8月2日、広島市の中央公園内で、原爆投下直後の惨状を描いた小説『屍の街』で知られる被爆作家・大田洋子の文学碑前祭が、広島文学資料保全の会の主催で行われた。この文学碑は1978年に中央公園内に建てられたが、中央公園内にサッカースタジアムが建設されたのに伴い、今年5月に元の場所から50メートル北側に移設された。碑前祭はこれを機に開催されたもので、被爆者、文学関係者らが集まった。
NHKによれば、碑を前にして、広島文学資料保全の会の土屋時子代表は「このような体験をさせてはならない。そういうことが2度と起こってはならないという強い願いといいますか、そういったものが大田洋子にあったと思うんですね。若い人たちもこの場に訪れて、大田洋子さんのことを学んでいただけたらなと思います」と述べた。
なお、碑には「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のやうに/叫びながら/歩いて行った」と刻まれているが、これは『屍の街』の一節である。
私はこの碑前祭に列席できなかったが、広島文学資料保全の会に請われて碑前祭にメッセージを送った。以下は、その全文である。
大田洋子の訴えに改めて目を向けよう
去る7月22付の毎日新聞朝刊の1面トップ記事は、東京の霊園に著名人の「墓じまい」の波が押し寄せている、と伝えていました。明治時代の詩人・上田敏、明治・大正期の劇作家・島村抱月らの墓が撤去されつつあり、それは、墓を管理してきた親族らが亡くなりつつあるからだという記事でした。
それに引き換え、広島市の中央公園広場にあった被爆作家・大田洋子の文学碑は、サッカースタジアムの建設でいったん撤去されたものの、中央公園広場の一角に移設されました。移設完了を心からお慶び申し上げるとともに、移設に尽力された広島文学資料保全の会の方々に深甚なる敬意を表します。
あの日、大田洋子は爆心地から1・5キロの広島市白島九県町で被爆しました。その後、『屍の街』、『人間襤褸』『半人間』などの作品を次々と発表、いずれも原爆がもたらした凄惨な状況を経験に基づいてリアルに描いたものでありました。
でも、これらの作品は、簡単に出来上がったものではありません。三重苦と闘った末の作品でした。まず、全ての持ち物を焼失した大田は原稿用紙はもとより1本の鉛筆も持っていませんでした。知人からもらった障子から剥がした煤けた障子紙やちり紙に書き続けました。第2は、原爆症による後遺症なのか、常に病身だったことです。大田は「根こそぎ心身をこわした。昼間は四つん這いにしか歩けず、夜は頭を鉢巻きでしめくくって書いた」と書いています。第3は、GHQ(連合国軍総司令部)によるプレスコードでした。米軍は、原爆に関する機密や悲惨極まる原爆被害が世界に知られるのを恐れ、原爆に関する報道を禁止したのです。大田も米軍の訊問を受け、作品の一部を削除せざるを得ませんでした。
大田がこうした三重苦に遭いながらも筆を止めなかったのは、ひとえに「原爆の真実を伝えるのは作家の責任だから」という信念の持ち主だったからです。
大田洋子のこれらの作品は、人類にとって貴重な遺産であります。広島文学資料保全の会と広島市が、2023年に峠三吉、原民喜、栗原貞子の作品とともに大田洋子の作品をユネスコの世界記憶遺産とするよう申請したことにも端的に表れていると言っていでしょう。
来年は「被爆80年」です。改めて被爆の実相に国民の関心が向けられる年です。だが、被爆の実相を証言できる被爆者は年ごとに減少しており、被爆の実相をどう次の世代に継承して行くかが喫緊の課題として改めてクローズアップされるでしょう。そうなれば、被爆の実相を記録した大田洋子らの原爆文学が改めて注視されるに違いありません。彼女の作品を改めてひもときたい。
初出:「リベラル21」2024.08.05より許可を得て転載
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