<前代未聞!―警察官が警察上部の謀略を法廷で暴露・証言>
〔イラワジ紙4/20〕ロヒンギャ虐殺問題を取材していて、機密文書所持の容疑で逮捕起訴されていたロイター通信の二人の記者の裁判で、先週警察と検察の証人尋問で事件のでっち上げが内部告発・暴露されました。ティンココなる警察高級官僚(警察准将)が事件を仕組んだことが、部下によって証言されたのです。記者二人の調査取材を妨害するため、情報提供を口実にレストランに呼び出し、あらかじめ手渡すよう用意した文書を記者たちが受け取った瞬間を押さえ、機密文書不法所持だとして逮捕するようティンココから指示されてやったと、誰あろう当の警察官が証言したのです。その指示を受けた際、もし命令に従わなければ、お前たちを牢屋にぶち込むと脅されたといいます。ちなみにティンココ准将は、2014年に設立されたラカイン州のマウンドー郡区の国境警備隊(本部)の司令官を務め、次にネイピードーで公安警察司令部のトップを務め、2017年10月にはヤンゴン公安警察司令部のNo.2に就任し、出世階段を順調に登って現在に至っています。ともかく国軍関係者が、ラカイン州でのロヒンギャ迫害の事実が暴かれることをどれほど怖れているかの傍証にもなる事件です。
ミャンマーのような準軍事国家で軍隊や警察で公然たる内部告発がなされるのは、驚天動地の出来事です。過去軍政下多くの謀略的な事件が頻発し貴重な人命が失われてきましたが、真相はすべて闇の中に葬り去られてきました。最も有名な2003年5月に起きた「ディペイン事件」では、地方遊説中のNLDの車列が暴徒に襲われ、一説では数十名位前後の若いNLDの活動家が虐殺され、証拠隠滅のため道路上に死体を並べて、車で頭部をひき潰していったという話も伝わっています。スーチー氏も間一髪、運転手の機転で現場から逃れたといいます。この事件はあらゆる状況証拠から見て、トップのタンシュエが下命し軍高官が現場指揮して遂行されたものだというのが衆目の一致するところでした。この推測を裏付けるように、この事件の指揮官とされていたソ―ウィン中将はまもなく論功行賞で首相に大抜擢されました。
しかし問題は、この事件の被害者であるにもかかわらず、スーチー氏がディペイン事件を一貫して不問に付していることです。国軍との和解・宥和を優先するその戦略的方針から、国軍の過去の蛮行をいっさい免責する態度を貫いているのです。独裁政権と民主化勢力との和解には、南ア、韓国やチリーなど多くの事例がありますが、どこの国でも真相を究明するための「真実と和解委員会」を立ち上げ、限界があるにせよ最低限の蛮行の事実と政治責任の糾明の努力が行われました。しかしミャンマーではスーチー氏がこの種の動きは絶対認めずタブー化しており、このことが一つの要因となって88世代との溝も生じているのです。
民主化への大きな流れなくしては、今回の内部告発はありえません。しかしこの内部告発をした勇気ある警察官は、自分の身を案じているといいます。暴力社会という既存の流れで言えば、暗殺を含む報復が危惧されるからです。だからといってスーチー政権が警察官の身の安全確保に動くことはあまり期待できません。スーチー氏の右腕といわれた法律顧問コーニ―氏の暗殺事件においてすら、NLDが組織を挙げて真相究明に動いた形跡はありません。今だにその暗殺の黒幕と目される軍関係の人物は逃げおおせています。また先般、スーチー氏とミャンマー民主化運動を1990年代から支援してきたアメリカの前メキシコ州知事で政府の諮問委員会のメンバーだったビル・リチャードソン氏をスーチー氏は解任しましたが、その原因のひとつがロイター通信の二人の記者の不当逮捕にあったのです。リチャードソン氏が二人の記者の釈放にむけて政府に努力を迫ったのに対し、スーチー氏は激怒して拒否したとされています。政府は司法の判断に三権分立からいって介入できないとしていますが、国軍絡みの事件には極力介入を避ける政府の基本姿勢が透けて見えます。国軍という虎の尾は踏まない、踏ませないといったスーチー氏の根本姿勢が、民主化を停滞させている根本原因であることはすでに国際社会の常識に属するところです。
多くの在日のミャンマー人が、私にスーチー氏は既成勢力の壁に阻まれて改革を思うように進められないでいると弁解がましく言います。私は内心「嘘つけ」と思います、改革を進める必死の努力などどう贔屓目に見ても見当たらないからです。
<レジーム転換―歴史の断絶と連続という視角>
弁護士の澤藤統一郎氏が「ちきゅう座」サイト( https://chikyuza.net/)に「武田清子『天皇観の相剋』再読」という論考を投稿されております(http://article9.jp/wordpress/?p=10232)。ミャンマーの民主化過程を考える上で多少なりとも参考になると思いますので、その論旨をご紹介いたします。
澤藤氏は靖国訴訟に携わった際に、武田氏の「天皇観の相剋ー1945年前後ー」を参照したが、そのときの理解ではアメリカ占領軍の対日占領政策を、天皇制廃止論と天皇制存続論との二項が相克・対立するという構図で見ていたといいます。当時の連合国の世論では、天皇(裕仁)を処罰し天皇制を廃止すべきだという意見が多数であったので、論理的には天皇制廃止に向かうのが自然と思いきや、実際には象徴天皇制という形態で妥協的な天皇制温存が図られた。その複雑な理由を解明しようとするとき、武田氏の卓見は大いに参考になるというのです。つまりその卓見とは、象徴天皇制の決定に際して働いた政治力学を、国際的側面だけでなく日本国内固有のイデオロギー的条件、つまり近代日本の内包する「二重構造の天皇観」の相克に着目して分析したところにあると、澤藤氏は指摘します。
