対日原子力戦略発動その1/対日原子力戦略発動から半世紀

対日原子力戦略発動その1

いま日本全土には、17か所に55基の原子力発電所があるという。
すでに全原発が停止しても、電力供給に深刻なダメージがないことが証言されている。

原発が停止すると日本中が停電してパニックになるという
電力会社側のためにする恫喝はもう通用しない。
いやあきらかにこのような議論すら、そもそも転倒しているのだ。

たとえ地震や津波が皆無な地域であっても、
本質的に重大な故障・事故をまぬがれない危険きわまりない原発は
即刻停止されるべきものであるはずなのに、
電力不足で停電するとたばかって運転をつづける連中の異常さにあきれるばかりである。

まるでブレーキの利かない電車に客を乗せて走らせるよりはるかに無謀で自殺的行為なのに、
営利主義にどっぷりつかってふやけた脳はまったく現実感覚が鈍磨して、
精神が正常さを欠いてとてつもなく逸脱しているとみなされる。
(ここには、「いままでやってきたのに、いいじゃねえか!」という心理もはたらいている。)

おまけについ最近まで「生産過剰」でモノ余りのデフレだと嘆いていたのに、
原発事故を起こしたら急に、マスメディアまでが
「生産力を確保しなければ」という真逆の論調になるのは いかがわしいことである。

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それにしても、
核被爆国の日本に、原発が導入されることになったのはなぜだろうか?

なぜ日本人は、つよい原水爆反対感情をおさえこまれたのだろうか?

この率直な疑問にたいする真実をさぐってみたい。
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1945年8月、
米国指導部の非道な無差別原爆攻撃によって
敗戦を受諾した日本の戦争指導部は、解体されたものの、

米国GHQが占領政策を遂行するうえで、実際には
帝国政府の親欧米派議員や官僚および軍参謀などを選抜利用して
運営せざるを得なかった。
はたしてかれらは何を思ってGHQとのコネクションをもったのであろう?

そのうちの大本営参謀本部や特務機関にいたものらは、いちおうに
「戦後5年もたてば占領軍も引き揚げるから、日本国軍を再建する」
と本気で考えていたことが証言されている。

帝国日本の明日のために死を覚悟して青春をおくったおおくの若者たちは、
おそらくそうした変わり身を知れば憮然たる思いをいだいたことでしょう。

だがそうした思惑を断つようなGHQ民生局草案による日本国憲法の第九条は、理念として
一国の民主主義の極北にせまるものであるということはできよう。

おそらく彼我の国力の違いを念頭に
その後の国軍創設に一貫して消極的だった吉田茂は、
その意義をよく知っていたようにおもえる。

だが1949年中華人民共和国成立のころには、
再武装推進派の政敵や元帝国軍参謀らの策謀はGHQのG2主導のもとに現実味を増していく。
米国指導部は対ソ冷戦に重きをおくなかで、対日占領戦略を
それまでの「民主化」をたなあげし、「反共防波堤化」に舵を切っていった。
目の前には朝鮮戦争がせまってきていた。

このとき世界は、
名ばかりの自由民主主義を旗印にする西側世界独占資本と、
名ばかりのマルクス主義を旗印にした国家社会主義官僚独裁側との、
愚かしい覇権をかけたたたかいが、
またぞろ互いのナショナリズムを利用して用意されようとしていた。

わが国では敗戦の深い傷を代償に、
「帝国の妄想」も「世界に冠たる日本ナショナリズムの超越性」をも手離した日本の大衆が、
占領軍民生局のしめした「民主化」を知識人とともに好意的に受けいれたのもつかのま、
一転しての米日政権による反共政策とその直後の朝鮮戦争の勃発によって
「反共・景気優先」に染まり再軍備容認へと傾斜していった。

そして1953年朝鮮戦争が休戦した翌月に、
ソ連が米国に先行して水爆実用化に成功すると、
翌年の3月には米国がビキニ環礁で水爆実験を敢行するが、
日本漁船・第五福竜丸の船長らの放射能被爆が世界中に報道される。

米国政権はこのとき放射能と認めなかったが、
これを機に日本中に反米反原水爆運動が沸騰する。 奇妙なことに
大衆の頭のなかでは、「反共」と「反米反原水爆」がバランスをとろうとしていたのだ。

アイゼンハワー米大統領は劣勢な対ソ情勢を反転させるために、
NATO同盟国に核武装を拡大し、その一方では日本に原子力平和利用を要請するという
二枚舌外交をおこない、フルシチョフソ連首相に批判される。

