年末・年初にミラノに住む幼なじみとメールのやりとりをした。最初に、送られてきたメールの一部を紹介しながら、あらためてウクライナ戦争について若干のべたい。ナショナリズムについてである。
送られてきたメールでは、イタリアに住むウクライナ女性について触れている。
<国民感情としては、ロシアはけしからんと思う人も多いだろう。しかしロシアに同情する人々もいるだろう。知人のウクライナ人女性は、ウクライナ政府にはネガティブな感情を抱いているようだ。
彼女はロシアに大きく同情している。父親やお爺さんはロシア人、海に面したウクライナ南部の出身だ。そういう人もいる。
去年戦争の始まる前、実家(ウクライナの実家)に帰ったら、なにをやるにも賄賂が必要だったと言っていた。何かウクライナという国はアイデンティティーが弱い国かもしれない>
◆戦争によるアイデンティティーの形成
これを読みながらいろいろ頭をめぐらせたが、以下が小生が考えたことである。
戦争の中では当然のことだろうが、ミラノをはじめイタリア国内のウクライナ出身者や避難民、ロシア出身者や脱出者、それら相互の間で対立・軋轢・摩擦が深くなっていることがうかがえる。
アイデンティティーについて云えば、確かにウクライナのそれは弱かった。ウクライナ地域は名目上は独立国家ではあった。だが、その実体は東西に、あるいは西と中央と東?にわかれていた。これに対して西のリヴィウを拠点にしたいわゆるネオナチは、反ロシアの民族主義による国民国家の形成をはかってきた。2014年のいわゆるマイダン革命でネオナチによる武装クーデターが成功した(注1)。米国・オバマ政権はクーデターを支援し、次の政権人事にまで介入した。これに東部住民が反発し内戦へ、プーチンが介入・支援。プーチンの巧妙なクリミア半島占領(サイバー攻撃でなすすべなし)、その後東部の内戦本格化。これらの戦闘を通じてウクライナ国民の形成が本格化した。
(注1:「・・・だが、だからこそ人々の抵抗(マイダン蜂起―引用者)は反射的なもので、オリガルヒ資本主義に対する明確な代替プログラムやまとまった要求に導かれてはいませんでした。これが、右派が反乱をハイジャックすることができた理由です。彼らは組織化され、闘争に投入できる実力組織を持っていました。」
(ウクライナ左派系雑誌『Spectre』掲載のユリヤ・ユルチェンコ氏のインタビュー記事『ウクライナ人の民族自決ための闘い』の訳出(2022年4月11日付。訳出は「ノード連合」))
◆ウクライナ国民の誕生
2014年までは国民意識はうすかった。ウクライナは、オリガルヒとそれに癒着した政治家が支配する腐敗・汚職大国だった。破綻国家といわれてきたゆえんである。この状況は基本的にはロシアと同じだった。そして、それ以降8年間戦闘が続いた。その8年間でも汚職天国に変化はなかった。ロシアの侵攻直前まで「なにをやるにも賄賂が必要だった」。とはいえ、戦争で国民意識が形成されるのはどこでも同じだ。日本で言えば日清戦争を通じて日本国民・日本人が形成された。
では、2014年ごろのウクライナ地域の人々の意識はどういうものだったか?
やっと2014年ごろになって国民意識が出来てきたのだ。以下の伊東孝之氏の論考(注2)をよむと、よくわかる。
「・・・ウクライナ危機が起きてから奇妙な現象にぶつかることがある。これが国民国家だろうかと思われるような現象である。 ・・・2014年2月末にロシアがクリミアを占領しはじめたとき、現地駐留のウクライナ兵は少しも抵抗しなかった。抵抗しても無駄であることが判っていたので、上からそのような指令があったのだろう。しかし、それだけでは説明がつかないこともあった。というのは、多くの兵士がロシア側に寝返ったからである。つい最近任命されたばかりの海軍司令官も寝返った。・・・この国はむしろ必ずしも相互に両立できない部分から行き当たりばったりに寄せ集められたのである。現在のウクライナ領はウクライナ人自身によってではなくアウトサイダーによって集められた。・・・しかし、クリミアの併合後、大きな変化があった。クリミアが失われたことはウクライナ人にとって大きなショックであった。それはウクライナの残りの地域においてウクライナが一つの国であるという意識を強めた。東ウクライナのハルキウでマイダン運動に参加し、ドイツ紙に寄稿した若い知識人ジャーダンは次のように述べている。
「突然、われわれすべてがなにか失うものをもっている、なにか賭けなければならないものがあるということが明らかとなった。突然われわれすべてが一つの祖国をもっているということが明らかとなった。
経済的に弱く、社会的に不公正で、汚職にまみれているとしても、やっぱりわれわれの祖国だ。ほかに祖国はない。この共属感情、この共通の国境をもっているという感情は軽率に無視するにはあまりに根本的で、重要だ・・・(引用終わり)」
(注2:伊東 孝之 「ウクライナ ―国民形成なき国民国家」 スラブ・ユーラシア研究センター・2014年6月9日付)
◆幻想による国民、国民国家の形成
これがナショナリズムという幻想による国民の形成だ。現実は「経済的に弱く、社会的に不公正で、汚職にまみれている」。だが、この現実よりも「我々の祖国」という幻想が強力になる。現実は脇におかれて幻想が頭を支配し、戦争にかりたてる。歴史的に形成された共同幻想が、新たに「国民」というものをつくり「国民国家」というものをつくりあげる。
「経済的に弱く、社会的に不公正で、汚職にまみれている」のはロシア国内も同じだ。現実は両国の民衆にとって同じなのだ。すると、ウクライナの民衆はロシア民衆と共に「反プーチン=反ロシアオリガルヒ、反ロシア保安局」同時に「反ウクライナオリガルヒ、反腐敗・反汚職政治」を掲げて闘うべきということになる。
それが現実と闘うということになる。両国の民衆が共闘して互いの支配体制と闘うべきなのだ。
だがナショナリズムは現実を忘却させる。「ロシア対ウクライナ」の構図によって、両国の民衆が殺しあう。
米中対立、日本国民の反中国、中国国民の反西欧・反日」という構図も全く同じだ。祖国防衛キャンペーンにたぶらかされてはならない。「祖国」のために互いに殺しあって、どちらの「祖国」が勝とうとも、その後は以前の支配体制がそのまま続くか、あるいは新たな支配体制に変わるか、どちらかだ。
どちらにしても支配の体制がつづくことに変わりはない。
◆国民国家など命をかけるに値しない
これまで国民国家同士の戦争はかってない膨大な死者を生んできた。国民意識など本質的にはとっくに時代遅れになった。世界史的段階はとっくに国民国家を通り越しているというべきだ。国民国家はたかだか2百数十年前にできたものにすぎない。ごく最近、近代以降に形成されたものでしかない。この歴史的起源を忘却してはならない。はるか遠い昔から存在してきたかのような「祖国」は虚構である。近代以前には日本人も中国人もフランス人もドイツ人等々も存在しない。歴史的起源を持つものは、歴史的に新たな存在がとってかわる。命をかけるに値するものではない。国民国家なしで人は生きる。
「祖国日本防衛、軍備倍増」?「中華民族の偉大な復興」?「普遍的価値」?
たぶらかされてはいけない。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12703:230107〕