5.大衆社会とマス・メディア
川口:リベラル・デモクラシーを前提とした社会にあって、民間のマス・メディアはどういう意味で器官なんですか。
やすい:リベラル・デモクラシーの政治体制、それも議会制民主主義の下では、形式上では、国家意志は議会の議決によって決まっていることになっています。しかしそれは手続き的なことでして、実際には国会が独自のメディアで情報を集めて審議しているわけではありませんから、マス・メディアや行政の中のメディアによって流されている情報にもとづいているわけです。それに法案の作成や政策の立案は行政がほとんど担当していますから、行政府の中で国家の意志が実質的には形成されています。行政機構それ自体が巨大な情報伝達と操作のメディアとして機能していますから、国家身体論を適用すれば、国家身体の「器官としてのメディア」であるわけです。
川口:しかしそういう議論は、単に定義だけの問題で、あまり実質的には意味がないような気がします。それにマス・メディアはマスコミ権力という面からは、国家権力を構成していて、しかもそれ自体、独立した組織体としても存在していますから、国家身体の器官という捉え方では不十分じゃないでしょうか。
やすい:メディアが国家身体の器官だというのは、もちろんそれだけで十分なメディア論ではあり得ません。あくまでもメディアの一面です。しかしメディアの国家に対する関係を論じるにあたっては、重要な視点です。マス・メディアが権力の一翼を構成しながら、それ自身独立した組織体として一個のジャイアントでもあるということは、マス・メディアの性格分析に欠かせません。それにマス・メディアを論じる際には、国家身体が大衆社会としての様相を呈していることが前提になります。
川口:大衆社会が国家身体の様相というよりも、大衆社会の一つの政治的調整機関として国家があると見た方が適切じゃないでしょうか。大衆社会が身体であって、国家はむしろその器官でしかないと言えませんか。マス・メディアも国家身体の器官というよりも、大衆社会という身体の器官として捉えた方が適切でしょう。
やすい:国家に関しては、社会と機関(および道具)という二通りの捉え方があります。マルクスにも市民社会としての国家論と階級支配の道具としての国家論の展開があるわけで、この国家の二面性を踏まえた議論が必要なわけです。社会としての国家は、社会全体が共同利害を守り、福祉機能を果たす事を指します。道具としての国家はそうした機能が国家機関を中心にする一部の組織に集中するところから、国家が一部の組織体の機能と混同された結果生まれた見解です。国民国家が近代の経済単位として機能している限り、国家社会はそのまま大衆社会と重なっていますが、経済・文化のグローバルな融合過程が進展していきますと、大衆社会は国民国家の枠を越えてボーダレスな発展をみせています。こうして国民国家の近代は終焉しつつあるわけで、二十一世紀は文明圏ごとに国民国家を再編したり、世界国家的な組織化が進展せざるを得ない時代になっていきます。
川口:そういうように認識するなら、国家をジャイアントみたいに生きた人間と捉えることはできないでしょう。だって、生きた人間なら国家の再編なんてできない相談ですから。
やすい:それは個人だけを人間と見るからそう思われるのです。組織体としての人間は、解体や再編が可能なんです。
6.メディアの身体化問題
川口:では「メディアと身体」とやすいさんの「器官としてのメディア」論の関わりについて説明してください。
やすい:まずメディア自体が身体の器官だという指摘をしたわけです。それは国家身体の器官という意味ででした。そしてメディア自体がマス・メディアにしても一個の組織体として身体化しているわけです。まさしく「電脳メディア」は組織体としての身体の中枢神経系としての器官に成っているわけです。たとえばローソンチェーンが夥しい繁殖を遂げているのも、その中枢神経系として「電脳メディア」が機能しているからです。レジにおける端末情報が瞬時にして「電脳メディア」に集められ、品ぞろえメニューが細かく決められるというシステムに支えられています。組織が巨大化し、その情報量が膨大になりますと、どうしても瞬時に情報を処理して、すばやく変化に対応できなければ、組織はたちまち機能麻痺に陥るわけです。
川口:「メディアと身体」という問題意識でいくと、電脳メディアがそれを使用する人間の身体化してしまって、人間の感性や思考回路が歪みを被ってるんじゃないか、あるいはこれからの時代はメディアを身体化してしまった人間を論じなければならないんじゃないかという事なんでしょう。
やすい:全くその通りです。ただし生意気なようですが、私に言わせれば、電脳メディア以前からメディアは元々人間であり、身体であり、器官なんです。個人としての人間しか見えてないから、電脳メディアが出現して個人の身体機能が直接電脳メディアに接続されて反応するようになると、メディアの身体化だと慌てちゃうことになるんです。
