宇井宙さんの「四たび、フランス革命と《友愛》について」を「ちきゅう座」で拝読しました。「友愛」語についての詳しい報告に、感謝します。
まず確認したいことがあります。それは、岩田昌征さんと私が論じあったのは「友愛(fraternité)」の訳語とその意味であるということです。
「自由・平等・友愛」がフランス憲法上に登場するのは1848年フランス共和国憲法からであるという点は、私(内田弘)が指摘してきた論点です。この点についてはすでに何回か自分の論文で指摘しました。
一般的に、「自由・平等・友愛」は、フランス現行憲法「前文」にミスリードされて、1789年の「人権宣言」からのものであると誤解されています。この誤解をまず正すことが先決案件であると判断します。その1958年フランス憲法の「前文」と第2条④項はこうです。
「フランス人民は、1789年宣言により規定され、1946年憲法前文により確認かつ補完された人の諸権利と国民主権の諸原理に対する忠誠、および、2004年環境憲章により規定された権利と義務に対する忠誠を厳粛に宣言する。
これらの原理および諸人民の自由な決定の原理の名において、共和国は、加盟意思を表明する海外諸領に対し、自由・平等・博愛((マ マ))の共通理念に依拠し、諸領の民主的発展をめざして構想された新制度を提供する。
(訳文8行略)
第2条④ 共和国の標語は、自由・平等・友愛((マ マ))とする。」(高橋和之編『[新版]世界憲法集』岩波文庫2007年278~279頁。赤字表記は引用者)。
上にあるように、この「前文」や第2条④を読むだけでは、「自由・平等・友愛」[友愛(fraternité)は上記のように「前文」の訳では「博愛」]は、1789年の「人権宣言」にある「共通理念」であると誤解してしまいます。実際、多くの電子辞書に収められている『ブリタニカ国際大百科事典』で「自由・平等・友愛」を引くと「フランス革命のスローガン」とあり、「フランス革命」を引くと「1789~99年の間の革命」とあります。或る著名な書誌学者も最近の著書で同じ誤りを記しています。このような誤解をまず無くすことが先決課題です。再度書きます。1848年フランス共和国憲法の「自由・平等・友愛」に対比すれば、1789年の「人権宣言」の標語は、「自由・平等・所有」です。
現行フランス憲法の前身である、1946年憲法「前文」は非常に長いものです。そこに「フランス人民は、1789年の権利宣言(Déclaration des Droits)によって確立された人および市民の権利と自由ならびに共和国の諸法律によって認められた基本的な諸原則を厳粛に再確認する」とあり、第2条には「共和国の標語(device)は《自由・平等・友愛》である」とあります(中村義孝編訳『フランス憲法史集成』法律文化社、2003年205~206頁)。こう書いてあるので、1946年憲法を読んでも、「自由・平等・友愛」を最初に掲げたのは1789年の人権宣言だと誤解してしまいます。1946年憲法でも、1958年憲法でも、「自由・平等・友愛」を最初に掲げた1848年憲法は言及されていません。なぜでしょうか。
1848年は、フランス産業革命から生まれた社会主義運動の「二月革命」の年です。現行フランス憲法の始まりは1946年憲法です。その1946年の当時、第二次世界大戦終結過程で、「ソヴィエト軍占領下東欧社会主義革命」が進行している時期でした。そのころ、《ジャコバン主義→二月革命→パリ・コミューン→ロシア革命》という社会主義史観が《東欧革命》でさらに実現したとみなされていたのです。注目すべきことに、1946年フランス憲法の非常に長い「前文」は、上記の引用文のあとで、男女同権、被迫害者の庇護権、勤労権、労働組合権、罷業権、企業管理参加権、社会保障権、教育権など、「社会権」を幅広く保障しています。「社会権」規定は「1848年憲法」に初めて登場しました。フランス国民に幅広い社会権を保障することによって、フランスに東欧社会主義革命の浪を波及させない防波堤としたのでしょう。1946年フランス憲法の目立つ冒頭の「前文」で、幅広い「社会権」を保障する代わりに、「自由・平等・友愛」と「社会権」を掲げた「1848年憲法」への言及を回避したと思われます。1958年憲法もその回避は継承されています。「自由・平等・友愛」は1789年「人権宣言」から始まるという誤解は、このような戦後冷戦体制の始まりという国際政治の最中で制定された1946年フランス憲法に起因していないでしょうか。
