夏目漱石『文学論』の余白に

著者: 川端秀夫 かわばたひでお : 批評家・ちきゅう座会員
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◇まえがき◇
言葉と思索と感情の関係に関しての、千坂恭二@ガイストさんのつぶやきに触発されて、夏目漱石の『文学論』に関して私もつぶやいてみました。その後、Tさん・Mさん・私(=D)による三者の対話が始まりました。対話が一段落したところで、このようなエッセイの形にまとめてみました。議論の発端を与えて頂きました千坂恭二@ガイストさんにお礼申し上げます。

◆発端:千坂恭二@ガイストさんのつぶやき◆

言葉は思索を表すものではなく、思索は言葉で行われるものだという。これは言葉以前の思索は無いということでもあるが、しかしでは言葉は同じものかといえばそうではない。同じ語を同じ意味で使用していても、ニュアンスや言葉にこめた感情が全く違っていたりする。

□私のつぶやき□

①夏目漱石は『文学論』の冒頭においてかくの如く述べている。「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、f はこれに付着する情緒を意味す。されば上述の公式は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云い得べし」 。

②言語における同一性と差異の問題。同じ語を同じ意味で使用していても、ニュアンスや言葉にこめた感情が全く違っていたりする。逆に、違う意味の言葉を使っても、ニュアンスや言葉にこめた感情を全く同じにすることができる。同じ言葉はない。言葉は常に新しい。だが(F+f)という構造は不変である。

③ある人がある時に使った言葉は認識的要素(F)と情緒的要素(f)の結合から成りたつ。同じ人が違った場合に使う同じ言葉はFも同じでなく f も違っている。まして他人が使った同じ言葉が別の人の(F+f)と一致したらそれは奇跡だろう。しかしそのような奇跡を招来すべく文学者は戦っている。

■以下、コメントです■

T:ソシュール言語学。シニフィアンとシニフィエの関係。

T:通訳を使い慣れてない人が稀に言うのが、「そのまま言葉を訳してください」。でも、言語やフレーズの背景にある文化が違うから、そんな事をしても意味がない。技術分野だったら何とかそれでも出来なくはないけど、日常会話の通訳はムリ。その意味で、戸田奈津子さんの字幕は、とてもいいです。

T:漱石は、I love you を、「月が綺麗ですね」と訳したけれど、これはちょっとやりすぎ・・・。

M:漱石が『文学論』を発表したのは1907年。ちょうどソシュールがジュネーブ大学で後に『一般言語学講義』として纏められる講義を行っていたのと同時期です。まあ、言葉と意味のズレというのはドストエフスキーも頻りと強調していたことですし、トーマス・マンも1903年に『トニオ・クレーゲル』の作中で論じています。

M:言葉というものに多少真摯に思いを凝らす人であれば、言葉と意味のズレという事態には自覚的になるでしょう。しかし、その自覚を「シニフィアンとシニフィエ」「F+f」という形で明快に定式化してみせた点は、やはりソシュールや漱石の偉大さですね。

M :ただ、たとえばトーマス・マンなどは「シニフィアンとシニフィエ」「F+f」が完全一致することはあり得ない、前者と後者は永遠にズレ続ける、その永遠のズレに耐え続けるのが文学者である――という決意を『トニオ』で表明しています。一致という奇蹟を目指すのではなく、永遠のズレに耐え続けるのが文学者である、と。

M :そして、この言葉と意味のズレ(ラズノグラーシエ)をキーワードにドストエフスキーを読み直しているのが、山城むつみの近著『ドストエフスキー』です。

D:「異和=ラズノグラーシエ」の説明、なるほどなとは思うのですが、それがドストエフスキーの言葉の特質を解明しているとは思えない。最後の言葉はぎりぎり最後までどういうものになるかわからない。他人に分らないだでけでなく自分にさえ分らない。こういう思想が「異和=ラズノグラーシエ」という現象を発生させる。

D:で、ソシュールですが、ソシュールが論じたのは、認識的要素(F)と記号との相関関係では? 情緒的要素(f)という人間にとっての大事な要素は捨象されている。

D:(F+f)は文学論であって、言語論より上位のステージを考察している。力点はfに置かれている。fが考察可能になったのは、意識の推移の理論を漱石がもうひとつの柱として立てたからだと思います。漱石における俳諧の素養が、(F+f)というアイデアを生む土台であったと私はにらんでいます。

D:意識の推移。Fの推移に伴ってfも推移する、その一例。古池や蛙飛び込む水の音。古池というF+f⇒蛙というF+f(季語!情緒最大)⇒飛び込むというF+f⇒水の音というF+f。静止と運動、静寂と音響が、永久運動を開始する。推移の科学を漱石は建立した。