川口:宮崎勤の幼女連続殺人や神戸の酒鬼薔薇聖斗事件などでは、ロリコンビデオやホラービデオなどのお宅的な猟奇趣味が、ビデオの世界と現実の区別がつかなくなって引き起こしたと言われます。電脳メディアが発達して、電脳メディアが加工し、創造する情報や、電脳メディアが造りだす疑似的な現実に取り囲まれ、人間身体は電脳メディアによって与えられる疑似環境に適応しようとすることになります。
やすい:電脳メディア社会というのは、電子通信機器やコンピュータによる情報の収集・加工・創造を前提にしています。そういう情報生産過程は生きている社会システムの神経中枢として機能しているわけです。諸個人の感性や思考の回路もそれに接続してはじめて社会的な思考に参加できるのです。社会システム全体に果たす電脳メディアによる情報処理機能の比重が大きくなりますと、当然個人の身体に内蔵された思考回路も電子メディアによって補填されますから、デジタル思考が優勢になっていきます。感性的にも電脳メディアの音声や電子映像に聴覚や視覚が慣らされることになります。
川口:一九六〇年代からベンチャーズ等によるエレキ・ギターのサウンドが軽音楽で盛んに使用されました。今や電脳音楽の時代とも言われています。
やすい:近代になって工業の発達と共に金属音が音楽に採用されます。ピアノなどはその典型ですね。現代音楽は不協和音に満ちた都市のノイズを盛んに用いて、神経を刺激します。苛立つ筈のそうしたノイズに慣らされすぎて、いつしかノイズがなくては神経が持たないようになるのです。人間の個人的身体は変わらなくても、その感性は個人的身体だけに規定されていないのです。社会システムという生きた全体に組み込まれて生きている以上、思考ばかりでなく、感性も変質していくわけです。田舎の生活に慣れた人が都会での便利な生活がかえって無味乾燥に思えるように、都会の生活に慣れた人は、時には憧れていた筈の田舎の生活にも、すぐに耐えられなくなるものです。
川口:例えば大和の古寺を巡って、仏像の慈悲に接して心洗われるというような感性が、私たちの若い頃にはまだあったと思いますが、この頃の若い世代はどうでしょう。でも一方で自然環境の問題が深刻になっていますから、かえって自然美への憧れは強くなっているかもしれませんね。
7.器官としての宗教メディア
やすい:この前、秋篠寺に三十年ぶりに行って来ました。近鉄奈良線の西大寺駅から歩くのですが、のどかな田園地帯だった筈がびっしり住宅で埋まっています。秋篠寺の境内だけが、別天地になっているんです。その中で伎芸天は昔と同じですっかり圧倒されたのですが、そういう都会の中の異次元空間になってしまっているわけです。これでは若い世代に、あの田園の中の古道を通っての古寺探訪の末の伎芸天との出会い体験は、とても継承
できません。
川口:しかし古寺探訪という発想自体が大正ロマンティズムの産物みたいなところがあります。それは戦国時代の荒れ寺とはまた違うし、ましてや奈良時代の栄えていた当時の寺院とは全く違います。それは奈良時代には、エキゾティックな時代の最先端の信仰でしたし、仏像や寺院も極彩色で、落ちついた静かな佇まいではなかったでしょうから。伎芸天のスマイルも古寺巡礼期とは全く違った意味を持っていたでしょう。
やすい:ええ、その通りです。仏像も、元々は信仰のエッセンスを直観の形式で伝える最新のメディアとして機能してたわけです。巨大寺院や仏像、難解な教義体系などは全体として当時の古代律令国家の支配装置を構成していたわけで、身体化したメディアとして機能していたのです。つまり当時の人々の感性に大きな歪みを与えていたわけです。具体的な内容は全く違っても、「メディアの身体化」それ自体は文化の永遠の問題点なんです。
川口:古代においては宗教メディアが神秘性や、呪術性で感性を歪めていたのが、現代の電子・電脳メディアは情報の大量収集・加工・大量生産によって生み出される疑似現実で感性を歪めているということですね。ところで古代の宗教メディアに関しては、身体化が問われなかったのに、現代の電子・電脳メディアの身体化が改めて問われるというのはどうしてなんですか。
やすい:だから古代律令国家では国家身体と仏教メディアは一体化していて、租・調・傭の収奪地獄である国家が、天皇自らが「三宝の奴」を名乗って、仏教の柔肌で包まれた極楽でもあるという装いを凝らしていたわけです。それは国家身体のレベルであって、個人のレベルではありませんでした。僧侶だけは個人身体レベルでも仏教メディアを身体化していたわけです。現代では諸個人の衣食住や文化生活のレベルで電子・電脳メディアの役割が決定的になってきています。最も象徴的なのがほとんど個人身体器官化している携帯電話ですね。これがユースカルチャーにもなっていて、若者から携帯電話やPHSを引いたら若者ではなくなります。この傾向は全員が携帯電話を持つまでに発展するでしょう。(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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