喜劇か、あるいは悲劇か。それとも茶番劇か/菅首相は思惑通り延命できるのか(?)

著者: 三上治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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喜劇か、あるいは悲劇か。それとも茶番劇か     6月3日                              

「生きるか、死ぬかそれが問題だ」というハムレットにはまだ人間の悩みも生きることの苛酷さも伝わってくる。だが、菅首相の信任をめぐる騒動にはそういう精神の動き伝わってはこなかった。テレビで放映される国会の議場内の風景からは政治家たちの苦悩は感じられなかった。民主党の松木代議士を説得しようとする動きが目についた程度だ。菅首相は不信任の動きの広がりに対して退陣を表明することで先手を打った。これは退陣を求める動きに応じた形だ。政治的延命を猶予時間の形で確保した。菅の退陣を求めてはいたが戸惑いもあった民主党の面々はこれで矛を収めた。野党の自民党や公明党も菅の表明で不信任決議提出の意味を確認し、同時に内心は怖い解散を回避できたことで安堵しているのだろうと推察できる。政局という政党政治の病をそれとしりつつ演じたのが今回の政治劇でありこれは喜劇だった。種を提供した菅首相の存在が病の淵源であったにしても。これは茶番劇というのがいいのかも知れない。

  今回の政治劇に対して大震災の被災地の住民たちは憤りの声をあげていた。こんな時期にこういう政治しかできないということは日本政治の悲劇である。地域住民の怒りはもっともだけれど、「何をするか」ではなく「誰がやるか」でしか政治を考えられない日本の政治の悲劇ではないのかと思った。これは天皇という存在を政治の根幹においてきたことによる結果とも言える。誰がという形でしか政治的権威を生み出せなかった日本政治の伝統の悲劇なのだ。日本政治の中の宗派性が露呈したのである。僕は再三に渡ってのべてきたが政治において重要なのは誰がではなくて「何をするか」である。政治的見識や理念、あるいは構想が大切なのはそのためだ。大震災と福島原発震災はそれ以前と違って政治家や政党に何をやるべきかを改めて問うている。これは大震災が政治家に突き付けたことである。しかし、どの政治家も政党も何をなすべきかを態度や行動、あるいは政治的構想として示し得てはいないのではないか。それは場当たり的対応や右往左往するだけの菅首相も、それに造反をする民主党の政治家も、自民党も公明党も同じである。例えば、今原発をどうするかについての構想でもいい。脱原発にたった政治的見解といえるものはない。あるいは原発推進に立つ政治見解の提示もない。これは大震災の復興構想でもいい。これが今回の政争の根拠をなし、また、明瞭になっていれば国民は納得したはずである。猶予時間という形で延命した菅内閣は政治不信をクリアしたわけではない。政争もまた繰り延べされる。喜劇、悲劇、茶番劇も繰り返されるのか。

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菅首相は思惑通り延命できるのか(?)  6月4日                               

世の中には約束事とか仁義とかの言葉がある。これは僕らの普通の人間関係のルールを意味している。このルールはその当事者を超えた関係によって破られたりする。そこでいろいろと悲劇も生まれるのだが、のっけからというか最初からこう簡単に破られるのは驚きである。鳩山由紀夫と菅貞人が交わしたとされる約束《菅の首相退陣と信任》が反故とされるような事態が出てきているのだ。菅首相の退陣時期の居直りに対して鳩山が「まるでペテン師」と非難をしているのである。一体どうなっているのというのが普通の人々の反応だ。

  今回の騒動は元をただせば民主党の内紛劇にある。事の起こりは菅首相の「小沢一郎」排除にある。昨年の代表選の後に党内の一致という政治的な統一の機会を逃してしまったことがある。そして、次に大震災と原発震災に対して党内一致を持って事にあたることをできなかったことである。単純に言えば小沢一郎の党員資格停止処分を解除し、民主党が一丸となって対応すればよかったのである。挙句の果てに自分たちの取り巻きで事に対処しようとして失態を演じたのである。極ふつうに考えてこういう時期に不信任を出される方がどうかしているのである。やるべきことをやっていれば自然と信任を得ていたはずなのである。多分、ここまでが事の経過だろうと思う。だが、政治家は「何をやるか」が大事だと述べてきた。「首の皮一枚で生き延びた」とか、オオラスの役満ということもある。退陣までの猶予期間にもう誰も後戻りできない政治を実現できればいい。それができるのなら、はじめから「菅降ろし」なんて出てこないという声も聞こえてくるが、世の中には「嘘からまこと」ということもある。原発問題一つでいい。これに対する政治的な道筋を立てることができるか。脱原発の展望を切り開くことである。脱原発の構想をそのための径路《段階的道筋》を含めて提起し、実践することである。浜岡原発の停止だけでもあった評価や反響を考えればこれは可能な道である。これから定期検査で稼働の止まる原子炉の再稼働なし→廃炉という構想でもいい。そして、それに必要な新エネルギー創出と電力機構の改革に手をつける。素人ぽいといわれてもいいではないか。「素人の乱」が人々をとらえる時代である。原子力行政を利権化してきた面々から反発が有形無形の力として大きくなるかもしれない。最後に初心(?)に戻って市民の欲求に応える政治をやったらどうだ。日本の置かれている状況を考えれば対米関係の見直しを根底にした政治的展望が必要だが、原子エネルギー依存からの脱却は重要時であり、これは誰かがやらねばならない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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