この時代より少し遡って、マルクスの『資本論』では、第1部転化論の最後に「自由・平等・所有・ベンサム!」とあります。ブルジョア経済は「自由・平等・友愛」に変わった後でも、「自由・平等・所有」を基盤とすれば、《万々歳、「ベンサム」である、「友愛」は実現する》というが、果たしてそうだろうか、詳しく追跡しよう、というものです。
宇井宙さんが指摘するような「友愛(fraternité)」の語史、すなわち、1848年フランス憲法以前のフランス革命史に「友愛」語が登場していたという詳細な指摘は重要です。ただ、このことは私も基本的には知っていました。しかし、私の主張はこのようなしっかりとした語史に基礎づけられなければなりません。
同時に、その語が結局、フランス憲法上の基本理念になったのは「1848年フランス共和国憲法」においてであったのは、なぜか。この問い[問い①]が重要であると思います。マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、「赤い共和国」の立場から、「二月革命」を「第二次革命」(おそらく社会主義革命の意味)と規定し、「友愛」語に皮肉を込めています。しかし、私たちがいま問うべき問題は、その後、現在まで「友愛」が継承されてきたのは、なぜかという問い[問い②]ではないでしょうか。
「友愛」語が大革命期に、まず「コスモポリタン的意味」をもち、次いで「排外主義的意味」に転化する経緯を宇井宙さんは紹介しています。つまり、「友愛」は「外延性」と「内包性」をもっています。これは重要な点です。私が注目するのは、そのフランスの経緯は、明治維新で自由民権運動家が征韓論者に転向する経緯に対応していることです。イギリス・ピューリタン市民革命がレヴェラーズ(平等派)を切り落として行く経緯も、それに対応していないでしょうか。
私は、フランスの1789年の大革命からナポレオン体制までは資本主義的基礎を築くフランス原蓄国家建設期である、とみています。イギリスの清教徒革命から名誉革命までも原蓄国家建設期でしょう。石川啄木の時代までの明治国家も基本的に同じでしょう。
この問題視野は拙著の問題像と重なります。石川啄木の時代は、まさに明治原蓄国家が強権をもって推進する武断的原蓄過程=産業革命期(1880年代~1920年代)です。1848年フランス共和国憲法で「友愛」が「憲法上の公的用語に転化」して復活するのは、なぜでしょうか。そのわけは、フランス産業革命期(1810年代から1870年代)に、財産所有者に対抗して、主体として登場してくる勤労者の力量がフランス資本主義にとって不可欠になったことにあるのではないでしょうか。彼らは(相手にとって必要な力をもつ)交渉力をそなえるようになったのです。それは近代資本主義が無自覚に作り上げる力量です。資本主義のための力量が資本主義批判の力量に転化するパラドクスです。ほぼ同時期のイギリスの産業革命期(18世紀後半から19世紀前半)もそうです。マルクスは、資本主義がこのようなパラドクスを孕んだ構造=過程であることを論証することを、課題としていました。資本主義の、いわば「内掛け倒し法」を探求していました。歴史の細部研究は、歴史の旋回軸をきっちりつかむための基礎作業であるかぎり、意味をもつのではないでしょう。「友愛」語は1848年フランス共和国憲法という旋回軸を担ったと思います。
上記のマルクスの「友愛」語に対する揶揄は政治的言説でしょうが、それを今日的視座からでも、無条件で受け入れていいのでしょうか。その点で、『資本論』の「初版序文」では、賃金労働者の階級主体としての登場を指摘していることは注目すべきではないでしょうか。私は『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』よりも、『資本論』に注目します。マルクスは40年代の資本主義観を50年初頭にロンドンで反省します。その結果が『経済学批判要綱』であり、『資本論』です。
