大衆が動いたら前衛はいらない

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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いくら言い合っても、結論がでるわけでもない。誰もが似たように見て同じように感じて考えている。違いなんか、たとえ当人たちにはあるにしても、傍かみれば何が違うのかわかりゃしない。何のために毎週、同じことで言い合っているのか。九時半も回ってお開きになるが、また来週どころか、翌日の昼休みにまた似たようなことで言い合いになる。当事者の一人だが、同じ話になったとたん、オレたちバカじゃないかと思っていた。

毎週の班会議はいいが、上から落ちてくる面倒なもの以外にこれといったやることなんかありゃしない。真面目に赤旗なんかに目を通しているのがいるのかいないのかわからない。まさかお前読んでんのかとも聞けない。新聞から拾ったことが話題になったこともないから、読んでいたにしても流し読みがせいぜいだったろう。日曜版にしたって、だからどうしたってこと書いてないし、まずもってツマラナイ。あんなものをツマルと思って読むのは、頭の配線がどこかで切れてるか、よじれているヤツしかいない。

 

埒のあかない話にうんざりして、しばし話を切りにはいった。

「党の活動用語や労組の用語を使うな」「そんな話、どこの誰が聞いてくれると思ってんだ。渋谷のハチ公前でもいいし、新宿の紀伊国屋の前でもいいから、そこで誰でもいいから話してみろ。オレたちの言葉で話したって誰も聞いちゃくれないぞ」「なにが大衆に依拠してだ」「大衆の言葉で話ができない活動家なんてのは活動家じゃないだろうが。身内の話の十分の一でもいいから、外に行って話してこい」

 

本社のある我孫子工場と習志野工場では状況が大きく違った。労組は社会党右派が仕切っていたが、習志野工場の要所には共産党が浸透していた。我孫子工場に党員は二人しかいなかった。習志野工場から東京支店の営業技術に左遷されたのが二人いた。習志野工場に五人で総勢九名の支部だった。みんな二十代半ばで大卒が二人に高専卒が二人で五名が工業高校出だった。みんな民青上りで活動なれしていていた。民青の経験もなく、よそ者として入ってきたものの目には悪ずれしているようにさえ見えた。

 

こんな班会議にでるために、我孫子から柏で東武野田線に乗り換えて、船橋で京成に乗って実籾へ。そして十分以上も歩いて仲間のアパートにたどり着く。歩きもいれれば一時間以上かかる。十時過ぎにアパートをでて、船橋経由で東武野田線の逆井までざっと一時間。そから真っ暗闇のなかを二十五分も歩いて陸の孤島のような独身寮に帰った。十一時過ぎても寮監は帰宅の時間をチェックしていた。

 

あれこれ本を読んで考えていたら入党を勧められて、何の疑問もなく入った。班会議で初めて聞く言葉にびっくりした。社会を似たようにみて、考えているんだろうと思っていたが、親近感より違和感の方がつよかった。その違和感、我孫子の労組で感じたものとは違う。労組の青年婦人部の集まりで「がんばろう」のあとに「同期の桜」を歌ったのには、腰を抜かすほど驚いた。我孫子では「紅か専」かというくだらない議論がくりかえされていたが、その程度の人たちの話は辻褄のあうことのほうが珍しい。相手にしないわけにはいかないが、真正面から相手にする気にはなれない。我孫子で労務と組合から厄介者扱いされて、習志野の班会議では絵に描いたような異端だった。

 

最大の問題は、党が何をどう見てどうしようとしているのかわからないことにあった。特に労働者階級の前衛という自己定義にはついていけなかった。

班会議でもよく聞かされた、彼らの言い草「大衆に依拠して」が、現状と将来を見据えたとき、何を意味しているか、どうにも説明がつかずに苦しんだ。当時の疑問を未だにひきずったままでいる。

大衆に依拠してはいいけれど、どこに依拠できる大衆がいるのか?という疑問に対して、ああだのこうだの言ってはいたが、まとめてしまえば、「覚醒した」大衆ということになる。もし大衆の大勢が覚醒して、社会を大きくうごかすようになったら、働く人たちの前衛と思っている集団なんか要らないだろう。大衆が大衆として社会をうごかしていくだけで、もう共産党に率いられる大衆ではない。もし覚醒した大衆が大勢にならなければ、起こせるのはクーデタまでで、革命――大きな社会変革と呼んでもいいが――なんか起こせやしない。仮にクーデタで政治権力を掌握しても、大衆の大勢の支持を得られなければ、反クーデタでひっくり返される。その可能性を排除しようとすれば、前衛が大衆を規制するか支配する政治体制にならざるを得ない。その政治体制のもとでは、前衛と自認していた人たちが支配者に変態する。

ロシア革命はクーデタでしかなかったことを歴史が証明している。中国は革命だったが、今日見られるのは人民解放軍も含めた官僚どもが利権を支配する社会でしかない。北朝鮮は言うにおよばず、キューバもベトナムも官僚支配の警察国家にしかならなかった。

 

大衆を啓蒙し、大衆が主人公の政治体制を謳いながら、出来上がった社会は官僚支配の警察国家でしかなかったとなると、何が何をもってしての誰のための前衛なのか。依拠する大衆は本当に存在するのか。大衆は間違いなくいる、そして前衛を自称する人たちもいる。前衛は大衆の大勢が覚醒しない限り、存在の意味がある。存在する意味がなくなる社会を目指しながら前衛が既得権益者になるのがクーデタであり革命なのか。なんのための前衛なのかと思うと、一歩下がって後衛であることに妙な安心感と誇りに近いものがある。

 

二十代の拙い経験と外資を渡り歩きながら得た知識からはこんなことしか考えつかない。古希も過ぎたが、未だに大衆と前衛の関係を説明しきれないでいる。

 

p.s.

<隠れ党員>

我孫子の本社の事務方だと想像しているが、我孫子には誰も知らない隠れ党員がいた。東京高裁で身分保全の裁判の真っ最中に会社の財務状況の詳細をあらわした分厚い資料が上から降りて来た。それは会社のコンピュータシステムからプリントアウトしたとしか思えないものだった。

そんな裏活動の能力ももっている組織の一員であることに誇りを持つ人もいるかもしれないが、根っからの外れ者には薄気味悪くてしょうがない。

2022/12/20

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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