外れからはみだしへ―はみ出し駐在記(15)

ニューヨーク支社には社長を含めても駐在員は八名しかいなかった。社長に副社長、技術部長、品質管理出身のサービス部隊のマネージャ、その下に電機屋(E先輩)、機械屋(M先輩)、機械屋(N先輩)、端にも棒にもかからない新米。日本の工作機械屋による米国市場の席巻が本格化した時期で、米国支社は繁忙を極めていた。そこにサービス要員が危なっかしいのを入れても四名。とても手が回らない。

 

七十年代後半、米国経済を支えてきた製造業の衰退がはっきりしてきて失業率も高かった。そのため米国人では置き換えのきかない経営陣や特殊技能の持ち主以外にはビザが下りなかった。駐在員を送りたいのだが送れない。工数不足を工場からの長期出張の応援で補っていた。滞在ビザの制限もあったのだろう、長期といっても高々三ヶ月程度の滞在、慣れたころには帰国だった。

 

応援者のヘルプはありがたいのだが、工場の人たちの限界があった。ご自身の狭い専門領域では力を発揮するが、ちょっとずれると新米駐在員より使い物にならない。そのうえ、客に行くのも帰るのも、仕事以外の日常生活でも駐在員の誰かが面倒をみなければならない。

 

衣食住の衣や土産の頻度はしれているが食と住は毎日のこと。親切な客であれば、応援に来ているファクトリーエンジニア、言葉やなんやらはダメだが技術は間違いないと説得して、。。。出張先での食と住のテイクケアを押し付けることまでしていた。駐在員はフィールド・サービス・エンジニア、言ってみれば何でも屋。エンジニアとしての社会的評価は低い。応援者はファクトリーエンジニアで専門家、米国での評価は高い。

 

応援者の誰もが事務所にいるときは駐在員のテイクケアを当然のこととしていた。事務所を出て、そのままそこのモーテルにはないだろう。夕飯はどうするんだ、一人で、俺たちだけでどこかで勝手に食えってのか。個人の時間を潰してテイクケアしたのは、日常全般の何から何までを新米の一人と飲み食い限定のもう一人の二人だった。親分肌で根っからの飲兵衛のE先輩、一人でも居酒屋で一杯やってからご帰宅が日課だった。駐在員のなかで独り者は新米の一人だけ。新米、下戸だったが、下宿に帰ったところでメシはなし、どの道どこかで食べなきゃならない、応援者の送り迎えのアッシー役もあるしで、日々の便利屋だった。

 

いつも何人もの応援者がいる。出張期間を終えて帰国する人もいれば、新しい応援者も入ってくる。人の出入りが頻繁になれば、それだけも事務所に活気が生まれる。活気の先には公費の歓迎会や追い出し会、私費での飲みも頻繁になる。その中心にはいつもまとめ役としてE先輩がいた。事務所の近間での飲み食いで終わるときもあるが、ちょっと盛り上れば決まってクイーンズにあった“横浜”という魚のうまい居酒屋まで出かけた。

 

事務所はロングアイランドの東西の真ん中辺りだったら、“横浜”まで交通事情にもよるが小一時間かかる。数年前まで事務所がクイーンズにあったことからE先輩もM先輩もクイーンズに住んでいた。二人とも“横浜”から住まいまでは近いが、新米も応援者も住まい(滞在場所)をかなり通り過ぎて、もうちょっと行けばマンハッタンのところまでメシのために出かけていた。

 

応援者を連れての“横浜”で食って飲んでで、お開きになることは希だった。そこまで行ってしまえばマンハッタンは目と鼻の先、一人二人のご帰宅組みがいたところで、通いのピアノバーに乗り込むことになる。はじめ、どうせマンハッタンに繰り出すのなら、“横浜”なんか寄らずに最初からマンハッタンに行ってしまえばと思っていた。そこには生活の知恵があった。“横浜”の前の地下鉄高架下に無料駐車場があった。

 

マンハッタンに各自が乗り付ければ駐車料金だけでもバカにならない。路上駐車では空きスペースを探して皆がバラバラになってしまう(携帯電話などない時代)。マンハッタンには皆まとめて一台の車にしたい。一台の車に八人乗ってが記録だった。当時のマーキュリーの最高級車ならちょっと無理をすれば乗れた。酔っ払いが乗れっこないだろうなんていいながら乗ってしまって馬鹿笑いしながらマンハッタンのピアノバーへ。

 

E先輩が行くのは“よし子”というピアノバーだった。ちょっと暗い上にマンハッタンのピアノバーのなかでも割高な店だった。“よし子”には、よし子ママに、雪子というホステスがいた。たまに臨時の一二名のホステスがいたりいなかったりで、とても繁盛しているようには見えなかった。

 

