国民国家を超えたヨーロッパ主義は可能か(ハーバーマスの構想)

書評『デモクラシーか資本主義か』J.ハーバーマス著 三島憲一編訳(岩波現代文庫2019)

 

ユルゲン・ハーバーマスは、言わずと知れた現代ドイツを代表する思想家の一人であり、フランクフルト学派の第二世代に属し、コミュニケーション論や公共性論などの領域で長年活発な理論展開をしてきたことは周く知られている。

また一時期、フランクフルト学派(特にホルクハイーマー、アドルノ、ベンヤミンなどの第一世代)がもてはやされ、全共闘世代(あるいは、ポスト全共闘世代にも及ぶ)の若者の間でかなり読まれていたこともまだ記憶に新しい。

しかし率直に言って、彼らの書いたものはどれをとっても、そう簡単に解読しうるものではない。というよりも、相当な基礎教養を身に着けていないと、なかなか議論の中身に入り込めないのが実情ではないだろうか。

私=評者なども、何度かチャレンジしては跳ね返された苦い思いがある。いまだに「スー」っと入り込めるかどうか自信がない。どうしてそうなのか、やはり彼らの知的レベルが相当に高いからだろう(相対的にこちら側が低いから)という以外に思い当たらない。

今回取り上げたハーバーマスのこの本も、最初にページをめくったとたんに「ハイ・ソサエティ」というか、超「インテリゲンチャ」というべきか、その種のバリアが張られていて、彼があちらこちらで駆使しているアイロニー(皮肉)や諧謔なども、高踏なインテリ臭さが鼻について、嫌味としか思えなかった。

と、ここまで書いて終われば、紹介も何もない、単なる愚痴や貶しに過ぎない。救われたのはこの論集の編訳を務められた三島憲一氏の見事な「解題」のおかげである。

ハーバーマスの本文を、気が進まないままに読み進みながら、それゆえに文脈(context)すら未消化なままで、あわや放り投げる寸前までいき、改めて各論文の冒頭部の「解題」を読み返してみた。上手く解説するものだ、と驚くほど手際よく整理されている。

再び本文を読み返す。それまで気になって仕方がなかった西洋インテリゲンチャの「臭み」が拭い去られて、初めてハーバーマス本人の議論の中身に触れることができるようになった。「ドイツ人よりもドイツ事情に精通し、ドイツ語に堪能だ」といわれる三島憲一先生に深甚より感謝申し上げたい。

 

ハーバーマスの峻厳な態度表明

この本は全体が三部に分かれていて、各部ごと終わりのほうに「インタビュー」が置かれている。このインタビューをも含めて全体は11の編で構成されている。

我が国の「なれ合い(もたれ合い)」文化(風習)と違って、西欧社会(特にドイツ人社会)が、いかに相互に厳しい真剣勝負を強いられているのかは、このインタビューの中でも垣間見ることができる(それでもハーバーマスはドイツ人の議論不足を慨嘆している)。

ドイツで時折見たテレビ討論などの印象では、討論者双方はもちろんのこと、司会するアナウンサーも、日本と違って、ここまでやるのかと思いたくなるほど激しい突込みをやる。以前にドイツで、ナチス時代のドイツ人の生活ぶりをドキュメンタリーにした映画を観たことがある。かつてのナチス高級将校の遺族へのインタビューでは、最初は穏やかにその将校のキャリア(大学では文学を専攻し、詩を書くことを趣味としていた、など)や思い出話に花を咲かせて微笑んでいた年配の女性(その将校の娘)が、戦時中にはエリート将校の子供としてずいぶん恵まれた生活をしていたこと、「戦争犯罪者の家族」として、どう責任を感じているのかなどを厳しく詰問されるに及んで、ついには泣き伏してしまった。

この非妥協的な応対こそがドイツ人の身上(おそらく西欧人に広くみられる)なのかもしれないが、翻って今日の国会答弁での「高市何某」という大臣の答弁のあまりのいい加減さ、質問者の舌鋒のひ弱さを見るに及んで、改めて彼我の格差の大きさに唖然とさせられている(因みに、アベシンゾーという首相は、国会答弁で百数十回もの虚偽発言をしていたという)。日本の政治家の特徴は、党利党略と自己保身のみがあって、社会や民衆のことを真剣には考えていないことが明白である。

