四月に刊行された『沖縄と日米安保 問題の核心点は何か』(社会評論社)に、柴田鉄治さんが「日米同盟50年、日本のメディアの驚くべき『変質』」という論文を執筆されました。
一読して、日本メディアの「米国一辺倒」化を憂慮する趣旨には賛同いたしました。しかし長くジャーナリスト運動に関わってきた者として、違和感を覚えたことがいくつかありますので、そのことについて書きます。
1.一九六〇年に改定された現行安保条約の評価について。
柴田論文は「安保条約の改定そのものは、いまから考えると必ずしも『改悪』ではなく、前より悪くなったわけではない」と書き、「60年安保騒動」が爆発したのは「国会での強行採決という強引な手法と、岸首相が戦前の日本を戦争に導いたA級戦犯のひとりだという不入気も加わって」のことだとされています。確かに旧安保に比べ内乱条項がなくなったことは「改善」かもしれませんが、二条の経済条項、三条の防衛力整備条項、五条の共同防衛条項、六条の基地貸与条項を合わせて、さらに言えば交換公文や密約まで含めて、日本を米国の目下の同盟者としてトータルに縛る条約であり、沖縄・安保の今日の状況の淵源であるととらえるのが、ジャーナリスト運動の基本認識だと私は思ってきました。やはり「改悪」ではないでしょうか。新聞労連朝日労組もJCJも60年当時は「安保反対」でまとまっていたと聞いています。
2.一九六〇年六月一七目の「七社共同宣言」について。
柴田さんは「七社共同社説」と書いていますが、これは当日の紙面を見ると「宣言」となっていますし、「岸首相には退陣を迫った」と柴田さんは書いていますが、岸退陣を求めたのは共同宣言ではなく六月二一日の朝日社説です。それはともかく、共同宣言は無防備のデモ隊を警棒で殴り重傷者を続出させた警官の暴力を不問にし、なぜ国会を30万のデモ隊が取り巻いたかの「よってきたるゆえんを別として」事態収拾を求め、安保闘争に冷や水を浴びせたものでした。だからこそ、これは「新聞の死んだ日」と言われ、新聞労連もJCJも抗議しました。いま普天間問題をめぐってマスコミ各社が歩調をそろえて「同盟を壊すな」と叫んでいるのと同じ状況ではないでしょうか。
3.ベトナム戦争報道への米国からの圧力について。
柴田さんは「駐日米大使が『日本の新聞社には共産主義者が大勢いる』と語った」とさらりと書いていますが、一連の問題の発端、一九六五年四月七日に米上院外交委員会の聴聞会でマッカーサー国務次官補(前駐日大使)が「朝日新聞社は編集局のなかに二〇〇人以上の共産党員をかかえていた」等と証言したのを皮切りとして、ライシャワー大使が各紙首脳と「懇談」して干渉したと諸書にあります。安保闘争後、村山社主家と東京編集局木村・三浦体制による労組破壊で疲弊していた、かつて二〇〇名を超えるメンバーを誇ったJCJ東京朝日支部は、この事件を契機にほぼ潰滅したということてすから、このあたりはもう少し書き込んでいただきたかったところです。
以上三点、ジャーナリスト運動の歴史から学ぶ上でも、いま安保を読み解く上でも、大事な問題ではないでしょうか。いま運動史を踏まえた安保報道についての議論が深まることを期待します。
なお付け加えますと、私は一九七一年に朝日新聞に入社すると同時にJCJ会員となりましたが、ずっと東京朝日には支部がなかったので個入会員のままです。右の記述はすべて諸先輩からの聞き取りと文献からの学習によるものにすぎません。誤りはご指摘くだされば幸甚です。失礼の段はどうぞお許しください。また、私白身もこの六月に『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考えるべきこと』(窓社)という本を上梓しましたが、こちらは運動については触れておりません。併せてご批判たまわれば幸いに存じます。