実践の哲学の次元とは何か――ヘーゲル、マルクスおよびグラムシの哲学から考える。

 マルクスの「実践の哲学」概念を考えるにあたって、問題となるのは、マルクスの自然主義=人間主義の哲学をどのように捉えるかということだ。この哲学は人間社会の歴史を自然史の一部として把握し、すべての存在を自然と人間との相互作用としての主体と客体の弁証法的な発展過程として、すなわち自然の史的過程として捉える一種の存在論ではないか。そういう意味でマルクスの哲学は、現代的に意味がある。しかも我々が継承すべき哲学は、唯物論ではなく、実践の哲学である。というのは、『経哲草稿』で打ち立てられた哲学は、実践の哲学であるからである。
 それは2つの意味でそう言いうる。1つは、自由と必然性との、唯物論と観念論との、理論的な対立は、理論の次元ではなく実践への投企のなかで解決され、止揚されるからである。第2に、われわれの認識の正しさも誤りも実践を通じて検証されるからである(「フォイエルバッハテーゼ」)。
 グラムシが、人間無くして人間の外部の世界など何の問題となるのか、と問うた時の思想は、パリ時代のマルクスの実践の哲学と同じ立場に立っている。存在を過程として捉える立場は、実体を主体として捉えたヘーゲルの『精神現象学』の哲学思想に由来している。アルチュセールと論争したジョン・ルイスの「マルクスのマルクス主義」という哲学もグラムシの哲学と同じである。
 でも自然弁証法は否定するのかという反論もあるだろう。しかし、自然の弁証法的過程を認めることは実践の哲学と決して矛盾しない。実践の哲学は、人間の歴史に焦点を当てたマルクス主義思想ないしは哲学の呼び名であり、それは人間において頂点に達した自然史の弁証法的過程の哲学的・理論的な反映であると考えられる。したがって、実践の哲学は歴史主義と一つであると言っていい。つまり自然史と人間史を一つの存在の歴史と捉えるのが歴史主義である。この歴史主義はマルクスの言う「自然主義=人間主義としての社会主義」と同一である。人間の外部にある自然は、あくまで人間の非有機的身体としての自然であり、そういうものとして主体としての人間にたいして客体として人間と相互作用する存在である。したがって、主体と客体の相互作用から構成される過程としての存在は、同時に歴史的存在であるので、もはやそういう過程としては物質と精神を対立的に捉える必要もないし、実際、両者の対立は、現代の自然環境の破壊から自然を回復することが哲学の課題になっている時代においては、もはや観念論か唯物論かは問題とはならない。観念論では自然環境の回復など不可能であることは明らかであるからである。そういう観念論はもはや現代では哲学ではないのである。今や時代は、観念論と唯物論の対立が問題とならない時代に突入したのである。
 社会的諸関係においても状況は同じである。情報や知識は言語と文字という、物質と不可分な、それ自身一つの物質的存在に担われている。意識は、マルクスの言うように、意識する存在である。コミュニケーションも通信手段である電気なしには存在しない。コミュニケーションは上部構造である社会的意識の現実的な存在形態である。ハーバーマスのコミュニケーション論は、したがって、ルカーチの言う社会的存在のオントロギーの一形態にすぎない。社会的存在は自然的存在の一部であり、そういうものとして歴史的存在の一部である。マルクーゼの「歴史的存在の存在論」はこのような一元論論的存在論にほかならない。

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