例えば、この本の中の第三部の冒頭の一編は「行き詰まったヨーロッパ統合」という表題である。2007年11月にハーバーマスがベルリンの社民党(SPD)本部でおこなった講演の原稿という。これを読めばわかるように、彼は堂々とドイツ社民党の政策を批判してのけている。しかもこの講演後には、当時の外務大臣シュタインマイアーと議論を続けている。

ハーバーマスがここで展開している議論に私=評者が賛同しているわけではない。むしろかなり訝しく思われるところが多々ある。しかし、それにしても彼が自分の意見を述べる際のこの堂々たる態度には脱帽する以外にない。このことは、この講演の終わり近くで、彼が次のような言葉で、シュタインマイアーを挑発していることからもわかる。

「なぜ、こうした議論をこのヴィリー・ブラント・ハウス(ベルリンの社会民主党本部の名称)で、講演させていただいたのでしょうか?外務大臣は、こういう話をただの抽象的な議論、指慣らしの練習曲でも弾いているだけだと切り捨てるかもしれません。とはいえ、外務大臣は社会民主党(SPD)の党首代理でもあるのですから、こうしたことも後で少しお考えになったほうがいいかもしれません。」

三島憲一氏は次のように解説する。ユルゲン・ハーバーマスは1929年の生まれで、1945年のナチス崩壊時には15歳である。つまり彼は、「その生涯にわたって戦後のドイツと欧州の歴史を、文字通り身をもって経験してきた世代に属する。」

この指摘は、まったくその通りだと思う。私=評者の周辺の方々で、すぐ思い出すだけでも、先日お亡くなりになられた水田洋さんは1920年の生まれで、先の大戦に招集されている。廣松渉さんは1933年の生まれで、敗戦時には12歳、塩川喜信さんは1935年生まれで、敗戦時には10歳(信州に疎開されていたと聞く)だった。世代間の違いはあったが、いずれも大変骨太な方々だったと思う。大学者でありながら、学者の「ひ弱さ、腰の弱さ」を始終嘆かれていた。

 

左翼ヨーロッパ主義者としてのハーバーマス

「左翼ヨーロッパ主義者」という命名(エピローグの表題ではあるが、それをハーバーマス自身にかぶせたこと)も実は三島さんからの借りものである。第三部に掲載されている「【インタビュー】ブレクシットとEUの危機」の「解題」で、そう呼んでいる。そして私の読後の印象からしても、この呼び方が実にぴったりくるのである。ハーバーマスの専門の「コミュニケーション論」や「公共性論」にまでこの書評の中で触れるつもりはないが、少なくともこの書物に掲載されている諸論を読む限りでは、こういう呼び方の中にハーバーマスの主張の意義も限界も含まれているように思う。

以下、ハーバーマスの見解(EU批判と将来への改革案)を抜粋・紹介しながら検討したい。

 

EUがその内部に様々な格差(歴史的に構成されてきた相違)を孕んでいること、そのことゆえに隠然と存在する内部の葛藤や軋轢が時に噴出し、「EU解消―国民国家への復帰」の呼号となって出現することに対し、ハーバーマスは次のように自己の考えを述べる(下線やゴチックは私=評者のもの―以下同様)。

「こうした歴史的な断裂線にそって争いが生じるのは、決まった場合である。それは、当該地域の住民の中で損害を被りやすい人々が、経済危機や歴史的大変革の状況に引きずり込まれ脅かされた結果、自分たちのそれまでの地位が失われるのではないかという恐怖を、言うところの「自然な」アイデンティティなるものにしがみつくことで何とか処理しようとするときである。そのアイデンティティなるものを約束してくれるのは「地域人」であることもあれば、宗教や言語や、あるいはネーションの場合もある。また旧ソ連の崩壊後に中部および東ヨーロッパの国々においてナショナリズムが予想されたとおりに生じたが、こうした観点からみれば、このナショナリズムも、「旧来の」国民国家内部に生まれつつある分離運動と社会心理的には同等のものであろう。東ヨーロッパの場合も、アイデンティティが「歴史の中で自然に生まれてきた」というのは、虚構であり、統合の障害を理由づけるような歴史的事実ではない。」(pp.23-4)(「デモクラシーか資本主義か?」)

 

この引用でも触れられているが、いつのご時世でも「民族的な差異」(ナショナリズム)をやたら振り回したがる人がいる。それに対する以下の脚注が非常に面白いのでご紹介しておきたい。

