確か二〇二〇年の四月からだったと思うが、新型コロナウィルス禍で豊島区の図書館が二ヵ月にわたって閉鎖された。毎週のように借り出していたのに、突然読む本がなくなしまった。机の隅において読みたいときに読むだけだが、ないと手持ちぶさたでしょうがない。マスクをしても感染したらと思うと、街をブラブラというわけにもいかない。そこで思いついたのがWebで世界のあちこちのニュースを読むことだった。英語は仕事と生活で使ってきただけで、Quality paperと呼ばれるNew York TimesやAtlanticのEditorialをすらすらと読みすすめるような能力はなかった。簡単明瞭をよしとするエンジニアリングに関することには慣れていても、遺伝子や免疫学や先端技術、ましてや文化や宗教となると、いまだに辞書を引き引きになる。それでもニ三ヵ月を過ぎた頃には慣れてきて、読むのが面倒くさくなってきた。あれもこれもと読んでいると、どうしても目が疲れる。読まないですむ方法はないものかと考えた。結論は簡単で、読み上げソフトウェアを使って、ラジオのニュース番組を聞くようにしてしまうことだった。英語であれば、フリーの読み上げソフトウェアがいくつもある。あれこれためして、Natural Readerを使い続けている。ニュースキャスターと違って、コンピュータによる合成で米語に合せているから感情もなくフラットで聞き取りやすい。聞き流してしまうことも多いが、ちょっと込み入ったものになると、文章を見ながらになる。そんなことを一年以上続けていたら、始めたときから予想はしていたが、飽きてしまった。なんの刺激もなければ緊張感もない。日々のルーチンワークになってしまって、つまらない。
あと一月もすれば二十六歳という七十七年の四月にニューヨークに左遷されたのが始まりだから、英語との付き合いも四十五年になる。日常生活と仕事で必要とする最低限の英語でしかなかったが、食っていくため、そして転職の幅を広めるためと英語の習得に時間を割いてきた。アメリカの会社で、たまに日本語になることがあるという環境におかれたこともあって、英語までであれば、ひと通りのことでしかないにしても、さしたる不自由はない。ただ英語の能力を身につけるために使った時間のことを考えると、オレの人生はなんだったんだって思うことがある。ここで英語といっているのは、英語とその対語としての日本語で、仕事で必要とする専門知識を意味している。当たり前の話で、英語では分かっても日本語では分からないでは、太平洋をまたにかけての仕事にはならない。英語なんてのに関わらなければ、もっといろいろなことに時間を充当できたはずだし、豊かな人間的といってもいい生活をおくれただろうと想像している。あれこれの科学分野でもソフトゥエアでも経済学でも、もうちょっとまともに勉強できたんじゃないかと、この年になって後悔の念にかられる。そこまでしてきてしまった、できればそこまでしたくなかった英語が面倒くさいし、これ以上関わり合いたくないという気持がある。
去年の四月、あと一月もすれば古希を迎えるという段になって、英語でニュースや論文はもういい、この先どうするかと考えだした。何かをすれば何か残る可能性がある。何も残らないかもしれないし、たとえこれといった成果がなかったにしても、何らかの経験は残る。そこで、英語ではない外国語を一つ手にいれれば、英語のニュースからでは知り得なかったことを知ることができるかもしれないじゃないかと考えだした。ちょっとしたときに思いだしては、候補の外国語をあれこれ思い浮かべていた。まず英語のアルファベットに準じた文字であること、そして中国語やタイ語のように抑揚を駆使していない言語で、さらにその言語の文化圏が充分広いことという条件を満たしている言語でなければならない。それなりの国際語であれば、Webで辞書や教材に不自由しないだろうとみていったら、全てを満足する言語としてトルコ語がでてきた。
トルコ語なんて何も知らないに等しい。知っていることといえば、ヨーグルトにケバブ、アンカラにイスタンブールぐらいでしかない。中学一年ではじめて英語の勉強をした。六十四年の東京オリンピックの年だが、バットもボールもバターもナイフ……、すでに多くの英語が日常生活で使われていた。トルコ語は中学校で英語をやらされたときより条件が悪い。習得なんかできっこないと思いながら、ここは一つ実験してみるかという気持と、いくらやっても、何年かけても使い物にならない学校の英語教育に対するあてつけに近い気持ちもあって始めてしまった。
昔だったら即トルコ語の会話教室に通うか個人教授を探したが、もうそんな道楽ごとに使う金もない。先生もいなければ、辞書も教科書もない。どうするか?と考えるまでのこともない。今はWebという強力なツールがある。
東京外語大のホームぺージに入門の入門のような教材をみつけた。さっとなでただけの小冊子で初めてトルコ語なるものに触れた。Webで定番の教科書を見つけて、図書館で借りて来た。とば口に立ったというより、とば口らしきものが見えてきたような気がした。なにかいい教材はないかと探していて、「Note」に善意の人が書いてくれた文法の解説書を見つけた。いまでもこれを日本語で書かれた教材の一つとして使っている。
