大学教授とマクドナルド-はみ出し駐在記(70)

子沢山が多いイタリア系には珍しく下宿の大家には息子二人しかいなかった。二人とも細身のイタリア系で、顔つきや体系は似ているのだが、性格は大家も言っていたように随分違っていた。長男は見たところ四十をちょっとでたぐらいで、日本人がイメージしているイタリア系からは程遠い、言葉を選びながら物静かに話す人だった。次男は三十代半ばで、軽くて明るい典型的なイタリア系だった。

二人が揃って実家にくるのはクリスマスと時ぐらいだったが、ちょっと長い休みがあると、どちらかが顔を出していた。心臓発作で倒れたことのある父親と家計を一人で背負っている母親のことが気になってのことだと思う。アメリカでは、大学に入る歳になると子供たちの多くのは家をでてゆくが、家族や親族との関係を緊密に保とうとする文化がある。多民族国家のなかで自分たちの社会や文化を大事にしないと、アイデンテティを失いかねないという気もちがあるのだろう。

クリスマスのときは家族だけでなく近くの親類も集まる。そこでは二人とも身内とのことで手一杯で、あたらしい下宿人に時間など割きようがなかった。下宿人にとってクリスマスは大家の親類への顔見世の機会だった。

最初に一対一で話したのは次男だった。知的なジョニーという感じで、何を話してもニューヨークっ子らしく早口で楽しい。奥さんも似た物夫婦というのか、しばし掛け合い漫才のようなお笑いを振りまいていた。

それから半年ほど経って、長男が何かの用事に引っ掛けて数日間実家に泊まっていた。次男とは違うと聞いていたが、次男のイメージが強かったせいもあって、多少違ったところで典型的なイタリア系だろうと思っていた。軽くて明るいイタリア系というイメージを持ったまま一言二言言葉を交わして、こんなイタリア系も、こんなニューヨークっ子もいるんだと驚いた。

下宿のおばさんはブルックリン生まれの生粋のニューヨークっ子で、キンキン声でものすごい早さで話す。その長男はどういう訳か、話す速度が遅い。一言一言考えながら話す。東京の下町の出で、もともと早口、正確さを抜きにすれば、こっちの方がよほど小気味のいい英語だった(と思う)。

おばさんから、長男はテネシー州の大学の経済学部の教授で、パートナーと一緒にマクドナルドのフランチャイズ店をいくつか経営していると聞いていた。

クリスマスで会った時とは様子が違った。両親とは話題が合わないのか、なにかイヤなことでもあったのか、ただ気が向いただけなのか分からないが、なんでこんなにというほど時間を割いてくれた。

大学で何を教えているのかと訊いたら、専門的なことを言われてよく分からなかった。おばさんから経済学って聞いているけどと言ったら、なんだ知ってるじゃないかという顔で、そうだと言われた。英語のだらしない日本人ということもあってだろう、いつも以上に言葉を選びながら話しているのが分かる。話には今振り返ってみても納得してしまう説得力があった。

研究と講座の両方で忙しい。女房や子供に十分な時間を割けないのがちょっとつらい。でも、それは時間の長さではなく密度で補えることだと思う。自分はそうしようと心がけている。ただ女房と子供が納得しているのかどうかについてはちょっと自信がない。

学校と家庭の両立でも大変なのに、マクドナルドの経営までして、よく体がもつねって言ったら、それができなきゃ、学生も納得しないだろうし、実社会で役に立つ経済学をと思っているので、どうしても三つとも一緒にやらなければならないと考えている。

恵まれた家庭でもなければ、学費はかなりの負担になる。それでも勉強しなきゃって思うのは自分の将来を考えてのことだろう。オレだってそうだった。お袋の銀食器が飾ってる食器棚、知ってるだろう。あれは中の下の社会層がここまで、こんないい暮らしができるようになったって、知り合いや親戚の連中に見せたいがためのもので、実用性はない、ただの見栄だ。

学生も馬鹿じゃないから、この講座を取っても自分の将来につながらないと思えば、そんな講座はよほど変わったやつか、コネかなにかで就職の不安のないやつしか取らない。学生にこの講座は取る価値がある、あの教授の授業は聞いいておいた方がいいと思ってもらうには、経営というかたちで実社会における有用性を証明するのが一番だろう。自分一人じゃ、資金もないし経営に必要な能力も足りない。だからパートナーと一緒になってマクドナルドのフランチャイズの経営をやっている。

こっちの英語の能力で分かる言葉を選びながら、きれいなアメリカ英語でゆっくり話してくれた。巷の実業に役立つことを優先するあまり、もしかしたら学界ではマイナーな人かもしれない。それでも、社会全体からみれば取るに足りない一部でしかない学界のメジャーというだけで、社会ではマイナーという学者よりよほどいい。経済学者として大成しても巷のことに無頓着な人の話を聴いてありがたがっていられるうちはいいのだが、いつまでもそれでことが済むような世界にいるわけでもない。

社会の個々の現象に振り回された天動説のような経済理論(?)には害しかないが、目の前で起きている経済事象を説明しえない理論を弄り回すしか能のない経済学者は、たとえ害がなかったとしても、どれほど意味や価値があるのだろう。

巷の実利からは距離があっても存在しえる純粋(?)芸術や宗教やなんやらの話ではない。巷の社会経済に関係のない経済学などありえようがないと思うのは、巷の一職工崩れの思い違いなのかもしれない。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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