大瀧教授のケインズ経済学とユーゴスラヴィア社会主義

最近、紀伊国屋書店で大変に面白い一書を発見した。大瀧雅之著『動学的一般均衡のマクロ経済学 有効需要と貨幣の理論』(東京大学出版会 2005年)である。マルクス派ではない主流派現代経済学、中国流に言えば、「西方経済学」の今日的水準を知りたくて、一読してみた。そして驚いた。25年前に消え去った旧ユーゴスラヴィアが東西に対抗して創り上げた労働者自主管理社会主義企業の市場行動が理論的に描写されているように見えたからである。勿論、現東大教授のエコノミストにそんな問題設定は無い。あくまで、現代資本主義企業の経済理論として本書の要、第二章「有効需要と貨幣の理論」を書き上げているのであるが、私の目から見れば、労働者自主管理企業の経済理論である。

労働者は、若年(勤労)期と老年(引退)期の二期を生き、各期夫々の効用を有し、夫々の掛算的総合である生涯効用を各期の然るべき予算制約の下で最大化し、労働者が最低賃金として要求する賃金を決定する。大瀧氏は、かかる賃金を「名目留保賃金」と名付ける。
更に、今期に若年期にある労働者の効用最大化消費と今期に老年期にある労働者の効用最大化消費の合計を求め、「有効需要」と称する。生涯効用による決定(名目留保賃金)と今期効用による決定(有効需要)の差に着目すべきである。企業は、製品価格と「有効需要」から構成される需要関数と労働投入だけから成る生産関数に直面する。ここで、企業は、総売上額から人件費を差し引いた利潤を最大化するように、製品価格と雇用量を決定する。すなわち、財市場においては、ワルラス的完全競争ではなく、独占的競争が支配している。

ここで注意すべきは、人件費を計算する賃金(「名目留保賃金」)とは別種の賃金が労働者が現実に手にする報酬として導入される事である。同じく、上記の利潤とは別種の企業が現実に入手する企業利潤が導入される。企業に働く労働者

利潤=総売上げ額-名目留保賃金額=企業利潤+労働者報酬

と企業の間の「非対称Nash交渉解」として分配比が決定される。このような論法によれば、ケインズ的非自発的失業が容易に論証できる。何故ならば、企業は、上述の有効需要と名目留保賃金の下で最大限の雇用をしており、それ以上雇用出来ない。その時、働くことを選択しなかった者は、自発的に就業しなかったはずであるが、就業労働者が実際に手にする賃金は、労働者報酬+名目留保賃金であるのを見て、当然働きたくなる。しかし、もはや企業は求人しない。ここに非自発的失業が発生する。かくして、有効需要不足による失業がミクロ経済学的根拠を以って論証された。(pp.93-4)

以上、大瀧氏が精緻な数理的展開を用いて70ページにわたって論じた内容の超短縮的要約である。大瀧氏は、自分の理論を新古典派三公準、すなわち①経済主体の動学的最大化行動、②市場均衡を前提とする伸縮的価格、③合理的期待形成、から出発して、新古典派の世界とは異質なケインズ的経済を演繹する。自身の理論に深い自信を持って、氏以前の日本産のユニークなケインズ経済学を否定される。
第一に、「Keynes経済学が期待錯誤の経済学ではない・・・。」(p.80)と宣言して、「驚き」を独占的競争経済の本源的動力と見る岩井克人の『不均衡動学の理論』(岩波書店、1987年)は排除され、巻末の参考文献にも入れられていない。第二に、小野善康の『貨幣経済の動学理論 ケインズの復権』(東京大学出版会、1992年)は、実質貨幣価値が財と並んで効用関数に取り入れられている点に、すなわち小野理論の旋回軸そのものに、理論的難点を見ている。(p.54)
ところで、ずぶの素人の目から見れば、大瀧氏の新古典派三公準から直接には出て来ない設定が大瀧理論の中に登場して重要な役割を演じている。労使間の「効率的名目賃金交渉」がそれである。たしかに、本書の付録1で「純総所得最大化問題と利潤最大化問題の等価性」が証明されている。ここでの「純総所得」は、私=岩田のこの一文では「利潤」としている。また、ここでの「利潤」は、私のこの文章では「企業利潤」としている。大瀧氏は、利潤(=企業利潤)=θ・純総所得(=利潤)を証明している。付録2で「名目賃金の決定メカニズム」が検討され、賃金(=名目留保賃金+労働者報酬)=θ・名目留保賃金+(1-θ)・βp(労働者が生産した財の市場価額)を証明している。θは企業内の「非対称Nash交渉」における企業側の交渉力を示すパラメータであり、1-θは労働者側のパラメータである。
かかる証明によって、企業内の労使交渉の存在が新古典派三公準に矛盾しない事が保証されている。しかしながら、新古典派三公準をマーケット経済における売買=交換活動に直接関係する要請と見るならば、企業内の純総所得分配交渉の理論的導入は、いかにもアドホックである。市場取引が基本的に交換行動であるとすれば、一定価値の分配交渉は、分配行動であって、交換行動ではない。このような分配行動の結果として定まる賃金(>名目留保賃金)が非自発的失業を発現させる。仮に、労働者の交渉力=0、企業の交渉力=1であるとすれば、賃金=名目留保賃金下における市場取引のみが残り、非自発的失業が消え失せる。同一人間集団がもはや非自発的失業者ではなくなり、自発的な余暇享受者となる。
私=岩田は、かかるアドホック性は、大瀧氏の岩井排除や小野批判の迫力を弱めている、と見る。大瀧氏は、本書第4章で「非自発的失業は存在しなくなる」(p.179)経済へもどられる。

