変わり映えのしない民主党政権だが危機は深まっている

著者: 三上治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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 しばらく中断していた論評であるが、再開する意欲が乏しかったわけではない。論評してみたいこともあったけれど、霞ヶ関界隈でやっている運動(経産省前テントのこと)の方に心身が取られていて踏み出しにくかったというのが正直のところである。かつて幾分でも民主党政権に期待した向きは段々と失望が深まって目をそむけはじめているのだと思う。自分もそうした一人だったのだからその辺はよくわかる。批判されているうちはまだいい。関心も持たれなくなくなったときはより深刻な危機で民主党は今その水域に入っているのではないのか。このことに気がついている面々は民主党の首脳にどれだけいるのだろうか。自民党も同じことである。民主党が国民から見放されたとしても自民党の方に人々の意識や目は向かないのである。橋下の「維新の会」はどうだろうか。早くもその実際に人々は気が付きはじめたのではないか。分相応のところに落ち着くのも早いのではないか。人気と失望は同じ早さで動く。 

 民主党の政治家への失望は突き詰めていえば政治理念というか、構想力の欠如である。かつて菅前首相や彼を支持した仙谷等に彼らは決局のところやりたいことがなかったのではないかと批判したことがある。やりたいこととは政治理念や構想のことであるが、政治駆け引きやその技術は身に付いたかも知れないが、理念や構想は何も蓄積しえなかったということである。菅政権の後の野田政権の面々にも同じことが言える。だから、当然にも彼らは官僚主導政治に回帰する。しかし、その官僚も政治理念や構想はかつてのようには持ち合わせていないのである。そして皮肉なことに小沢一郎にかすかな期待が残っているのは彼が刑事被告人にされることで彼の政治理念や構想が試されないままに残っているからである。これはどこかで試されるか、その機会がないために幻想として残されるかのどちらかであろうが、それがどうなるかは分からない。僕等は民主党や自民党の政治の根底的な批判になるような現在の政治に応えられるような政治理念や構想を持ちえるのだろうか。それのために僕らに取って困難な問題は何なのであろうか。かつてなら革命という理念や構想がその導きの糸になるものだった。だが、現在ではそれらは色あせた言辞かどこかのサークルで秘儀として保持されているものに過ぎない。僕らがかつての革命という理念から学んだものは世界を認識すること、歴史の流れをとらえることにおいて政治的理念や構想は導かれるということだった。これ以外の革命的言辞などはどうでもいいものであり、もはや意味のないものになった。これが現在である。
(2月20日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0779:120220〕