偉大な先人たちが、一生をかけて目の前の社会という風景を上手に切りとる独自の枠を工夫して、切り取った景色から社会の成り立ちを説明しようとしてきた。
後に続く人たちの多くが、先人から引き継いだ枠を拡張したり調整しながらも、基本となる骨格をそのまま使って、視線を変えることで切り取る景色を工夫してきた。中にはどのような優れた枠であっても、歴史の積み重ねの上に先人たちが創り上げたものでしかないとして、目の前の風景をもっと上手に切り取るべく、それまでの枠とは一線を画して違う枠を創造した人たちもいた。経済学の世界には歴史上の枠を創造した偉大な先人としてアダム・スミス、カール・マルクス、シュンペーター、ケインズ……がいる。
どのように優れた枠であっても、枠を創造した人が対峙し得る風景とどのような景色を切り取ろうとしたかという二つの点から基本形が決まってしまう。対峙し得る風景は時間的にも空間的にもある特定の時代と社会でしかないし、社会を説明しようとする意思(思い入れ)が、どのように風景をみて景色として切り取るかを決めてしまう。先の偉大な先人が見た風景には実体経済から遊離して病的に肥大した国際金融はなかった。風景になければ、当然のこととして、そこから切り取った景色にも入っていない。それ以上に、国際金融が風景になかった時代に創造された枠には、肥大化した国際金融を主要部分として景色を切り取る機能がない。
先人の枠の正統な後継者でいようとすれば、創造時に決まってしまった枠の基本形に拘束される。百年も二百年も前に作られた枠に多少の手をいれて変更したところで、枠が創られた時代とは大きく変わってしまった風景から意味のある景色を上手に切り取るのは難しい。求める景色を得るために視野を移動したところで、切り取れる景色はおおむね枠の機能で規定されてしまう。
枠が創造されたときとは大きく変わって、枠には入りきらなくなった風景から、どうすれば意味のある景色を切り取れるか?可能性は三つだろう。1)一線を画した新しい枠を創造する、2)既存の枠を改良する、3)視線を移動する。
1)は経済学の歴史に新たな一ページを追加する創造的な作業で非常に難しい。現実的な可能性としては、2)あるは3)か2)と3)の組み合わせになる。2)は1)に比べればはるかに現実的な選択だが、3)ように簡単にはいかないし、枝葉末節に拘泥したものだったり、ただの独自性を目的としたものでしかないこともある。
3)は、視点を移動して従来とは違う景色の切り取ろうとするもので、既存の枠をそのまま使っても、改善したものを使ってもいい。新しい景色を得るためにはもっとも安易で手っ取り早い手段だが、特異な新しい視点が無限にあるわけでもなし、切り取れる景色の新しさという点では限界がある。
- の難しさのひとつに時流の乗れるかという問題がある。多数を占める正統派から一歩出て、時代を画した枠を創造しえたとし
て、その枠で切り取った景色を共有する同志がいないことには、学会でも社会でも存在を認められないし、次の時代を切り開く力にはならない。認められ力になるには、極端にいえば時の風を得て流行の波に乗れるかにかかっている。百年を超えて新しい枠が引き継がれるかどうかは別として、生まれたばかりの枠が社会で認知を得るにはかなりの数の追従者とその枠によってなんらかの利益をえられるだろうと期待する人たち(利権層)が必要になる。
この数十年で時流をうまくとらえた視点の一つに新自由主義がある。だが新自由主義が経済学の新しい枠を作ったわけではない。その名の示す通り、アダム・スミスが創った枠の使い方―視点の工夫で、国際金融資本が欲する景色を切り出したにすぎない。
歴史上の経済学理論、極端にいえば、社会という風景を経済という枠から景色として切り取ったものの解析であり説明でしかない。枠が創られた社会とあまりにも大きく違った風景を目のまえにして、新しい枠を創造するほどの力のない人たちが歴史遺産の枠を引き継いで正統性の主張のもとに、視点を振って、景色として切り取って、議論を重ねることで存在してきた、と言ったらどれほど失礼になるのか。そこにはささやかな独自性が一人歩きしているだけだったり、枠に隅に引っかかった影のような景色から社会を説明しようとしているものまである。
枠もその枠を創造した思想も歴史上のものに留まって、違いを視線の振り回しに求めていたら、目の前の現実(風景)を解体するほどの画期的な枠など創造できるわけがない。都合のいい視線で時の政治権力に仕えるか、時の話題を提供することぐらいだろう。
新自由主義が切り取った景色は、グローバル化した風景から資本の都合のいい部分を抽出した景色でしかない。歴史遺産として引き継いだ従来からの枠で切り取った景色で、新自由主義の景色を置き換えるような工夫で、どうにかなるような時代ではない。
実体経済が必要とする量をあまりに大きく超えてしまった金融資本が、利益をもとめて世界中を駆け巡っているときに、実体経済を扱った従来からの枠では、分析にあたいする景色を切り取れない。
金融化した資本の活動を分析するための金融論はいいが、投資銀行やファンドでもあるまいし、伝統的に実体経済をその領域としてきた経済学から抜け出て金融論が一人歩きできるわけもない。実体経済も一国の経済政策も、国境を越えて活動する金融資本と関係なく存在しうるわけでもない。
実体経済や国家レベルの政治経済体系と国境を越えた資本の活動という目の前の風景を切り取る、時代に即した枠を創造しなければならないときだろう。こんなことを言っても、何もしらない素人の愚考と一蹴されるのが落ちなのか。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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