「友愛」語は、「1848年11月フランス共和国憲法」に憲法上の用語として登場し、かつての「革命同志の間の盟約語」から、「人々が階級的差異を超えて共和する(fraternize)ことを示す社会契約語」に転化したのだと思います。それが証拠に、その憲法「前文IV」では「フランス共和国は、自由・平等・友愛を原理とする。[改行]フランス共和国は、家族・労働・所有権・公序を根底とする」と規定しています。つまり、人格上、無産者と有産者とがフランス共和国で(少なくとも法的には)同格になり、フランスの二つの柱になったのです。「公序」=「安全」は「労働権と所有権との安全と秩序」を守ることを共和国の国是とするという意味でしょう。これを《単なる形式だ》と冷笑するのか、その形式に対応する内実を要求してゆくのか。無論、後者です。勤労者はその足場を資本主義社会に作ったのです。
岩田昌征さんが「fraternité」の意味を巡って、もっぱら「内部結束(内包性)」の面を強調したのに対して、私は1848年フランス共和国憲法成立背景に「労働者と資産家の歴史的妥協」があり、「階級差を超えて共和するという意味(外延性)」を強調しました。いまは、両面の意味があると了解しています。「友愛」のこの両面(外延性と内包性の同時存在)は、その語に限定される特性ではなくて、人間諸関係を構成し貫徹する論理ではないでしょうか。それは宗教・政治・経済(貨幣)にも潜在する「二重性」ではないでしょうか(そのうち、「貨幣」に貫徹する「二重性」については、昨年2010年12月4日の現代史研究会で報告しました)。
ナポレオン統治期を含む、広義のフランス大革命期が対外戦争期でもあったことは、クロムウエルの革命がアイルランド征服戦争に進み、明治維新直後の明治国家が台湾出兵(1874年)・江華島事件(1875年)を展開することと対応していないでしょうか。第1次市民革命が原蓄国家構築を目指すものであれば、(販売・購買)市場獲得=拡張(できれば、より広い国内市場・国際市場)を必須の課題にしていることは自明です。Go to the West! の西部開拓史=先住民掃討もアメリカ東部からの資本主義市場拡張運動です。大西洋国家アメリカは太平洋国家にもなり、アジアに進出する野心を日露戦争のころから展開し始めます。その背景にペリー提督派遣があります。啄木の時代から大正デモクラシーの時期は、1848年フランス共和国憲法に相当する潜在力を孕みながらも、1919年(大正8年)の「三・一運動」や「五・四運動」で抵抗を受ける帝国主義路線に旋回してゆきます。
このような諸問題に関連する「友愛」問題の出発点は、拙著『啄木と秋瑾』でした。秋瑾は、軍事決起を決意して1906年、一組の姉妹(徐自華・徐塩華)ともう一人・王金発と「生死の友」の盟約をしています(拙著巻末の「啄木・秋瑾略年表」参照)。秋瑾の「生死の友」の誓いは、ジャコバン的「友愛」に相当します。1907年7月13日、清朝軍が秋瑾逮捕に迫り来るとき、周囲の者たちが秋瑾に逃亡を勧めましたが、秋瑾は「生死の盟約」を守って、敵前逃亡を拒否し、粛然として逮捕され、斬首刑に処せられてゆきます。《逃げれば、すべてが無に帰す》の覚悟と確信でした。秋瑾斬首に中国全土が号泣し、怒りで打ち震えたのです。秋瑾は《死して、生きた》のです。秋瑾の斬首刑死は近現代中国史の旋回軸です。私は拙著『啄木と秋瑾』をこれまで書いてきたような問題視野から書きました。
秋瑾は①「女権主義者」であり、かつ②「排満興漢」主義者=漢族ナショナリストでした。秋瑾の生涯にも、「生死の友との盟約」・「漢族ナショナリズム」という「内包性」と、そのために同志を求めるという「外延性」が見られます。中国近代史の歩みでみると、②の「漢族ナショナリズム」が辛亥革命で実現し、①の「男女平等」がその後、まず中国共産党の根拠地で実現することになります。この点(①と②)もその拙著で指摘しました。拙著は、《啄木と秋瑾》を軸に、近代日本文学史を近代日中関係史に重ねたものです。《啄木と秋瑾》という、文字通りの「秘話」は、拙著で復活=再生したと思いますが、勝手ながら、みなさんにそれを確かめていただきたいと希望しています。
関心を寄せてくだされば、ありがたいことです。
少し長くなりました。宇井宙さん、重ねてお礼申し上げます。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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