だが日本で大勢となっていた反米反原水爆運動に背をむけてこのときすでに、
「日米原子力平和利用」の一大キャンペーンが
米国政権側となぜか読売新聞・日テレの正力氏との間で準備されていた。

(次回につづきます。)

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対日原子力戦略発動から半世紀

さて前回の「対日原子力戦略 1」につづいて、
東電福島原発事故災害にいたった歴史の真実にせまってみたいとおもいます。

1954年、
米国最初のビキニ水爆に「ブラボー」と< 愛称 >をつけたことは、
アメリカ政府指導部が、野卑で尊大な本性をもつことをよくあらわしている。
そういえば広島の原爆には「リトルボーイ」、
長崎の原爆には「ファットマン」という愛称がついていた。・・(やれやれMy GOD!)

米国はその前年に原子力潜水艦ノーチラスの竣工をみている。
対日原子力戦略はアメリカの軍事開発の民間転用ビジネス化の一環である。
米軍軍需で莫大な利益をあげた企業はその資金でジャパン・ロビーなどを組織し、
つぎの対外ビジネス戦略(現代のグローバル帝国主義)にまい進するという構図なのだ。

そのアメリカと結託し「日米原子力平和利用キャンペーン」を大々的に工作、実行したのが
あの読売新聞・日テレの正力松太郎氏である。
(かれの野心がさらなる事業拡大(電信)や政治家トップにあって、そのために
米国の「対日心理戦略計画見直し」のちょうちん持ちを買って出たものと推察される。)

55年1月の「アメリカ原子力平和利用使節団」のメンバーにノーベル賞科学者をくわえて、
「ノーベル賞」と「平和」に弱い日本人を集める全国規模の大講演会に打って出る一方で、

正力氏は読売新聞と日テレを総動員して使節団のニュースとキャンペーンを張った。
「原子力の恵み」(日本におけるアイソトープの利用)情報なるものから、
「わが友原子力」という原潜ノーチラスの成功を元にした宣伝漫画を
ディズニーが制作し、日テレ放送網で放映。

そのころ相前後して、
ノーベル賞科学者で日本で最も敬愛されていた湯川秀樹博士が
原子力平和利用に賛同したことも大きな方向付けとなった。

「日本はエネルギー資源がない国だから、原発は日本にこそふさわしい」というプロパガンダは
政治家(共産党まで含め)から産業界、国民大衆までを
< 原子力 = 平和利用 >というマジックに染め抜いていったのである。・・・

*(ここでくれぐれも注視しておかなければならないことは、
当時の原子力発電なる実態はまだ皆無といってよい、
ただの「明るい未来」を絵に描いただけの過剰な期待イメージでしかないことである。
 それが現在に到っても欠陥原子炉であることにおどろかされるとともに、
この壮大なプロジェクトがもとから生命の安全などより
膨大なビジネス・利権にシフトされていたことをゆめゆめ忘れてはならない。)

正力氏はこのときを、
「世論を変えたターニングポイントになった!」とふりかえっている。
結果的に、その年の11月には「日米原子力協定」が調印されることとなる。・・・

じつにころりと、
アメリカの作為的なプロパガンダ(「明るい科学」= 原子力)に染まってしまった日本人。
この「思想的敗北」ともいえる日本的な変節をみせつけられるとき、
ことさらに
敗戦日本の自己喪失感とコンプレックス、それを埋めたいための
あらたなものへの依存欲求・期待の度合いのつよさにおどろかされる。

この時期から
わたしたちは日本的な自身の文化のすべてを嫌悪し、
アメリカ流の物質信仰= プラグマティズムにさそいこまれていくことになる。

それはついには現代にいたって、
世界金融資本が仮構したグローバリズムに染められ、
もはや人間を捨てた拝金主義者という究極のすがたにまで変容することとなる。・・・

まるで気の遠くなるような嘘のようなことだが、
「原子力= 明るい科学」の「悪夢の未来」の舞台裏があかされるためには、
わたしたちは五十年も待たなければならなかったということになる。

2011年3月に「ついに未完の危ない原子炉」がみずから本性をあらわすまで、
わたしたちは「思想的敗北の戦後」をずうっとひきずってきただけのことになる。・・・

悔やんでも悔やみきれない、
失われたゆたかな未来、
とりかえしのつかない現実、

ひとりでもいいから あらためていかなければならない