「(注8)定住型のバイエルン人が、歴史上はじめて登場した民族移動後半期の地層から発掘された人骨をDNA分析した結果は、「豚重ね理論」―つまり、人々が出自や文化などとは無関係に交接し、生殖したという考え方をいささかふざけて表現したもの―の正しさを証明している。」(「南ドイツ新聞」2013年4月8日)(p.34)

 

これに続いて「さて、どうすべきか?」という小見出しがついた小節がある。この中でハーバーマスは、かつての第一次大戦前夜がそうであったように、民衆間にあまりにも議論がなさすぎることに怒りをぶつけている。

「ヨーロッパの左派政党は、1914年の歴史的過ちの繰り返しにかかっている(例えば、ドイツ社会民主党は1914年8月の開戦にあたって、「城内平和」と称して、ドイツ帝国の戦争を支持した。各国の労働党や社会党も似たようなものであった。)現在の左派政党も、社会の中間層が右派からのポピュリズム的な攻撃になびきやすいためにそれに恐れをなして、ひるんでしまっている。」(p.32)(「デモクラシーか資本主義か?」)

 

「…こうした妨害をつぶすには、社会問題を個々の国の問題にすり替えてしまうやり方に対抗して、ヨーロッパ統合を支持する政党が個々の国を超えて協力し合い、キャンペーンを張らねばならない。政治的な対案を正しく設定し、それに沿って激しい論争が火を噴くことにならねばならないのだが、…そうした論争が起きていない。これは、右翼の力に対する恐怖の故ではないか、という以外の説明を私は思いつかない(例えば、ギリシアのために、「ドイツ人が働いて得たお金を使うとは何事か」と叫ぶ右翼への遠慮)。リスクのない対案、更には金のかからない対案というものはないのだ。」(p.31)(同上)

この論文の結論部で彼は、いかにもドイツのインテリらしい皮肉を込めて、AfD(ドイツの民族派右翼)に頑張ってほしい、そうすれば左翼連中も目覚めるだろうと忌々し気に述べている。

 

もちろん、「コミュニケーションや公共性」論の専門研究者である彼は、ドイツのメディア報道が「政府寄りの偏向報道」である現状も知悉している。それゆえに、選挙による国民の選択が「ペストとコレラのどちらを選ぶかである」状態に置かれていることも承知している。だからこそ、次のような警告を発するのである。

「まさにこのような選択肢しかないがゆえに、民主主義を担う住民の頭越しに決定がなされてはならないのだ。これは単なる民主主義の問題に尽きるものではない。守られるか守られないかの瀬戸際に瀕しているのは、民主主義の尊厳なのだ。」(pp.45-6)(「民主主義の尊厳を救え!」)

「金融危機の信頼できる解決策は、財政政策上の方策だけでは決して得ることができない。ヨーロッパの政治が信頼を得るには、段階づけた統合に向けての信憑性のある制度設計によるのみである。目下の危機はどのみち長期的には、銀行と金融市場に対する、ずっと前から必要な規制を導入する以外には出口がないように思われる。」(p.47)(同上)

彼が告発しているのは、「政治同盟なき通貨同盟(EU)という汚点」なのだ。そしてその対案として彼が提起するのが「ヨーロッパ憲法の創設」である。

「今回こそ政治家たちは、市民に分かってもらうには、第一人称で語らなければならない。…党利重視の政治が自己言及的システムに閉じこもり、政治的公共圏を単に票田とのみとらえて、管理操作の対象としてしか見ないようでは、つまり公共圏を単に環境としか(見ないようではどうしようもないではないか)。」(p.48)(同上)

「…政党というのは、広告的手法による正当性調達という、世論調査に依存したやり方には慣れているが、こうしたルーティンから外れて、メンタリティを作っていくべくなされる意見形成や意思決定のあり方には、準備がない。危機状況における特別な挑戦を受けて立つ能力もなければ、リスクの多い、思い切った行動に打ち込む用意もない。」(p.77)

「民主主義の選挙は世論調査とは異なる。選挙は公的な意志形成の結果なのであり、そうした公的な意志形成においては、、論議(Argument)こそが重要なのだ。」(p.78)(「テクノクラシーに飲み込まれながら」)

 

