革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
――塚本邦雄
序 〈社会主義の基礎づけ〉と経済学
原理論―段階論―現状分析の三構成からなる三段階論という経済学の体系を構想し、第二次世界大戦以後のわが国におけるマルクス経済学の展開に先鋭な刺戟を与え、いくつかの重要な経済学、ひいては社会科学の問題領域を拓らいたばかりか、1960年代には、旧来の狭隘な政治理念とは異質の新たな〈政治革命〉あるいは〈社会革命〉を志向する諸派の運動論や現代資本主義分析にも一定の影響を与えた宇野弘蔵(1897〔明治30〕―1977〔昭和52〕)は、わが国の資本主義社会の揺籃と展開の渦中にあって大正・昭和前期における苦渋に満ちた自己の思想形成と経済学への関心についてたびたび回想を漏らしている。
第二次世界大戦(「大東亜戦争」)の敗戦以後に、〈戦後民主主義〉の政治秩序と価値とがはげしく動揺し“アナーキーな”といっていい時期に書かれた『「資本論」と社會主義』(1958年)の「あとがき」によれば、「経済学を学びたいと思うようになったのも、社会主義を理論的に根拠づけるという『資本論』が読めるようになりたいという、ただそれだけのためのものであった。社会主義に異常な興味をもっていた私にとっては、理論と実践との関係も自分の個人的な問題として重要であったのである」と宇野は述懐している。
『資本論』(第一巻1867年。【エンゲルス版、第二巻1885年、第三巻1894年】)とはいうまでもなく、K.マルクス(1818-1883)が近代資本主義社会の存立根拠と構造を独自の方法によって体系的に展開し、併せてそこに鋭い歴史的洞察と変革の意匠を遺した未完の古典である。端的に言えば、近代資本主義世界の歴史的性格がはじめて“近代社会の課題”としてわれわれに顕らかになったのは、『資本論』に貫かれるマルクスの課題意識によってであったといってもよい。そしてその課題をマルクスは、〈歴史的世界〉としての〈近代〉そのものの構造を問う論理として「経済学批判」ないし「経済批判」に託したはずであった。
さきの『「資本論」と社会主義』という著書のタイトルともなった論文「『資本論』と社会主義」は、雑誌『経済評論』1957年4月号にはじめて掲載されたものである。当時、ソヴィエト共産党第二〇回大会で第一書記フルシチョフが〈独裁者〉スターリンを批判し(1956年2月の「秘密報告」)、それに続くソ連圏のポーランドではポズナニ暴動(6月)が、さらにハンガリーのブタペストでは反ソ連・反スターリニズムを標榜するハンガリーの民衆による武装蜂起、いわゆるハンガリー革命(10月~11月)が起こったのであるが、この宇野の論文が発表されたのはこれら一連の“現存社会主義体制”を震撼させた1956年の歴史的事件から数ヶ月のちのことである。
スターリンの『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(1956年2月)に対して、宇野はすでに「経済法則と社会主義――スターリンの所説に対する疑問」(『思想』1953年10月号)で、スターリンの主張する〈社会主義における経済法則〉なるものは原理的には存立しえないこと、「労働力の商品化」の社会的廃棄にこそ社会主義の基本課題があると批判し、近代資本主義社会の「原則」と「法則」について一定の考察を加えていたが、この『経済評論』に掲載された論文「『資本論』と社会主義」では、ハンガリー革命によって提起されたもっとも枢要な論点は後進国の社会主義にとっての農業問題であると規定し、あわせて多様な社会主義の理念と制度の可能性にも触れていた。
スターリン「個人崇拝」に対する“政治的批判”やハンガリー革命は世界の政治過程と思考の体系に深刻な衝撃をもたらしたのであるが、この世界を震撼させた〈世界史的事態〉を契機にわが国におけるスターリニズム批判と諸派による政治運動が理論と実践の両面にわたって本格的に開始されたといえる。だが、政治的実践へのコミットには終始、慎重な姿勢をとっていた宇野にとっても、「社会主義を根拠づける」べき『資本論』の研究は、政治革命の理念、歴史観や世界観と何らかの関聯を持ちうるはずであって、この厄介な、しかし重要な論点は宇野自身の学問形成にとって不可欠の深刻な課題となったのである。
宇野が岡山の第六高等学校でドイツ語を学び、のちに赴任した仙台の東北大学では公私にわたって“ある種の世話”を受けた「全体性」の哲学者・高橋里美も、どういう関心からか『資本論』を哲学として読んだというが、宇野にとって『資本論』は、自身の政治的立場を自己-検証し、その反照過程と相関的に学問的思考を練り上げるべき文字通りの社会科学における可能性の中心であったのである。『資本論』に真摯に向き合いそのことをつねに自己-了解の篩に掛けて反転させるという学術の作法は宇野弘蔵の基本姿勢であって、この姿勢は生涯にわたってほぼ一貫して維持されているといってよいだろう。
東北大学に少壮の研究者として赴任した宇野が改造社発刊の雑誌『社会科学』(1930
年6月)に書いたはじめての学術論文「貨幣の必然性――ヒルファディングの貨幣理論再考察――」には、「追記」という短い文章がある。若き宇野の課題がどこにあったのかを確認するうえで引用しておきたい――。
最近、わが国のマルクス経済学研究も一段の発展をとげ、もはやマルクスにおいて単に古典的なるものの発展を求むるのでなく、真にマルクス的なるものを明かにすることが行われている。これはマルクスの経済学に留らず、その全範囲にわたる研究の結果であると思うが、経済学の範囲では、長い間の価値論の論争が生みだしたものであろう。マルクスの価値形態論、貨幣論の研究がそれである。この一文も全くかゝる発展の形態に刺戟されて、筆をとって見た次第である。したがって此れによってヒルファディングの『金融資本論』の価値を云々せんとするものではない。只価値形態論の重要性を考えてみたかったのに外ならない。誤解を恐れて一言しておく次第である。
このヒルファディング批判論文の執筆時点で、宇野が「真にマルクス的なるもの」にどんな複雑な思いを抱いていたか、その感情の機微や心理の襞はわからない。1930年代当時の日本共産党を中心にした党派的な政治状況による制約がマルクス研究をめぐる学問的思考にある種の影を落としていたという事情も考えられる。だが、この論文から5年ほどのちの1935(昭和10)年ころには、経済学研究におけるいわゆる段階論の設定と『資本論』の“純化”による原理論の構案を宇野はほぼ固めている。そういう宇野弘蔵が戦前・戦中・戦後の全期間にわたって生涯を賭して追究したのは、時代の精神と論理をつらぬく「真にマルクス的なるもの」と“社会主義の基礎づけ”とに相応しい経済学に固有の方法は何かという課題であった。
【註】この「小伝」は私の旧稿「宇野弘蔵」(鈴木信雄責任編集『経済思想』第10巻「日本の経済思想 2」、日本経済評論社刊、2006年)に、その後明らかになった事実関係の訂正と補充を施し、いくつかの論点を増補・拡張したものである。旧稿ではあるが、運営者の了解を得て、掲載(連載)させて戴くことになりました。
(2023.6.30)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1262:230701〕