同志・松田健二の死を悼む 

11月25日、社会評論社から社主・松田健二が24日に亡くなったというメールが入った。不意打ちを食らったようで、最初はフェイクかと思った。すぐに社会評論社へ電話して真偽を確かめて、事実だということが分かった。葬式は家族葬で、細やかにやりたいとの意向だという。出てこれるかといわれたので、もちろん、渡世の義理からいって出ないわけにはいかないだろうと答えた。

家族葬で、20人程度の狭い部屋なので、くれぐれも外部には公表を控えてもらいたいと念を押された。

確か6ヵ月ほど前だったように記憶している。松田から電話があった。相模原の自衛隊関連の大病院で検査と治療をやっていて、手術ではなく、主に薬などでの治療だという。病名は「前立腺ガン」。彼はかなり冷静に、ステージ5(あるいは4だったか?)といわれている。自分ではどれぐらい持つか、大体わかっているんだ、という。「お前、弱気になってはだめだ、医療は日進月歩で進んでいるのだから、きっと何とかなるよ」と慰めた。

記憶が極端に鈍っているとも言っていたが、その時はしっかりしていた。会社に行こうとして水道橋駅で下車したら倒れてしまい、親切な女学生が助け起こしてくれたということ、出版のこと、ちきゅう座のことなど、30分ぐらいしゃべっていたように思う。また電話するよ、というのが最後の言葉になった。

思い起こせば、彼との付き合いは1989年に始まった。その頃、縁あって、いいだももの事務所で仕事をすることになり、事務所に通い始めて間もなく、いいださんが中心で進めていた出版の「思想の海へ」と「世界の解放」というシリーズ本の編集会議に出席するようになった。「世界の解放」は平凡社から出版され、「思想の海へ」が松田の社会評論社から連続出版されていた。

初めて出会った感じからは、ずいぶん太った男だということと、話しぶりに特徴があること(流暢な語り口ではなく、訥々とした話しぶり)、などだった。その後、ことあるごとに彼とは居酒屋に通った。彼の個人的なことなども聞いた。奥さんとの出会い、奥さんは岡山大学の数学科を出た才媛で、彼より年上だったこと(彼は岡山大学の文学部在学中に、彼女を強引に口説き落としたらしい)、その頃は代々木系に属していたということ、67年頃、どうしても宇野経済学をやりたくて上京し、法政大学に入学したこと、彼の父親のこと(戦前の朝鮮半島で警察官をやっていたとか)、母親のこと(奇しくも彼の母親は、僕の郷里の別府市亀川の出身だった)、そして学生運動のこと。…こういうことを書き始めると限りなく思い出す。

彼への感謝と、少々苦情を書かなければこの世での収まりがつかないので書かせていただく。

彼への感謝の気持ちは多々あるが、個人的なことも含めて特に思いつくのは次の四点だ。

まず、ちきゅう座を一緒につくったこと。その後ちきゅう座分裂の危機が起きたとき、僕が、「俺はたとえ一人になっても続けるつもりだ」と彼に告げると、「もちろん俺も同じ意見だ、せっかく創ったものをつぶしてたまるか、何が何でもやろう」と受けてくれたこと。その後も実に誠実に共同歩調をとってくれた。あのある種朴訥な誠実さ、実直さ、強情さは、彼がよく言っていた母親の幼児教育の賜らしい。彼に言わせれば、「俺の母親は、俺が喧嘩して泣いて帰ると、もう一度行って来い、と言って家に入れてくれなかったよ。九州の女は強いな」。

大先達の塩川喜信さんを、ちきゅう座に引っ張ったのも松田だった。僕が塩川さんの話をしたとき、それなら最初から話をもっていかなくては失礼だし、あれだけの人はなかなか動いてくれないぞ、という。また、塩川さんが亡くなられて、「偲ぶ会」をやろうという企画が持ち上がった時、僕はまだドイツに滞在していて、塩川さんの訃報もメールで知らされたばかりだったが、松田から連絡が入り、「偲ぶ会」のための準備委員会を開いたこと、60年安保時代の全学連関係者(特に「砂川闘争時代」)、東大全共闘、そしてちきゅう座の三者が呼びかけ人になり行うことに決定したこと。場所は明治大学研究棟第9会議室で、明治大学の生方卓さんが責任をもって教室を確保してくださるとのこと。そして僕に司会の大役を決めたということ、など。これらはほとんど松田が動いてくれた。そのおかげで成功裏に会を運営できたことを第二に感謝したい。

第三は、竹村喜一郎、滝口清栄という錚々たるヘーゲル学者との共著に、また故栗木安延(専修大学名誉教授)さんの追悼論文集でも、加藤哲郎さん、日山紀彦三という大学者に並んで、不肖私ごとき者を共著者に選んでくれたこと、また、こういうあまり売れそうにない本の出版を嫌がらずに引き受けてくれたこと、このことに感謝したい。

最後に、全くの私事になるが、僕の古希の祝いをやってくれたことへの感謝を述べたい。これは予測もしていなかったが、突然彼の方から「お前の古希の祝いを俺がやってやるから、名簿をよこせ」といわれた。一応辞退したのだが、会場設定から、往復はがきの準備・集計から、何から何まで手配してくれた。おかげで錚々たるメンバーのご参加をいただき、恐縮、感謝に堪えない。

さてここで一転して、松田に文句を言わせてもらわなければ、やはり収まりがつかないだろう。

昨年秋に他界した、友人の竹村喜一郎(筑波大学名誉教授)君が、大学を退職した折に、松田の方から「竹村の退職記念の本を仲間内で作ってやれよ」と勧められた。それで、すぐにご当人にも話をし、滝口清栄さんと僕を含む三人で編集会議を何回かやり、演題と書き手の役割を配置しておよそ一年がかりで、10本ぐらいの論文を集めた。ところが、すでにそれから10年以上が経過しているのに、いまだに出版の見込みのないまま、原稿はお蔵入り、「松田さん、この始末をどうつけるつもりなのか。ちょっと無責任すぎるのではないのか」…。

生前、松田も気にしていたらしく、「合澤すまんな、何とか出版するようにするから。そうしないとおまえに対する義理が立たない」といっていたが、それも果たさずあの世に行ってしまった。文句を言う相手がいなくなった今となっては、残念としか言いようがない。

最後に結びとして、僕の方も一つ松田にお詫びしたい。既に15年以上も前のこと、「俺が出版社をやっている間に、お前は単著を出すべきだ。テーマは『ヘーゲルとマルクス』にしろ」といわれ、その後も何度か同じことを言われた。申し訳ない。まだ一行も書いていません。構想もできていません。

昨日(28日)、松田の骨を拾いながら、ひたすらそのことを詫びた。同志松田、有難う。

                         2925年11月29日