1995年の阪神淡路大震災の際、仮設住宅に住む高齢者の孤独死が大変問題になった。その反省もあってか、今回の東日本大震災後は、仮設住宅に住む高齢者に対するケアは、それなりに行き届いてはいるようだ。被害の最も大きかった場所から遠方に(首都圏に)居る我々でもやはり、被災地の仮設住宅の高齢者の様子を気にかけている。それはそれで大変良いことであろう。しかし、である。最近(ここ数ヶ月)、首都圏を中心に、高齢者の孤独死が急激に増加している事実をご存知だろうか。――つまり、我々の隣人の孤独死(あるいは孤立死)の増加である。つい先日(2012年3月17日)も横浜で77歳の母と障害のある44歳の息子が孤立死したことがニュースで報じられた。
震災以降、特に我々にとって、自分の住むアパートの隣の高齢者より、被災地の仮設住宅に住む高齢者の方が、「近く」なっている感がある。勿論、ここでいう「近さ」とは、客観的に計測できる距離のことではない。我々にとって最も「近い」ものとは、決して我々から最も小さい距離を持つものではなく、配視的に最も手近な、手許的なものの圏域の内にある処のものである。このことをハイデッガーは、眼鏡をかけた人の例で説明している。
たとえば、眼鏡をかけている人にとっては、眼鏡は、それが彼の「鼻のうえにある」ほど距離的には近いのだが、使用中のこの道具は、正面の壁にかかっている絵よりも、環境世界的にはずっと遠ざかっている。(Heidegger, Martin Sein und Zeit 1927/ハイデッガー 『存在と時間』Ⅰ 原佑・渡邊二郎訳 2003 中央公論新社 p.277)
鼻のうえにある眼鏡(=アパートの隣の高齢者)は、正面の壁にかかっている絵(=被災地の仮設住宅の状況)よりも環境世界的には「遠ざかって」いるのだ。眼鏡という「道具」が「目立って」くるのは、それが壊れたり、手許になかったりする場合であり、そのような時以外は、「道具」は大抵「目立たなさ」の中にある。そして今、この眼鏡にひびが入った。
今まで(道具的連関の内で)、風景に(「地」として)沈んでいたものが、自分の前に特異な形で(「図」として)現れた時、我々は何とかそれを処理しようとする。そのことを、「自己化」すると言ってもよいであろう。自ら慣れ親しんでいる「目立たなさ」の中へ(「道具的存在」の地平へ)、それを再び帰還させようとするのである。しかし、それが、つまりこの「自己化」が「目的」であると錯覚してはならない。まして、このような状況を浮かび上がらせることだけに満足してはならない。このような事態を「知っている」だけでは、真に「事柄」と対峙していることにはならないのだ。マスコミ等によって事態を「知る」ことは、「事柄」の解決の一歩ではあり、また「多くの人々」との共通理解を持つための一歩ではあるが、そこに安住してはならない。さらに言えば、他人の「死」を見れば「死」とは何かはすぐ分かるなどと言うのは、まさに「死」を知っていると思い込んでいるだけである。
誰かであるのは、このひとでもなければ、あのひとでもなく、そのひと自身でもなく、幾人かのひとでもなければ、また、すべての人々の総計でもない。「誰か」は、中性的なものであり、つまり世人である。(前掲書p.327)
「世人」は「空談」を行い、「好奇心」を燃やす。差しあたって「空談」・「好奇心」を営むのは「世人」としての我々である。我々が「世人」となることで、他者との共通了解は可能となり、「曖昧性」は指摘されないまま、むしろこの「曖昧性」こそが他者との共通理解を可能にする基盤となってもいる。しかし、それは我々が「世人」(誰でもない者)に支配されながら、「空談」や「好奇心」、「曖昧性」に取り憑かれて、本来の自己を喪失しているとも言えるのである。
そうした世人は、誰でもない者であり、この誰でもない者にすべての現存在は、たがいに混入しあって存在しているときには、そのつどすでにおのれを引き渡してしまっているのである。(前掲書p.331)
このような「世人」としての様態をとって存在するとき、我々は「おのれに固有な現存在の自己も、他者の自己も、まだおのれを見いだしてはおらず、もしくはおのれを喪失してしまっている(前掲書p.331)」のである。これは言うなれば、自己が非本来的なあり方として「頽落(たいらく)」しているということである。「世人」は人間(現存在)からあらゆる個人的な責任を免除し、気楽な安心を与えるのだ。
我々は「孤独死」をどこか「遠い」事柄のように思ってはいないだろうか。それと自分とは無縁だと(無-責任だと)どこかで感じてはいないだろうか。特に若者にとっては「死」さえも「遠く」感じられているかもしれない。否、「遠い」、「近い」以前にそもそも「距離」さえないかもしれない。
「死」とは何か――今こそそれを、自らの「事柄」として引き受けることの意味(本来的な自己のあり方)を、改めて真剣に考えたい。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0821 :120323〕