よし子も雪子もE先輩さえ押さえておけば、みんなが来るのが分かっているからE先輩を相手にサービスしていた。雪子は、天然ボケなのか、ただ頭が軽いのは分からないが話をするとがっかりする。ただ誰が見ても美人だと思った。ちょっとバランスの崩れた感じの目が印象的だった。これは、後日マンハッタンの水商売の裏話が聞こえてくるようになって知ったが、絵に描いたような整形美人でアンバランスの目は手術の失敗らしい。

 

日系三世と結婚しているが、ご主人は日本語が、雪子は英語がで、夫婦としてなりたっていない。でも惚れた弱みで雪子のしたいようにさせているという話まで聞こえてきた。話を聞いて、ご主人の気持ち、なんか分かるような気がした。ちょっとぼったくりの感のあった“よし子“が店じまいして、よし子ママが”扇“移るまでの数ヶ月間、マンハッタンの飲み屋は“よし子”しか知らなかった。

 

よし子ママからE先輩に電話でもあったのだろう、“扇”というバーにE先輩に連れて行かれた。“扇”はカウンターだけのバーで、ピアノなど置くスペースもなかった。そのせいもあってか、E先輩、その後“扇”にはめったに顔をださなかった。カウンターの向うに親しみという感情を起こしようのない、典型的な中年太りのよし子ママがいた。E先輩もよし子とはちょっと空いていたのか、久しぶりの感じで話をしていた。“扇”はカウンターだけのバーであることもあって、値段は安い(はず)なのに、よし子ママが“よし子”時代と似たような値段をE先輩に請求して、店のマスターと言い合いになった。うちはピアノバーじゃないって、マスターがかなり強い口調で言って、E先輩に金のいくらかを返した。狭い店なのでこんなもことまで見えてしまう。“扇”、お互い詮索はしないが隠しもしないところだった。

 

マスター、ちりちりパーマにちょび髭、一見では何人か分からない。いかにも水商売の物腰の人だと思って付き合って、ちょっと経ったときに本人からもともとは京都のヤクザだと聞いた。腹違いの兄貴の店に転がり込んでマスターやってたが何のためにマンハッタンにいるのか、店以外に何をしているのか分からない人だった。日本だったら知り合うこともないだろうし、すれ違うことがあってもその場限りで終わる。フツーに考えれば付き合う人ではないだろうが、付き合ってみればみたで、今まで想像もしていなかった世界が見えた。名前も何も知らない。マンハッタンの日本人社会では“扇”のマスターといえば事足りた。

 

マスターの話では、チャイニーズマフィアとは持ちつ持たれつの関係で、“扇”にはチャイニーズマフィアと多分その延長線の人たちが客として、知り合いとして来ていた。午前二時をまわれば法的には店じまい。一般客が帰った後、必ずといっていいほど、隣のコリアンバーで働いていた、かつては左翼の活動家だったが流れ者になってしまっていた日本人とマスター、知り合いの中国人数名でチャイニーズポーカーになった。ひとしきりやって、四時頃になればマスターと二人でアフターアワーのディスコに行くか、チャイナタウンの知り合いの店に行って、ほとんど閉まりかけているのを開けさせて朝飯だった。

 

兄貴は、マンハッタンの水商売の世界では知らない人はいないと言われていた有名なオカマだった。店は弟にまかせっきりで、たまにそれはもうダンスの衣装と呼んでもおかしくない派手な格好で店に顔を見せていた。この小柄の伊達男、弟のヤクザより何をしているのか分からない人だった。

 

何度も行っていれば、たまにしか会うことのない兄貴とも親しくなる。商売柄なのか、オカマだからなのか話がちょっとズレていて面白い。下ネタもフツーの男同士のものとは違う。調子にのって、なんで男がいいのって聞いたら、女の柔らかいぶにょぶにょした尻が気持ち悪いでしょう、やっぱり尻は硬くなきゃって同意を求められた。そっちの趣味はないし、垣間見るだけにしても踏み込む勇気がなかった。

 

“扇”に飲みに来るのは日本企業の駐在員より、どこかで足を踏み外して、今はマンハッタンにいるという感じの日本人、その人たちと関係があったり、その延長線のいろいろな人たちだった。日本のホテルから派遣された領事館の和食の料理人(まっとう)もいるが、日本の八百屋や多分雑貨屋らしいのから日本人専門の置屋までいた。一期一会の出会いで終わらなかったとしても尾を引く長さは知れている。誰も口には出さないが、なんらかの夢を持ってというより多分捨てきれないで、冷めた熱さを内に秘めながら、そのときそのときの人と人との出会いに流されていた。”扇“をベースキャンプに外れた駐在員が際限なくはみ出していった。何があったところで、持ち金寄付してちょっと怪我をするくらい、命にかかわるようなこともないだろう、見れるものなら何でも見てやろうって。。。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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