第四章 『経済政策論』の基本構制と段階論の特質
(1)『経済政策論 上巻』(1936[昭和11]年)の方法視角について
近代資本主義の世界史的な展開とその歴史的性格をいかに捉えるかにあたって宇野弘蔵
は、その展開を重商主義―自由主義―帝国主義という三段階に区分し、これらの歴史的性格をそれぞれ近代資本主義の生成―展開―爛熟の過程として把握する。そのうえで、この三段階の特質を画する経済政策の性格と資本蓄積の歴史的構造(商人資本―産業資本―金融資本の蓄積形態)がどのような関連のもとに形成されたのか――こうした政策形成と資本蓄積との相関的関係を問うたのである。そして、日本の資本主義社会は、「爛熟」期の帝国主義段階に固有の蓄積形態たる金融資本の即迫と制約を受けた特殊な蓄積構造に主導されて存立する、というのである。それが『経済政策論 上巻』の基本的なモティーフであった。
そうした「経済政策論」に関する宇野弘蔵のまとまった著作は、(1)『経済政策論 上巻』「第一編 重商主義」・「第二編 自由主義」(1936[昭和11]年)、(2)この『上巻』に予定された第三編にあたる「帝国主義」を加えた『経済政策論』(1954[昭和29]年)、(3)「補記 第一次世界大戦後の資本主義の発展について」を含む『経済政策論 改定版』(1961[昭和36]年)であるが、これら(1)~(3)の「経済政策論」はその基幹的な意匠と構制においては実質的な変更はないとみてよい。ただし(3)に加えられた「補記」は、「既に社会主義経済の出現をみた」ロシア革命(1917[大正6]年)以後の近代の世界史的段階をいかに捉えるかについて、宇野の世界像と歴史認識を考えるうえで特記すべきものとして注意を要する。
(1)の『経済政策論 上巻』の「上巻」とあるのは、「第一編 重商主義」・「第二編 自由主義」を承けて「第三編 帝国主義」を続刊の下巻としてその執筆が予定されていたからである。だが、この「第三編 帝国主義」は戦後になってようやく書かれたものである。すでに触れたように宇野は1938(昭和13)年2月に、「人民戦線事件」に連座していわゆる労農派教授グループのひとりとして「治安維持法」違犯の嫌疑をうけ宮城署に拘束されたため、執筆の中断を余儀なくされたからである。この不当な逮捕・拘束の前に書かれていた「帝国主義」を含む「経済政策論ノート」が敗戦後の混乱の過程で、焼却処分を免れて仙台裁判所の書記官によって秘かに蔵置され、これが戦後宇野に “返還”されたのである(小町谷操三「宇野君の災難の想ひ出」、『宇野弘蔵著作集』第二巻、「月報」1973[昭和48]年)。(2)の1954(昭和29)年版『経済政策論』の「第三編 帝国主義」はこの廃棄処分を免れた「ノート」をもとに書かれたものであった。
前稿で検討したように宇野は、論文「資本主義の成立と農村社会の分解」において、帝国主義段階における日本資本主義の特殊な蓄積構造を、産業技術の導入と遷移、とりわけ農村人口の流動化と制約条件、要するに労働力商品化の〈組織化〉の可能性の条件を基軸にして分析する観点を提示していた。この観点において宇野は、資本主義の経済的組織は周囲世界の多様性に媒介された社会的構造として成立することを自覚的に捉えていたといってよい。そして、この過程で構想された資本主義の歴史的な発展段階の設定と“資本主義一般”に貫かれうる原理の純化は、社会科学としての経済学の方法をめぐる思考と並行しつつ行われたのである。
そうした段階―原理認識とともに構想された宇野の方法的思考が具体的に示されたのは、『経済政策論 上巻』の「序論」においてである。この「序論」で宇野は、政策形成の政治過程と資本蓄積の諸形態という枠組みにおいて〈経済政策はいかにして可能か〉を問うたのである。この作業は宇野においては、政策(論)を原理から分離し、分離された政策(論)を資本主義の歴史的な展開過程としての段階論に配分し、これに応じて近代資本主義を解明すべき経済学が学として存立する根拠を原理として設定する、という手続きとして遂行されたのであるが、政策形成の事実的・政治的過程と経済理論の科学的妥当性、その学問的構成という課題にいかに向き合うかは、宇野自身が拠ってたつ学問的立場を基礎づける必然的な作業であった、といってよいだろう。
それゆえ、当時、わが国にも紹介されつつあったM.ウェーバーの社会科学論に宇野が関心を払いこれに対峙したのは、学問上当然の選択というべきであった。のちに触れるが、宇野は治安維持法違犯の嫌疑により宮城署に拘束され、第一審・第二審ともに無罪であったのだが、教授会での復職決定をみたものの、結局のところ東北帝大を辞めざるをえなくなった。“御法度”の『資本論』研究を中断することになったのである。『資本論』も読めない大学にいることもないというのが、宇野の学問的抵抗であったというべきかもしれない。その頃宇野は、ウェーバーの翻訳(何かは不明)を思い立って書肆に提案したというが不首尾におわり、替わって(?)W.バジョットの『ロンバード街―ロンドンの金融市場―』1873年(岩波書店、1941[昭和16]年)を訳出することになった、と伝えられている。