D :まったくありふれた言葉を使って芭蕉は、他人が使った同じ言葉が別の人の(F+f)と一致させうるという奇跡を実現している。まず言葉の選択が完璧である。意識の推移が、天才(芭蕉)と凡人(日本語が使える日本人すべて)で一致する。(F+f)の構造式と意識の推移の理論が漱石の『文学論』の二つの柱と私は見た。

M :なるほど。漱石の「f」はソシュールが彼の言語学の体系を構想する際に捨象した「パロール」に類するものと、ということでよろしいでしょうか。とすると、「F+f」という定式でラングとパロールの綜合を目指した漱石は、ソシュールというよりはバフチンに近い言語空間を構想していた、ということになりそうですね。

D:漱石は、I love you を、「月が綺麗ですね」と訳した。これは漱石が宿命の女性と夜道を歩いているとする。その時、自分の真実の思いを述べようとした時に何というだろうかと想像するならば、「月が綺麗ですね」としか言いようがない、それ以上に適切な愛情表現の言葉はありえないという判断でしょう。

D:『三四郎』で与次郎が、Pity’s akin to love を「可哀想だた惚れたって事よ」と訳す。これは、漱石が与次郎という男ならこう訳すのが適当だろうと想像した例。漱石の英語力は架空の人物がどう訳すであろうかまで想像できる次元に達していた。

D:I love you = 月が綺麗ですね。この場合、左右の何が同じなのだろうか。左のF+fと右のF+fを比較してみる。左のFと右のFは何の関連性もない。まったく無関係。fはどうか。完璧に一致している。F+fを違う言語のF+fに変換する場合に、F+fをどのようなバランスで移項すべきかが課題になるのだ。

D:月が綺麗ですね(月が綺麗ですが貴女の方がもっと綺麗です。私の想いを分って下さいよ)。月が綺麗ですねは表白された言葉であり、括弧の中は沈黙の内に伝えられた言葉。その意味=Fも、I love you と一致している。文学は言語を使うことによって沈黙を暗示するアートなのか。然り。漱石にとってはその通り。

T:漱石の弟子がまず「我、君を愛す」とやったらしい。それに漱石がダメ出しをしたそうな。日本には、Iを主語に持ってくる習慣はあまりない。それから、自己表白する文化もない。「愛」というものの概念もまだ定着していない。なにせ「神の愛」を、「神のお大切」と訳していたくらいだから。

T:左右のfは一致、です、です。だから当時の日本人がこういうシチュエーションでどう言うかを文化背景に鑑みて言い換えたんでしょう。でーも、でーも、「月が綺麗ですね」でホントに当時の女性は「あら、この人、私に気があるのかしら?」と思うんでしょうかー。すでに、お互いの暗黙の了解があるなら別ですが。

D:なるほど。伝わるはずがないですね。これで伝わるはずと思うほど男はバカな存在なんです。西欧にはこんなバカはほとんどいないでしょうね。メイド・イン・ジャパンのバカです。ところで、「月が綺麗ですね」は、男性の言葉としての翻訳です。I love you を女性の言葉として翻訳するとどうなるんでしょうかね。

D:I love you⇒「あなたのお袖が風に揺れてますわ」はどうでしょう(笑)。

T:男: 月が綺麗ですね 女: ほんとですね。お袖が風に揺れてますわ
いいかも(笑) 考えたら、百人一首ってこの世界ですよね しかし、今じゃほとんど暗号です(笑)

M:尾崎豊に「慣れない仕事を抱えて/言葉より心信じた」(遠い空)という歌詞があるのですが、これはまさに「F」と「f」が完全一致しないことにこそ「希望」を見出そうとしている歌ともいえますね。

【尾崎豊】 「遠い空」
 https://www.youtube.com/watch?v=Mk92dzO7Oz8&t=3s

D:夢が壊れた後にこそ歌が流れる。何もかも終わったからこそ歌が始まる。荒木一郎「空に星があるように」の境地こそ「絶望と希望の中間」のfかもしれない。

■空に星があるように 荒木一郎(’99)

https://www.youtube.com/watch?v=c1YoDjl-L3Q

T:尾崎で来ましたか!いやぁ柔軟です!そしてダンボールさんがアラーキー Fとfが永劫不一致ならば、f(female)とm(male)も永遠に分かり合えない。でもさ。 私からはこちらをエントリー。

■長谷川きよし 黒の舟唄
https://www.youtube.com/watch?v=0DLzaR5NONU

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture1352:241003〕