三島憲一はこれに次のような適切な注釈をつけている。

「ハーバーマスはルーマンのシステム論から「システム」と「環境」という批判的概念を取り入れている。社会は様々なシステムとして捉えられる。例えば、経済システムである。しかし、それだけでは社会は単なる操作の対象、世論対策の対象である。政治や行政が公共の議論の場を単に世論対策の対象としてみれば、世論は外部の「環境」でしかなくなる。原発問題で、政府や東電が世論を刺激しないように情報の小出しを続けるやり方などはまさにこれである…。」(p.50)(「民主主義の尊厳を救え!」)

 

ハーバーマスの「ヨーロッパ主義」構想とはいかなるものか

1989年のソ連・東欧社会主義国家の崩壊以後、ハーバーマスは社会主義(あるいはマルクス主義といってもよいかもしれない)への希望をすっかり失ってしまったようだ。その代わりとして彼が構想するのは、今日の世界金融資本が支配する資本主義を「民主主義的に馴致する」ということである。

「1989・90年以降は、資本主義の宇宙からの脱出ということは考えられません。ありうるのはただ、資本主義のダイナミズムを内側から馴致し、文明化することだけです。」(p.160)(「破綻の後で」)

そのためのプログラムとして構想したのは、厭々ながらではあるが、アメリカにそのためのイニシアティブをとってもらい、規範にもとづいた超国家的(supranational)次元での政治を実現するということである。それがいかに非現実的であっても「この牽引車に頼る以外に何があるでしょうか?」というものだった。もちろん、三島さんも指摘しているように、この構想はあえなく挫折する。アメリカこそは、「国民国家の権化」に他ならないからだ。

「アメリカの保護の下で平和に囲まれるような世界という覇権主義的なリベラリズムの夢は、イラクを見れば明らかに破綻している」。

それではどうするべきか? ハーバーマスの構想を一言でいえば、段階的統合による大ヨーロッパ主義(特にユーロ圏)である。アメリカへの一極集中では、今日のような多極化した世界を統一することはできない。規範的な対抗軸としての大ヨーロッパ構想を実現させたうえで、国際政治における立憲化を目指していくということであろう。「そのためにもヨーロッパ自身が立憲化された統合体とならねばならない。特にまずはユーロ圏が政治的に、つまり民主主義的に統合されねばならない。」(p.183)

「段階的統合」とは、「EUは中核国家群と、それ以外の国との間に統合の度合いにとりあえず違いを設けるより仕方がないという「異なった速度のヨーロッパ」(統合論である)」。

 

この構想の背景にある彼の情勢認識とその故の課題については次のように述べられている。

「もはや国際的な協力なしには、個々の国民国家の領域内での身体的な安寧も保つことはできない。大規模テクノロジーがもたらす国境を越えて広がるリスクに対しても、また疫病の世界的な流行に対しても、また国際的な犯罪組織に対しても、あるいは脱中心的にネットワーク化された新たなテロリズムに対しても同じことが言える。穴だらけの国境では大規模な移民の流れを止められないという事態がますますはっきりしてきた。国家次元での法システムは、もうとっくにその上に国際法の諸規定がかぶさっているし、様々な国際裁判所の司法判断によって浸透されている。こうした国際的な規則化が個々のローカルな国民国家の市民に及ぼす影響も正当化する必要があるが、その必要性を満たすには、民主主義的な意思形成やコントロールにかかわる国家内部の手続きでは弱すぎて、不十分である。市場の規制緩和、特にグローバルな金融市場の規制緩和は、個々の国家の政府による介入の余地を狭め、高額の利潤をあげる企業という税収減を国家の手の及ばないものとしてしまう。」(p.203)(「行き詰まったヨーロッパ統合―段差を付けた統合に向けて」)

「超国家的統治…において最も重要なのは、以下の五つの問題だ。①国際的な安全保障②生活に重要な影響を与えるエコロジー・バランスの崩壊に対する予防策(気候変動、飲料水の確保など)③減少しつつあるエネルギー資源の分配④基本的人権のグローバルな次元での実現⑤(貧困地域における破局の際の一時的な援助にとどまらない)公正な世界経済秩序によって、極端な貧富の差を解消し、生活向上の機会の不均等をなくすこと(国連のミレニアム・プログラムを参照)…私の考えでは、気候変動に関してだけは、国民国家間の同意によって、つまり古典的なやり方の国際的取り決めによって解決できる見込みがある。…その他の問題は、国連の抜本的改革と世界内政治の制度化なしには、解決することはできないであろう。」(pp.204-5)(同上)

