冊に様々のことが思い出されるが、また、ありし日の吉本さんの表情や声も自然に浮かんでくる。

僕が友人と吉本さんをはじめて訪ねたのは1960年の9月か10月のことだった。正確な日は定かではないが、まだ、安保闘争の余燼の残る日だった。あれからもう50年の歳月が過ぎるが僕は何度吉本さんを訪ねたことだろう。ある時は何人かの友人と。ある時は一人で。ある時は恋人と。また、昂る気分を抱えて、また、暗い気分にうちひしがれながら。けれども、いつも。吉本さんは優しく接してくれた。吉本さんはこちらの気持ちを察して対応してくれた。奥さんと一緒に玄関まで見送られると、僕は自然に元気になっていた。そんな一齣々々が思い出されるのであるが、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

僕は高校生のころから太宰治が好きだった。そして吉本さんと太宰は僕の中ではいつも重なっていた。だから、吉本さんも太宰が好きだと聞いた時は嬉しかった。確か、1960年代の初めの方のことだったと思うが吉本さんは太宰から聞いたとされる「男の本質は優しさ(マザーシップ)だ」と言う言葉を紹介していた。これは吉本さんの本質そのものだと思った。誰も吉本さんに接したときの印象でもあったと思う。1980年代の半ばも過ぎたころに、中上健次と一緒に吉本さんのうちに出掛け三人で24時間集会をやろうという話を持って行った。

僕もそれに似た事を考えていたのだが、発案は中上健次だった。これは「今、吉本隆明25時」として寺田倉庫で開かれた。この集会で吉本さんは『大阪しぐれ』の一番を歌った。中上健次が二番を、都はるみが三番を歌った。中上健次が休業中の都はるみを歌手として復帰させることを目論んでの「日本歌謡コーナー」でのことだった。吉本さんは初めから教えておいてくれたら、練習でもしてきたのにと照れくさそうに小声で語った。吉本さんは美空ひばりだと言っていたが,都はるみも好きだったように思う。これはもうむかしのことだが昨日のことのように思う。僕は今日もまた明日も明後日も、吉本さんのことを思い出すだろう。また、夢で出会えると思う。だから、糸井重里も言っていたが、僕も<さようなら>とは言わないでおきたい。

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