器官としてのメディア―3・完―

8.「メディアの身体化」の是非

川口:パソコンの普及もインターネットの発展によってますます加速するとされていますね。世界中から情報を受信し、世界中に情報をパーソナルにも発信できるようになっているわけですから、それを利用してビジネスチャンスが拡大したり、文化的な交流が進展することになります。

やすい:ええ、ですから二十一世紀の新しい人権に「世界中から情報を受信し、世界中に情報を発信する権利」が掲げられるだろうと、私は常々授業で吹聴しているのです。これは個人レベルの活動として電子メディアが不可欠になるということです。パソコンが巨大なインターネットというグローバルな神経系に接続することによって、世界に届く目や耳をパーソナルに持つことが出来るわけです。これまでも国際電話などでも一部可能であったのですが、コスト面で飛躍的に便利になりましたし、不特定多数の人と交流できるようにもなってきているわけです。やがてこれがビジネス面や文化面で圧倒的に使われるようになりますと、パソコンを差し引いた個人は社会的に生存できなくなりますので、パソコンを所有し、自由に利用できるという権利は、生存権にも含まれることになりかねません。その段階ではパソコンという電子・電脳メディアは、完全に個人身体の器官化しているといえるでしょう。

川口:「道具は手の延長である」というエンゲルス等の表現がありますが、「手の延長」と「手」は違うでしょう。やすいさんの議論だと身体と道具を混同しているような気がしますが。それに道具が器官であり、メディアが身体であり、器官であることは当然ということになって、町口さん達のように「メディアの身体化」を批判する論陣には加われないのじゃないですか。

やすい:もし町口さん達が「メディアの身体化」によって引き起こされる弊害に警鐘を鳴らすというのではなくて、「メディアの身体化」それ自体がそもそもいけないことだというように議論を建てているのでしたら、それは文明性悪説だと言わざるを得ません。そもそも道具を使う事自体が、人間の生身の身体能力の停滞を引き起こす元凶なわけです。しかし人は生身では、シマウマみたいに速くは走れないし、鳥のように空は飛べないけれども、道具を使ってどんな獣よりも速く走れますし、どんな鳥よりも遠く、高く天かけることができるのです。そのお陰で、非常に美しい脚や手を持っているわけです。道具を使うことで身体能力を生身では停滞させたけれども、それは弊害とも言えますが、弊害とばかりは言えません。車社会になって運動不足になると映画『宇宙戦争』の火星人のように蛸みたいなるのをおそれて、適当に運動する事もできるわけです。でも乗用車が身体機能を阻害するということは事実であり、その弊害を指摘することは、サバイバルにとって絶対不可欠なわけです。ということは乗用車が身体化すること自体は、事実としては否定すべきではないわけです。

9.電脳メディアと人間観の転換

川口:やすいさんの場合、乗用車が身体化するという場合は比喩じゃないでしょう。比喩としてなら納得できますが、本気で言われると反発を感じます。だってやはり自分のアイデンティティは生身の身体に感じますが、自分の乗用車は、あくまで自分の所有物であって、自分自身じゃありませんもの。というより、もし自分の乗用車を自分の身体と同様に執着してしまうと、それはクルマ・フェティシストであり、一種の病気です。

やすい:この問題は共著『フェティシズム論のブティック』(論創社刊)で石塚正英さんとかなり議論しているのですが、電子・電脳メディアでも乗用車でも生活レベルで不可欠になれば、それを抜きにサバイバルできないので、身体化と言ってもよいでしょう。もちろん電脳メディアを使うとかえって弊害の方が大きくなって、危機に陥るとなれば、電脳メディアを切ることができなければなりません。乗用車が改善出来ず、環境破壊が深刻化する一方なら、乗用車を捨てる必要もあるでしょう。こうして今まで不可欠なものとして自己の身体化したものでも、それがかえって自己の生命に致命的となれば、切除して、他の代替物に転換する勇気をもつべきです。これが石塚さんによれば、ポジティヴ・フェティシズムです。

川口:それじゃあ、あえて切れるものを身体として捉えるのはどうしてですか。

やすい:個人の身体と言う場合、もちろん狭義には生身の身体が身体の範囲です。でも例えば、貝殻は生身の貝の身体ではないけれど、貝殻も含めて貝と見なされています。排出したカルシウム分で造られた住処でも非有機的な身体だということです。蓑虫の蓑、ビーバーのビーバー・ダムと水中家屋、狼と獣道などいろんなレベルで身体性を帯びた事物が語られるわけです。

川口:そうやって拡大していくと、身体と環境との区別がつかなくなりませんか。

やすい:生身の身体を最も狭義の身体としますと、種の環境系は最も広義の身体ということになります。生身の身体を含めた環境系を構成する諸事物は、相互に限定し合って、関係して、全体としてその種を形成し、再生産しているわけです。

川口:でもその中で主体的に意識しているのは生身の身体だけですから、他の事物とは区別されるべきでしょう。

やすい:意識の内容を限定するのは必ずしも生身の身体に限りません。生活にとって不可欠な諸事物は、生体の意識に自己を映して、自己を再生産せざるを得ないように働きかけています。この事情は人間身体の意識でも同様です。それに人間社会の意識の場合は、言語に基づく知識の客観化、事物化によって、記憶や認識内容を身体の外に溜め込んだり、情報の収集・加工・処理・生産を機械や組織体に任せたりできるわけです。

川口:ということは、人間身体の特権的な地位を否定し、人間身体を道具や機械と同レベルに引下げて人権を根本的に否定することに帰結しませんか。

やすい:これまでに生産されたどんな道具や機械や電子頭脳よりも、生身の身体は生命進化の数十億年の歩みによって洗練された、高度なメカニズムを持っており、頭脳も潜在能力まで含めますと、イマジネーションの能力、感受性や情愛の能力において驚嘆すべき創造力と尊厳性を備えた存在です。とはいえ、それらは社会的諸事物の発展によって守られ支えられているわけであり、社会的諸事物との正しい関係を認識すべきです。

 電子・電脳メディアが身体化していることは事実であって、そのことによって生じる弊害は個々に解決しなければなりません。また逆に諸個人のコントロールの及ばないところで電子・電脳メディアが機能し、それによって構築されている社会システムによって、諸個人の自由な活動が著しく制約されていたりすることは、きちんと認識して、その克服のための取り組みをすべきなのです。その際、私が言いたいのは、身体のみを人間として捉える狭い了見ではもう駄目で、電脳メディアみたいな計算能力では個人の頭脳の数億倍の能力をもっているような機械が現れたのだから、これらや組織体を含めて人間カテゴリーを組み替え、人間の器官としてメディアを捉えなおすべきじゃないかと提言しているのです。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study536:120726〕