ウェーバーの科学論に注目したのはむろん宇野だけではない。マルクス(主義)の導入を契機とする当時のわが国の思想状況がそれに深く係わっていた。R.ヒルファディングの盟友たるオーストロ・マルクス主義のM.アードラーが『科学をめぐる因果性と目的論』(『マルキシズム方法論』福田次郎訳、改造文庫、1932[昭和7]年として邦訳されている。平野義太郎「マックス・アドラーと『唯物史観におけるテレオロギー』」『社会科学』創刊号、改造社、1925[昭和1]年なる論文もあったが……)をヒルファディングと共同編集の『マルクス研究』(Marx- Studien)第一巻に発表したのは1904(明治37)年であったが、M.ウェーバーが下記に挙げた論文「認識の客観性」をW.ゾンバルト、E.ヤッフェとの共同編集による『社会科学および社会政策雑誌』に発表したのはおなじ1904年のことである。それ自体は偶然であったけれども、この事実は新カント派科学論の軌跡を示すひとつの象徴的な事態であるといってよい。それはおそらく、19世紀末の根強い科学主義的思考と実証主義的認識論に対する世紀末転換期における “相対的反抗”、S.ヒューズの規定を援用すれば1890年代の〈実証主義への反逆〉という性格を帯びていたにちがいない。とはいえ、彼らがそれを克服する論理と根拠を周到に得ていたかどうかは、むろん別の問題であろう。
そうしたウェーバーの重要著作は1935年前後に相次いで邦訳・紹介されている。それはとりわけ社会科学の構成と根拠をめぐる方法論に係わる著作に集中していた――「社会政策および社会科学の認識の〈客観性〉」1904[明治37]年(『社会科学方法論』恒藤恭校閲、富永祐次・立野保男共訳、岩波文庫、1936[昭11]年)、いわゆる「認識の客観性」論文とともに「社会学的及び経済学的科学の〈没価値性〉の意味」1917[昭和12]年ほかの翻訳(『社会科学と価値判断の諸問題』戸田武雄訳、有斐閣、1937[昭和12]年。なお、この
「没価値姓」はWertfreiheitの訳語)、さらに有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1904-05[明治37-8]年(梶山力訳、有斐閣、1938[昭和13]年)などである。
さて、宇野は当時、M.ウェーバーの評価について「所謂観念論といわれるもの」に対して「所謂唯物論と称せられるものの側」に位置づけられていたようであるが(前掲、戸田武雄訳『社会科学と価値判断の諸問題』「訳者解説」)、そうした認定はともかく、ウェーバーによる社会科学(「国民経済学」と経済政策)の認識論的根拠とその基礎づけに対して、彼の「価値自由」視角と「理想型」(Idealtypus[理念型])論を検討し、政策形成が可能な条件と経済学の学問的・科学的根拠についての自身の立場を確認し固めることーーこれが宇野の課題であった。(1)の『経済政策論 上巻』ではウェーバーの〈科学論〉の基本的な論点が簡潔に論じられているが、(3)の「改訂版」の「序論」ではそれが敷衍され、更に戦後の論文「社会科学の客観性――マックス・ウェーバーの「理想型」についてーー」『社会科学研究』1948[昭和23]年12月」で、宇野は改めて詳細な検討を加えている。
これらの論攷を通じて宇野が参照したのはウェーバーの重要論文「社会科学と社会政策の認識の<客觀性>」1904年である。さきの恒藤恭校閲の『社会科学方法論』と題された「認識の客観性」論文の邦訳は、奇しくも宇野の『経済政策論 上巻』の刊行とおなじ1936(昭和11)年のことであった。すでにリッカートの『認識の対象』を読み新カント派の「価値」の考え方や、さらにF.リストの「国民的生産力」概念、自由貿易論、ドイツ歴史学派の「類型的歴史認識」、SPDの関税政策論などを検討していた宇野はおそらく、この『経済政策論 上巻』の構想ないし執筆の過程でウェーバーの「認識の客観性」論文を読んだものと思われる。宇野は後に、東北帝大で経済政策論を講じる以上、ウェーバーの政策論の検討は必要な作業であったと述懐している(『資本論五十年 下』)。だが、戦後に書かれた上記のウェーバー論(「社会科学の客観性」)に先立って同じ年に、宇野が「『資本論』による社会科学的方法の確立」(『評論』1948[昭和23]年3月号)を書いていることに注意しなくてはならない。宇野にとってウェーバーの批判的検討は、『資本論』の「社会科学的方法」を確証するためであったからである。