英語をベースにしたトルコ語の教材はWebにいくらでもある。四つか五つ使ってみたが、どれも中学で使った教科書のような体裁で、こんなものを使っていたら、いつまで経っても習得なんか出来やしないとイライラしてきた。外国語の習得は、他の教科のようにはいかない。例えていえば、理科でも社会でも、ほとんどの教科では分かってしまえばそれで終わりだが、外国語の勉強ならいざしらず、習得となると分かってでは終わらない。
下記、ちょっと回りくどい説明になるが、ご容赦を。
小学校でも中学でもゲームに夢中になっていた高校生が、二年生の夏休みに大学生の従弟から進学についてアドバイスというのか入れ知恵された。今さら受験勉強したところで、お前の成績じゃたいしたところにゃ入れやしない。オレの大学なら柔道推薦もあるし優待制度もある。お前、運動神経も反射神経は悪くねぇから、柔道頑張ってまずは県大会で一勝することを目指してみろと言われた。夏休みに武道館にいって柔道部をみて、まさかオレがと腰が引けたが、なんとかして大学へという気持が勝った。
上背はあるが、痩せっぽちで運動部で最低限必要とする筋肉がない。それを見て部長がどうしたものかと考えた末に、まあひと月もすれば諦めるだろうと入部を許した。受け身にしても、組手にしても素質はある。ただ、どうにも体力と筋肉がなさ過ぎる。部長の見立てでは筋肉さえつけば、天賦の反射神経でかなりのところまでいけるだろうということで、基礎トレーニングに明け暮れる毎日になった。
早朝のランニングから腕立て、腹筋、背筋、スクワット、ダンベル、ベンチプレス、綱上り……来る日も来る日も単純動作の反覆練習で、普通だったらイヤになって止める。
外国語の習得は、小学校でやらされたドリルをこなすのにも似ている。もうさんざん読んで聞いて喋って書いてやってきたことを何度も何度も繰り返して、身体に染み込むまで続けなければならない。日常の言葉の世界には、ペーパーテストのように問題を読んで考えているような時間はない。その言語の世界に入って何も考えることなく単調な作業を繰り返していると、ある意味バカになる。そこまでしなければ外国語は習得できない。
三十も中頃を過ぎれば仕事の責任がどんどん重くなる。結婚もして自由になる時間が極端に少なくなった。人生の節目というものあったろう、英語の習得に疲れたというのか、もううんざりして、二年以上通った同時通訳の養成校もやめてしまった。ひと月やふた月、何度も英語から離れたことがある。ただ、メシの種である以上止めるわけにはいかなかった。二度とこんなバカなことはするものかと思っていたのに、また始めてしまった。
この習得の時間、ある意味で現実逃避の手段でもある。戦後の文壇をかざった作家の何人もが似たようなことを書いている。いつ徴兵令状が来るかという戦時中の暗い社会の現実から逃避する、ただひとつの手段が小説の世界に身をおくことだったと。小説と外国語の習得、現実からの逃避ということでは似たようなところがある。
英語にはメシの種というはっきりした目的があったが、現実生活においてトルコ語にはなにもない。できることなら、ひと月ほどでいいからイスタンブールをほっつき歩いてみたいが、つかいものになるレベルに達する前に寿命が尽きて、イスタンブールどころか違う世界にいっているだろう。なんの役にもたたないであろうトルコ語の習得、はじめたからにはという、ちゃちな意地もあって早々簡単にはやめられない。
何かをすれば、何かがそのあおりを受ける。英語のニュースを読む時間と本に割いていた時間がめっきり減ってしまった。なんとバカなんだと思っている。
p.s.
お薦めのサイト(拙い経験から)
<外国語の習得サイト>
https://www.duolingo.com/learn
英語にちょっと変な感じ――そうは言わないだろうがというのがある。まあご愛敬と受け止めている。
<辞書>
https://context.reverso.net/translation/
対日本語となると何これ?というサイトが多いが、Reversoは比較的にしても良く出来ている。それでも日本語訳をみるより、英語のthesaurusを見た方が手っ取り早いことが多い。WordでもExcelでもブラウザ上でも使える。マウスで単語選択(反転)して、そこに表示されたロゴをクリックすれば、小さなウインドウが開いて訳語か類語(どちらかを選択)を表示してくれる。コピーして別のサイトで調べる手間が省ける。手が省けるのに、ついつい。今でもこの習慣を止められないでいる。
2022/11/18
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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