この五つの問題提起の中で、取り上げられている「エコロジーの問題」に関しては、ナオミ・クラインや斎藤幸平なども同様な視点から人類喫緊の課題としていることはご承知のとおりである。ただ、これらを「国連の抜本的改革と世界内政治の制度化」によって解決しようとする点には私=評者は承服できかねる。これでは相変わらず強い国民国家の専横・支配を招くばかり(特殊的な主権的意志に依拠した偶然性)で、先の「アメリカ依存」の失敗と同様のことが繰り返されるばかりでであろう。

 

ハーバーマスの議論の総括の試み

ハーバーマスの「ヨーロッパ主義」とは、「ヨーロッパ統合をスーパー国家や連邦国家として考え」ると、新たな巨大国家群ができるため、そうならないように「超国家的な統合のための憲法」が必要であり、その規律の下で個々人は「国民国家の構成員であるとともに、ヨーロッパ市民として欧州連合の直接的な一員でもある」ことを基本としなければならない。そしてその目的達成のためには、「EUと共通通貨の利益に最も浴しているドイツ」が思い切った負担(資金移動や債務共同負担)をし、フランスと協力してEU統合を実現させるべきである、というものである。

これが彼の「左翼ヨーロッパ主義」に他ならない。私=評者には、やはりこれは「大ヨーロッパ主義」構想にしか思えない。それは、その内部に「特殊的な主権的意志」(特殊利害関係)を残しているからだ。実際にハーバーマス自身が、「段階的統合」という形で、「EUは中核国家群と、それ以外の国との間に統合の度合いにとりあえず違いを設ける」「異なった速度のヨーロッパ」統合論を妥協的に提起しているではないか。こういう状況下で統合を進めるには、ドイツとフランスという二大大国による強引なヘゲモニー行使以外にはないのではないだろうか。

ハーバーマスは、「それは例えば各国のリーディング・メディアが他国での論争をもっと紹介しあうことにより、「相手のパースペクティヴ」を市民が取れるようになるといった工夫で十分可能である。」などと気楽な発想をしているようだが、それではなぜ、この構想がいまだに実現しないのか。政治家の「腰が据わっていなかったからだ」というのでは、全く拍子抜けの答えでしかない。

ハーバーマスから三島宛の私信の中で、「エピローグ:左翼ヨーロッパ主義者たちよ、どこに行った?」という講演の中で、彼は「ヨーロッパの将来について「初めてペシミズムを表明した」」(p.288)と書いてきたそうである。

「欧州首脳会議で決めた緊縮政策で職場を失ったスペイン、ポルトガル、ギリシアの人たち」の間に、「EU内でのドイツの一人勝ち」に対する「ルサンチマンが出る」のではないかと言われている。まさか、「外国の政治家を選挙で落とすわけにいかない」からだ。(p.280)

同じく「エピローグ」の中でSPDの凋落を彼はこう嘆いている。「社会民主主義とは、資本主義の馴致というプログラムのはずなのに、規制緩和された市場がコントロールの利かなくなってきたその次元で、この資本主義の馴致をあえて試みることを今やしなくなってしまったからだ。…歴史的にみるとドイツにおける民主主義の運命は、他のどんな政党よりも社会民主党と結びついてきた。」(pp.298-9)

 

次のように反問したい。ドイツ社会民主党が「資本主義の馴致」どころか、絶えず保守勢力と一体となり、ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトを虐殺し、民衆の革命的な戦いを圧殺してきたというのが、1918年の「ドイツ革命の敗北」以来の伝統ではなかったのか。そうだとすれば、ハーバーマスがベンヤミンから継承した思考とされる、「政治による変更という可能性」「歴史には違った方向の可能性が常にあったし、今もあるという広義の行為論」から考えて、「資本主義の馴致」プログラムを捨て去って、改めて「資本主義打倒」のプログラムを考えていくべきではないだろうか。そのためには、アメリカ、中国、ロシアとの対抗軸としてのEU圏の超国家的な統合を目指すのではなく、世界中の民衆の統一(団結)こそが真に求められるべき目標ではないだろうか。

 

まだ上で取り上げた以外に興味深い問題が沢山ある。例えば三島が注目している、ハーバーマスの「連帯論」である。これは、「テクノクラシーに飲み込まれながら」の中で展開された彼のある種の運動(行為)論である。「互酬的行為」や「連帯的な行動の前提となる信頼」などに触れている。

しかし、今回はそこまで手を伸ばすことはせず、ひとまずこれで擱筆する。

2023年4月2日 記

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture1162:230402〕