塩川さんを偲ぶ会のお知らせ:「学生運動の歴史と砂川から沖縄―塩川喜信さんを偲んで」

日時:10月29日(土)2:00~4:30

場所:明治大学・研究棟2階 第9会議室(第Ⅰ部)

 第Ⅰ部

テーマ: 「学生運動の歴史と砂川から沖縄―塩川喜信さんを偲んで」

 

第Ⅱ部は会場をかえて、リバティタワー17階の「師弟食堂」にて「お別れ会=和みながら塩川さんを偲ぶ」

会費 第Ⅰ部のみの場合は1000円。Ⅰ、Ⅱ部共に出席の場合は5000

呼びかけ人:(アイウエオ順)合澤清、江田忠雄、岡本磐男、白川真澄、土屋源太郎、山本義隆、吉沢弘久

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「塩川喜信さんの81年間の歩み」

1935年6月27日 神戸で生まれる

1937年 東京中野へ移る

<1941年12月8日 太平洋戦争始まる>

1942年 中野区立桃園第二小学校入学

1944年 群馬県上野原へ疎開、その後、静岡県源道寺へ疎開

1945年8月15日 疎開先で終戦、9月に桃園小学校へ戻る

1948年4月 成蹊中学入学

1949年 授業で「世の中の動きに関心を持つように」(山西英一先生)と言われたことが、その後の人生への導入部になった

1951-53年 成蹊高等学校

1954年 東京大学教養学部入学

1955年 2年生の後期に授業料値上げ反対で復活した学生運動に積極参加

1956年4月 文学部東洋史学科に進学

都学連執行委員となる。同年9月、全学連が総評など共に支援することになった砂川闘争で現地泊まり込み。9月14日、15日の「流血の大闘争」に参加

1957年 第一回目の逮捕(都学連委員長としてアメリカ大使館前の抗議デモを指揮、道路交通取締法違反で警視庁に連行)

1958年 第二回目の逮捕 12月に全学連委員長に選出

1960-62年 大学院農学部に進み、修士課程で農業経済を専攻

1963-66年 大学院博士課程に進む

1966年 永福町に転居

1966年10月 農学部農業経済学科助手

1967年3月22日 啓子夫人と結婚

同年11月10日 肺結核で手術

1968年 東大医学部で闘争が始まる

1969年1月18-19日 東大安田講堂での攻防戦 大学に泊まり込む

1970-72年 日大、東大など全共闘の活動家が絶えず自宅に出入り(雑魚寝)

1973年4月 次男誕生時も 農学部研究室に泊まり込みの生活

同年 ヤツッェク・クーロン/カロル・モゼレフスキ著『反官僚革命――ポーランド共産党への公開状』(柘植書房)を翻訳・出版

1974年5月24日 三回目の逮捕(東大の臨職闘争に関連し、「助手共闘」として安田講堂に入り逮捕。約一ヵ月間東京拘置所に収監)

1980年 ポーランド「連帯」労組の闘い開始。その後の「ポーランド資料センター」の結成に参加

1981年 エルネスト・マンデル著『トロツキーの思想』(柘植書房)を翻訳出版

1989年5月 フォーラム90s結成準備会で(いいだもも、廣松渉に口説かれて)初代の事務局長に内定⇒1990年春、フォーラム90sが正式発足し、その後10年間続ける(1990年から4年間事務局長を務める)

1990年 トロツキー没後50周年国際シンポジウムの中心的組織者の一人として参加

1991年 トロツキー研究所結成。その所長に就任

1992年 痔の手術

1993年 舌癌で放射線治療

1994年 下顎部リンパ腺癌で手術

1996年3月 東京大学を助手で定年退官。それ以前からの神奈川大学経済学部非常勤講師に専任、農村調査などを行う

同年 著書『高度産業社会の臨界点―新しい社会システムを遠望する』(社会評論社)出版

1999年 『新左翼運動の光と影』渡辺一衛、大藪龍介と共編(新泉社)出版

2005年春 ウェブサイト「ちきゅう座」発足(運営委員長・田中正司、編集長・塩川喜信の体制で4年間)

2006年 大腸ポリープ、大腸癌手術

同年 60年、70年安保闘争経験者などを中心に党派を超えて結集する「9条改憲阻止の会」の呼びかけ人になる

2007年 八王子に転居

同年6月15日 「9条改憲を許さない6.15共同行動」(日比谷野外音楽堂)での集会宣言を発表

同年 インタビューに答えて自らの半生を語る(『トロツキー研究』50号、51号)

(2008年8月 新原昭治氏によりアメリカ公文書館で発見された砂川事件裁判(1959年)での、伊達判決を破棄し両国間で協議中の日米安保条約・行政協定改定を実現させるべく、駐日米大使の裁判促進の働きかけと田中耕太郎最高裁長官の米国への裁判情報漏えいが明らかとなる。)

2009年3月 砂川裁判の元被告・土屋源太郎の米国公文書に関わる日本政府・最高裁の情報公開を求める動きを支援。6月6日に明治大学で日本政府に情報公開を求める集会の主催者の一人となり、この日正式に「伊達判決を生かす会」を結成した。のちに、砂川事件元被告・土屋源太郎(元都学連委員長)、元被告団長・坂田茂(元日本鋼管川鉄労組・川崎市議)、武藤軍一郎(元東京農工大)吉沢弘久(元都学連書記長・自治労執行委)らと共同代表となる。

(会結成後の月1回開かれて来た月例会では議長を務め会のまとめ役を果たしてきた。2010年以降、伊達判決が出された3月30日前後に毎年会主催で開かれた「伊達判決記念50~57周年集会」では司会役を務めた。)

2009年5月 「ちきゅう座」総会で塩川運営委員長体制に移行(3年間)

同年、胃癌で内視鏡手術

2010年 塩川喜信編『沖縄と日米安保――ちきゅう座ブックレット』(社会評論社)出版

<2011年3月11日 東日本大震災起こり、福島第一原発事故発生>

2011年4月 「伊達判決を生かす会」代表団として、土屋、坂田らと沖縄を訪問、辺野古などを訪れ、稲嶺名護市長や伊波洋一をはじめ多数の平和運動を推進する団体や個人と交流し、会の反基地運動への参加と沖縄との連帯を強めた。

2012年1月 蜂窩腺炎で入院、間質性肺炎、肺気腫合併症を告げられる

同年5月 「ちきゅう座」総会で、健康状態不良のため運営委員長を辞し、以後監査役を務める

2013年 食道癌を内視鏡手術

2014年6月17日 砂川事件裁判の再審請求を東京地裁に提出に際し、その準備過程で中心的役割を果たす(2016年3月地裁は請求棄却決定を出すも直ちに高裁に即時抗告)

2016年7月30日 肺炎で急逝(満81歳)