多くの政治学者の見解とも一致するところですが、武田氏によれば、明治期に確立された天皇制は、その絶対主義的君主制の側面と、立憲君主制という側面を併せ持つ二重構造になっていたといいます。そもそも幕末における天皇観からして、吉田松陰の絶対主義的な天皇観と、山県太華の制限君主的な天皇観との分岐がすでに見られた。「明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。『万世一系ノ天皇』は『神聖ニシテ侵スヘカラス』だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す」。やがてこの天皇制の相異なるに側面が、「超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解して」いったと武田氏は言います。(ここでの武田氏の発言は、すべて朝日.comのインタビューから)
そして敗戦とともに、超国家主義的天皇観は軍閥解体と農地改革とともにイデオロギー的根拠を失って消え失せ、残ったのは近代日本社会の弱い伝統としてあった憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」(澤藤氏)であった。これが占領政策に触発されて息を吹き返し、「天皇制を温存しつつ、平穏な民主化という選択肢が現実的なものと映ることになる。日本の占領政策は後者をメインに折れ合って、天皇の権威を利用して成功裡に平穏な民主化を実現したことになる」(同氏)。戦前駐日アメリカ大使として日本社会の事情に通じていたグル―らの天皇温存派グループが、ラティモアらの天皇制廃止派―日本国内では共産党らごく一握りの左翼―に勝ったのは、いわば民主的変革に際して伝統社会とのつながりを保持しえたためその政策にリアリティがあったためというのでしょう。(あの丸山眞男氏ですら、敗戦時はリベラルではあるが天皇制支持者であったことを告白しています)
武田氏の分析を受けて、澤藤氏はレジーム転換における伝統と改革の弁証法を総括してみせます。
「この分析は、天皇・天皇制の考察を中心に、戦前と戦後の連続性と断絶性の契機を考える基本視点を提供するものでもある。天皇制の相克の折り合いは、戦前と戦後の断絶性と連続性との折り合いでもある。天皇制を温存した戦後は、戦前的な多くのものを引きずって今日に至っている。天皇制温存の『民主化』は平穏な過程というメリットとともに、自ずから不徹底な限界を内在する宿命にもあったのだ。
わが国戦後の天皇制存続下の民主化は、昨今における北朝鮮の金体制温存下での民主化の課題を彷彿とさせる。微温的に天皇制を温存しつつこれを「無力化」した日本の戦後民主主義改革の如くに、金体制の存続を保証しつつ、民主化や国際協調が可能なのだろうか」
マルクスが述べたように一社会は自分に解決できる課題しか提起しないのです。敗戦後の条件のもとでは完全民主制や完全共和制はユートピアにすぎなかったということでしょう。もし戦後すぐに天皇制廃止を占領軍の武力を背景に日本社会に強いて実行していれば、おそらくその後伝統社会の激しい揺り戻しにあって多くの混乱を招いたことでしょう。戦後改革70年になる今日、象徴天皇制と民主憲法ですら安倍政権に代表される反動勢力によってなお「改正」の対象になっており、彼らの野望が実現しないともかぎらない状況にあります。彼らはグローバル資本主義の行き詰まりとそこから広がる将来不安を、日本国憲法=戦後民主主義の欠陥に由来するものと巧妙にすりかえて、多くの若者の心をそれなりにつかんでいるのです。※
※保守派論客として注目されている1982年生まれの古谷経衡氏の論考は、1980年代以降の左翼やリベラル派の後退が若者世代にいかなる影響を及ぼしたのか窺われる点で注目すべきでしょう。ただ古谷氏自身は右派的な立場からリベラルへ転向しつつあるように見えます。
私が敢えて澤藤氏の論考を引用したのは、日本のこともありますが、氏が最後に北朝鮮の金正恩に言及されたように、ミャンマーのスーチー政権の在り様を考えてのことでした。民主的な社会への移行期にあって、強大な権力と実力を依然保持する国軍と対峙しながら、また遅れた排外主義的傾向をもつ国民意識と闘いながら民主化を進める困難は並大抵でないことは百も承知です。しかし民主化の過程を安定的平和的に進めることに主眼を置き過ぎれば、肝心の改革はなおざりになります。自由と生活向上を希求する国民に依拠して民主化勢力を日々強化し、国軍との力関係を変える不断の努力が必要なのです。ちなみに近代市民革命の戦略的目標のひとつとされる土地改革ひとつをみても、軍政下国軍が強制的に農民から横奪したと見込まれる土地約50万エーカー(1エーカー=約0.4ha)のうち、返却や補償などの解決を見たのは数千エーカーにみたないと言われています。これはやり手と言われるウィンミン新大統領が下院議長としてやった実績です。残念ながらこれではいくら農業振興を口先で説いても、肝心の農民の耕作権は不安定であり、営農意欲を引き出すことはできません。前にも引用しましたが、スーチー政権と民主化運動が打開すべき方向性は、次のドイツ紙ターゲスツァイトゥング(1/27電子版)の一言に尽きています。
「その強い権能にもかかわらず将軍らとの抗争を避けるスーチーの戦略は、自身への信頼と改革を成就する能力を損なっている。独りで軍と格闘するのではなく、市民社会とより強固に結びつかねばならないのだ」
市民社会との結びつき―これは同時に市民社会を形成強化する仕事と併行します―を深めることによって、伝統社会と深く関わり、それに十分配慮しつつ改革するという難事業に成功することができるでしょう。いや、これはミャンマーに限らず、世界のすべての国が新自由主義的なグロバリゼーションに対抗して、個性ある国づくりと公正平等の国際関係をつくり上げていくための必須の条件であるのです。
2018年4月24日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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