1.組織体フェティシズム論
川口:やすいさんは「器官としてのメディア」と言われますが、「器官」というのは「機関」の誤りではないのですか?
やすい:社会システム全体を一つの身体のごとく有機的な全体として捉えますと、メディアはその「器官」だということになります。
川口:社会システム全体というのは抽象的ですね?個々の社会集団、例えば「家族」「会社」「地域社会」「国家」「人類社会」など様々なレベルで社会システムが機能していると思いますが、どれも生きた全体として有機的に結合しているというのですか?それじゃあ、やすいさんが「グラムシのフェティシズム論」で展開された「組織体フェティシズム」ではないですか?
やすい:大なり小なり社会集団は、生きた全体として機能していると思います。ただ組織体によっては名前と実態のギャップがひどくて、とても大学や労働組合と呼べない実態に陥ってる組織でも、「○○大学」「△△労働組合」という名前を付けていれば、それだけで大学や労働組合だと思い込んでありがたがっている態度が、組織体フェティシズムだということです。たとえそうしたインチキな組織でも、それなりの組織としての活動実態があり、その構成員の生活の再生産がなされていたりしますと、やはり有機的な全体として存在しているといえるでしょう。
2.有機体としての国家
川口:有機的な全体として存在するとは、その組織が死んでいないで、生物のように生きているということなんですか?
やすい:ええそうです。この発想は、ホッブズ『リヴァイアサン』からきています。ホッブズによりますと、リヴァイアサンはコモンウェルス(国家)を指しているのですが、それは巨大で強大な人工機械人間なんです。神経中枢にあたる主権があって、それが国家の最高意志を決定します。そしてその指令で行政機構が働き、人民の活動を支配し、規制して、物資と貨幣を流通させ、その中から国家の維持に必要な分を徴収するわけです。人民は国家の活動に従う限りで、平和な暮らしを保証されるという仕組みです。人民はリヴァイアサンの細胞であり、行政機構は神経、道路は血管だと考えられます。
川口:たしかに見事な比喩ですが、それは首のすげ替えをしたら国家は死んじゃうぞという脅しを含んでいて、絶対主義的専制政治を擁護するための論理として語っているわけでしょう。
やすい:それはありますが、単なる方便じゃないんです。ホッブズを民主主義思想家として礼讃するホッブズファンがいますが、そういう人達は、独立した諸個人が共同して平和に生きるためにコモンウェルスを樹立したという、個人主義的国家成立論に市民的な自由主義を見いだして勝手に共感しているだけなんです。ホッブズの真の狙いは国家成立後にあるのです。そうして自由な意志に基づいてできた国家にしても、征服によってできた国家と全く同様に、国家はリヴァイアサンだということなんです。つまり強大なジャイアントであって、人民は主権者と国家意志に関して永久の代理契約を結んでいて、一切異議を唱えず、主権者の意志を自分たちの意志として受入れなければならないんだと説明しているんです。そうでないと国家は生き物だから死んじゃって、元の自然状態つまり、「万人 の万人に対する戦争状態」に逆戻りだぞと脅しています。これも単なる脅しじゃなくて、本気でそう考えているんです。
川口:そういう国家を生き物、人工のジャイアントとして捉えることで、近代国家が人民から自立して人民を支配する姿をリアルに捉える効果は認めてもいいのですが、比喩ではなくて本気だとか、やすいさんまで同じように国家を生き物あるいはジャイアントと捉えるのは、大人げないような気がしますが。
3.ポリス的人間論
やすい:それは人間観の問題です。既成の人間観では人間をどうしても身体的な諸個人の枠で捉える限界があった。マルクスにしたところで「人間の本質は、現実的には、社会的諸関係のアンサンブル(総和)である」としています。その場合マルクスの頭の中に思い浮かべている人間というのは、現実的な諸個人なんです。それぞれの人々はいろんな社会関係を取り結んでいて、その網の目の結束点だということです。言い換えれば、様々な社会関係をアンサンブル(重ね着)しているのが人間だということです。
川口:個人から出発するブルジョワ個人主義的人間理解に対置して、アリストテレス的に全体から捉える「ポリス的人間」論の一変種として、「社会的諸関係のアンサンブル(総和)」を人間として捉えているんじゃないんですか。
やすい:アリストテレスは正義論の中で展開しています。つまり市民が正義として認められるのはどういう場合かということです。それでアリストテレスは全体あっての部分、ポリスあっての市民だから、市民の正義は、まず一般的にはポリスの法を遵守することで、特殊的には、ポリスに対する貢献に比例して名誉や財産が与えられること、それからそれが損なわれた場合は法に基づいて裁判を通して、調整されることだとしているわけです。ですから、人間はポリス的存在だと言っているけれど、端的にポリスが人間だと言っているわけではないわけです。
川口:そりゃ当たり前ですよ。(笑い)人間が集まってポリスを造るんであって、人間がポリスに成るわけじゃありません。ポリスは人間を統合する組織であって、決して人間それ自体じゃないでしょう。
4.国家身体の器官としてのメディア
やすい:だからホッブズは、そうした当たり前の人間観念を突破したんですよ。それでコモンウェルスはリヴァイアサンだというわけです。ホッブズの本領はそこにあるんで、決して民主主義や自由主義の先駆者たるところにあるわけじゃないんです。ところがこれを見事な比喩だとしか評価しない人が多いですね。でもホッブズの成果を踏まえて、スペンサーは国家有機体説をイェリネックは国家法人説を展開しています。
川口:なるほどスペンサーの国家有機体説やイェリネックの国家法人説が、国家を生き物や法的人格と捉える場合は、あながち比喩とは言えませんね。でも人間と法人とは全く同一とは言えないでしょう。
やすい:それは定義の問題です。川口さんが「人間」と言われる時に、身体的な個人をイメージされておられるから、人間と法人は別だと言うことになるのです。人間を意思決定器官を持ち、自らの自己保存の為に活動する存在ということにすれば、人間の中に「社会集団」や「個人」が含まれることになるでしょう。
川口:そのように定義することの意義がどこにあるのかが分かりませんね。
やすい:それで本題と関係するのですが、メディアを国家なり組織体なり個人なりの器官として捉えることができるのです。
川口:国家を身体として捉えれば、情報は国家の神経であるメディアによって身体の各部位にいる人民に伝えられるわけですから当然ですね。その場合、国家というものは意志決定機関である主権からの意志を伝えるわけですから、国家的なメディアだけが国家の神経になり、民間のメディアは国家身体のメディアに含まれないことになりませんか。
やすい:ホッブズの国家では言論・表現の自由などに関して、主権者がいくらでも制限を加えてもいいことになっています。つまり人民は主権者の意志の本人は自分であることを無条件に認める契約を結んでいることになっているのです。
川口:主権者の意志の本人は人民自身だということは、表面的な君主主権の底に人民主権が存在するという主張じゃないのですか。
やすい:そういう荒唐無稽な解釈をする人がホッブズ研究の大家にもいるようですが、ホッブズによれば、人民は国家意志の決定権を契約で、永久に主権者に代理してもらっているので、君主の意志決定過程に介入したり、意志決定の内容にクレームをつけることを権利としては一切認められていないのです。ただし国家は人民を細胞にする有機的全体ですから、人民が生産・流通・消費などの経済的活動やその他の文化的活動を行う為に必要な 情報を伝達する民間のメディアも、国家身体の一部に含まれていると言えます。でも民間メディアの活動はあくまで主権者の許容する範囲に制限されています。(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study532:120711〕