地図を描けない

自分が遭遇した限られた経験からこうだろうと一般化しての話ででしかない。「それは、あなたの経験と知識が限られているからそう思うのであって、一般化した話にするのは間違っている」とお叱りを受けかねない。分かってはいるのだが、かなりの数のアメリカ人がそうだったことから、アメリカ人はこうなのだろうと考えてしまう。関西の人たちが東京の人たちは。。。、東京の人たちが大阪の人たちは。。。という一般化と同じだ。人の理解は常に限られた経験から得た知識を組み合わせて一般化することによって成り立っていることを思えば、この程度の一般化、許容範囲として欲しい。

 

七十年代の後半から八十年代前半はニューヨークに、八十年代中頃にはクリーブランド、二千年の中頃はボストンにいた。ニューヨーク時代は米国中西部-ミネソタ、ネブラスカ、テキサスまで毎週のように出張してかなりの数のアメリカ人に道を尋ねなければならなかった。カーナビなどという便利なものもなく、出張に行く先々の詳細な地図を持ってもいないから、色々な人に客先への、モーテルへの、ダイナーへの行き方を尋ねることになった。

 

行き方を教えてくれる人たちが描く地図は今いるところから始まる。自分たちがいる工場や事務所、モーテルやダイナー、ガススタンド。。。を起点として身近な適当な紙に地図を描き始める。何度も描いてもらっているので驚かないのだが、決まって紙の中央に今いるところを大き過ぎる四角や丸などの図として描く。そんなに大きく描いたら目的地まで入りきらなくなるだろうと想像がつきそうなものなのだが、フツーのアメリカ人は気にもかけない。常に大きすぎる。四角か丸から出てゆく道を描いて、。。。に向かってまっすぐ信号が三つだったり八つだったりを数えながら道順を描き続けるのだが、いくつかの道を描いたところで紙の端に達してしまう。しょうがないから紙の裏に道を続けて。。。。目的地を紙の裏のもう一方の端に小さくなんとか描いて地図が完成する。

 

道を教えてもらった人はおそらく優に百人は超えている。多くの人たちに共通していることからアメリカ人個人個人の資質上の問題ではなくフツーの人たちに共通な何か社会的な背景があるとしか思えない。そうは言うものの例外がないわけではない。非常に限られた数だが紙面内にきちんと分かり易い地図を描いてくれたアメリカ人もいた。何が紙面内に地図を描けない人たちと描ける人たちの違いを生み出しているのか?思い出しては考え、答えのないまま忘れては思い出してを繰り返してきた。

 

いつものようにPCに追加のアプリケーションソフトウェアをインストールしていてはたと気がついた。気がついたと言っていいのか分からないがこう考えれば説明がつくというのがポンと出てきた。紙面内にきちんと地図を描いてくれたのは大体がそこそこの社会層の人たち-訪問先の顧客のマネージメント層の人たちやエンジニアで、紙の裏側にいって紙面ギリギリでなんとか描いてくれたのは社会層で見ればどちらかと言えば下流に位置するフツー人たちだった。

 

所属する社会層が人柄や能力の全てを表わしているとは思わないが、マネージメント層の人たちは仕事を通して鳥瞰的に物事を見る能力を培っている。日常業務として課題や問題に対処する際に全体像を把握して、関連部署や部下に間違いなく理解できる個別のタスクとして指示を出している。アメリカのように多人種、多分化の社会で個別タスクとしてではなく課題や問題の全体を鳥瞰図として提示したのでは、受け取る側は受け取る側の知識や常識、能力や思い入れでそれぞれが違ったやり方を工夫する。たとえ目的を達成できたとしても、達成に至る道筋は人それぞれで幾通りもある。最短距離と最短時間で目的を達成する人たちもいるだろうが予想だにしないルートで迂回する人もいれば、いつまで経っても目的に至らないということも起きる。

 

アメリカで目的達成のための手段の選択ややり方を指示を受ける側の好きに任せれば混乱する危険性が高い。それこそ人様々で何が起きるか分からない。この危険をさけようとすれば、リーダの立場にある一部の人たち-マネージメント層の人たちが全体を鳥瞰的に把握し、指示を受ける人たちには指示されたことを愚直に実行することだけを求める社会構造が出来上がる。ソフトウェアのインストレーションでも全く同じことがユーザに強制されている。インストレーション開始したら、あとは出てくるダイアログに従ってオプションを選択し“次へ”ボタンを押して作業を継続するかキャンセルするしかない。そこにはインストレーションが一体なにをどうしようとしているのかについて事前に全体を鳥瞰した説明がない。されても知識不足で分からないかも知れないが、何をしようとしているのか、させられようとしているのかというPCの所有者として知らされてあたり前のことを知り得ない。

 

全体を鳥瞰的に理解して何をどのようにすればよいかについて考えることを日常的にさせてもらえない立場に置かれたら、人は全体を鳥瞰的に知るための知的作業をする能力を培えない。たとえ萌芽的な能力があったとしても使う機会がなければ矮小化する。これがフツーのアメリカ人をして紙面内に地図を描けなくしている、少なくとも一因ではないかと思う。

 

ほとんどの日本人は全体の鳥瞰図を欲する。それなしのステップ・バイ・ステップの作業指示だけでは落ち着かない。誰もが全体図-全体の作業の流れを知りたいと思う。自分が全体のなかでどのような立場で何をしているのかを知りたいと思う。そうは思うのだが、全体の鳥瞰図をと思うのは年配者か一部の気にする人たちだけで、もしかしたら、今までも結構多くの人たち、とくに若い人たちはステップ・バイ・ステップの方が妙な責任など気にすることもなく、気楽だと言い出すのではないかとちょっと心配になる。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集