資本主義企業の分析として本書第2章を読めば、かかるアドホック性が気にかかる。しかしながら、旧ユーゴスラヴィア社会主義の労働者自主管理企業の分析として見るならば、アドホック性は消え去る。
旧ユーゴスラヴィアの経済学者の間で自主管理企業の市場における経営目標を①所得と見るか、②利潤と見るか、大略二つの立場が論争し合っていた。
第一の立場によれば、社会主義において労働者は経営の主体であって、もはや労働力商品として市場で売買される質のものではない。従って、労働力の価格である賃金カテゴリーは不在である。人件費なるカテゴリーも消える。市場における経営目標は、総売上げ額-物件費=所得である。企業の労働集団は、稼得した所得を、労働者の個人所得(資本主義やソ連型社会主義の賃金に当たる)、企業の蓄積フォンド、そして社会的納付金に自分達で分配する。
第二の立場によれば、たしかに労働者は経営主体となってはいるが、同時に財と並んで生産過程に投入される要素である。従って、経済計算の対象でもあり、労働力の価格としての賃金カテゴリーが必要である。それ故、経営目標は、総売上げ額-物件費-人件費=利潤である。企業の労働集団は、稼得した利潤を労働者報酬、企業の蓄積、そして社会的納付金に自分達で分配する。
上記二つの立場のいずれによるにせよ、企業内の所得あるいは利潤の分配交渉は、アドホックではなく、体制の本質的属性である。実際には、労働集団から専門的経営の全権を委任された専門経営陣と労働者評議会の間の交渉になる。

かかる文脈において、大瀧理論の真価が発揮される。それによれば、第二の立場に軍配が上がる。と言うよりも、第二の立場を数理経済学的に定式化し、その理論的帰結を引き出した、と言えよう。たしかに、ソ連型の集権制計画経済では人手不足が常に経済のネックとなっていたのに対し、市場経済を採用した労働者自主管理企業を悩ませた問題は、高い失業率であった。しかしながら、大瀧理論は、有効需要の不足が非自発的失業を発生させるのであって、「当該交渉制度は効率的であるから、労働組合の存在が失業を発生させているわけではない。」(p.94)事を証明している。ユーゴスラヴィア社会主義流に読み換えれば、「労働者評議会の存在が失業を発生させているわけではない。」

最後に一言、貨幣の存在について。大瀧氏は、現在生産をしていない老年世代が自己の貯蓄と政府からの補助金で若年世代の生産物を買って生活する所に貨幣の本来的機能を見ているように思われる。そこで、私は、自分の旧著『現代社会主義の新地平』(日本評論社、1983年)第2章「自由・平等・友愛と自主管理社会主義」第5節「労働の自由交換」を想い起こした。大瀧氏の老年世代は、若年世代に自己の生産物を提供せずに、若年世代の生産物を買うだけである。私の「労働の自由交換」では、若年世代にかえて実文化人が登場し、老年世代にかえて純文化人が登場する。実文化人は、純文化人の生産物への欲求を全く有していない。純文化人は、実文化人の生産物を絶対的に必要としているが故に、実文化財を買う。購買資金は政府からの補助金である。政府の補助金の本質的源泉は、実文化人からの税金である。しかしながら、近代市民としての実文化人も純文化人も政府=国家権力の前に平等であるから、両者ともに同率の所得税を支払う。それを可能にするものこそ貨幣である。実文化人と純文化人が市場で自由に売買する手段としての貨幣が市民間の平等を社会的に演出するファクターなのである。財の流れだけに着目すれば、実文化人から純文化人への一方的流れであるが、封建社会ならぬ近代市民社会は、かかる不平等を建前として許容出来ない。財の一方的流れ、若年世代から老年世代へ、実文化人から純文化人へと言う一方的流れを制度的に可能とする貨幣の働きに着目した所に、私は、大瀧氏に親近感を覚えた。

平成26年11月23日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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