中野@貴州 様。
過分な評価の御返信を有難う御座います。 御恥ずかしいことに、韓非子は、漢文学習で読んだ程度でして、注釈書を一通り参考にしたことがあり、拙文を書く折に探したのですが、諸家の選集纏めて処分したのか見当たらず、韓非の当該箇所を誤読したかも知れませんので御許し下さい。
ただ、韓非の思想が、近代的罪刑法定主義の走りとまでは、思い至りませんでした。
そもそも、罪刑法定主義に基づく刑法典等は、犯罪人のマグナカルタと呼ばれる如く、近代民主主義の人権尊重の精神からは、犯した罪と著しく均衡を欠かない刑罰を法定し、法典に載せて一般に衆知しておくことが基本と思われます。
即ち、罪を犯した者が、己が犯した罪には、この程度の罰がある、と自ら認識可能な制度とする訳です。 此処では、応報刑の解釈が、罪と罰が応報の因果になる訳で、その意味が応報刑と言う訳です。
これ等は、刑法についてですが、他の領域の法についても法治主義は及びます。 例えば、諸々の行政領域での各行政庁の行う行政実務に関わる手続を定めることも必要です。
各行政庁が恣意的に行政実務を遂行することは、甚だしくは、一般国民の権利侵害となる場合もあり、特に、権力的に一般国民の権利を侵害する場合は、その手続の細目を明らかにしておくことが民主主義の原理からは求められることです。
日本の場合には、この領域の法は、「行政手続法」として現存しますが、この法律の歴史は浅く、例えば、過去、大規模開発や、公害等に関わり革新自治体で実施され一般の認識を新たにしました「行政指導」なる行政庁の任意指導に依る実質的規制等の実務も、その昔には、何等も法定されて居ませんでした。
また其の間連で、法律で定めるべき事項、例えば、一般国民の権利に関わる規制等を定めるに当り、各種「指導要綱」と呼ばれる行政庁内の内部規範を、恰も一般国民にとっては法令であるかの如く、強いる実務慣行が、未だに存在します。
最後にこう言っては、身も蓋も無いのですが、確かな法が現存していても、何処かの国の如く、行政の長の任に当たる者が、国家の最高規範の意義を恣意的に解釈し、韓非その人のみならず、法家殆どの意見を無視しては、天を仰ぐ他はありません。 即ち、この国の法治とは、「法痴」ではないのでしょうか。