ウェーバーはリッカートの〈文化科学の個性化的・価値関係的構成〉を経て、経験科学にとって〈客観的に妥当する認識はいかにして可能か〉と問い、“現実”に対する〈われわれ〉の「価値理念」に“関係づけ”この価値に応じた対象の「文化意義」とその〈発生的な〉「因果連関」(帰属)において、経験的な与件としての現実態の「個性的な構造」を認識するという価値関係的・因果論的な形式的方法を構想したのであった。そして、ウェーバーがこうした「価値自由」視角と「理念型」概念に基づく「文化科学」の認識論的・方法論的手続きの可能性を19世紀末以来のドイツの科学的伝統に導入し(ロッシャーやクニースらのドイツ歴史学派批判)、そうすることによって〈歴史的にかくなって他とはならなかった〉所以を解明すべき「社会科学の方法」を提唱したとすれば、アードラーは19世紀ヨーロッパの思考様式の根源的な批判を企てた(と思われる)マルクスの可能的な思想、とりわけ「価値」(経済的価値)の概念を「意識一般」という「超越論的概念」に類比的な「アプリオリ」の次元において成り立つものと見做し、これをカント由来の超越論的認識批判と「社会化」論(「社会された人間」)をとうして「社会的-アプリオリ」の問題構制としてポジティヴに継承しようと試みた、といえるかもしれない。
こういう文脈からみれば、宇野弘蔵の場合も、1920-30年代における世界資本主義のヨーロッパ―東アジアに及ぶ共時的な展開とこれに制約された思考空間のなかで、マルクスの『資本論』における社会科学的方法の批判的考察にあたって、貨幣と信用をめぐるヒルファディングの批判をとうして「価値形態」の重要性を自覚し、さらに日本の「特殊性」における資本主義の蓄積様式とその社会的構造を“段階的に“分析する方法装置として〈形態論的思考〉と段階―原理視角を構想した、といってよいだろう。
さきにも触れたことであるが、宇野が注目していたR.ヒルファディングは、『金融資本論』(1910[明治43]年)の「序文」でM.アードラーの「社会的―アプリオリ」論の参照を求めていた。『金融資本論』を方法的に精読した宇野が、ヒルファディングの指示にしたがってアードラーの『因果性と目的論』を参照した可能性は充分に考えられる。ウェーバーの「認識の客観性」論文の「認識批判論」を批判的に検討する過程で、宇野の脳裡にはアードラーの「社会科学の認識論的基礎づけ」がいくばくか働いたのではないか……。
アードラーによれば、I.カントの「実体的仮象」の超越論的批判はマルクスの言う「商品形態の秘密」の解明に繋がるはずであるが、この「商品形態の呪術性」は、テクノロジーと固定資本の巨大化、企業活動(とりわけ固定資本の回転循環)と資本信用、銀行(金融)と利子など帝国主義段階の金融資本(株式資本)の蓄積様式にとって特徴的な形態的諸契機をどのように処理するか。金融資本の蓄積を可能にさせる〈信用体系の形態的制度化〉という論点とも絡んで、これは宇野弘蔵にとっては年来の厄介な理論的課題になったはずなのである。
実際、宇野は学生時代このかた貨幣論や銀行論に関心をもち、すでに触れたことだがドイツ留学中に精読した『資本論』のなかでも、とりわけ資本利子論における〈フェティシズム〉の問題が「面白かった」と回想している。さらに赴任直後の東北帝大では学生主催の「社会科学研究会」で、当事の思想界では珍しくマルクスの利子論について“講義”をしたり、ローマ人の特殊な観念たる「フィデスの問題」(信用・世間における信頼)と「貨幣資本」の概念をめぐって東北帝大の同僚であった哲学者・河野與一と興味ある“問答”をおこなったりしている(河野與一『哲学講話』岩波書店、1993年)。このエピソードは、〈経済における信用と世間における信頼〉について宇野が一定の関心を寄せていたことを窺わせるが、宇野は、いわば「フィデス」というイデオロギー的契機を含むフェティシズムの形成との関連で資本の利子を捉えるという利子論を、当初から抱懐していたように思われる。実際、宇野の「原論体系」、とりわけ岩波全書『経済原論』(1964[昭和59]年)の終章は、「商品経済の物神崇拝」が「それ自身に利子を生むものとしての資本」において資本の理念として “完成する”という構制になっている。
ウェーバーの「価値判断」・「価値自由」視角と「理想型」概念も、アードラーの言う「社会的-アプリオリ」概念と「社会化された人間」論も、「社会科学の認識論的基礎づけ」をめぐる新カント派の内部における思考の諸形態として考えることができるとすれば、宇野もこのような新カント派の思考の流れをいわば“反面教師的な”背景として、自らの「社会科学的思考の方法」を相対的に深めていったにちがいない。誤解を畏れず言えば、いわゆる「経済的価値」に限らぬ広義における「価値」の概念とその存在構造をいかに捉えるかにおいて、何らかの局面で接触したマルクスとの関連は問わないにしても、彼らはいずれも社会科学的思考の方法論的な関心において”共通の課題意識”を抱えていたというべきかもしれない。それは、〈認識の客観性〉と「価値」の問題であったように思われる。
とはいえ、リッカート、ウェーバーら新カント派においては、自然科学の「法則定立」的概念構成にたいして「個性記述的な」文化科学に独自の方法的な基礎を与えることを目指したのではあったが、その「因果的思考」と「帰属」理論に示されるように近代科学のパラダイムに沿った科学主義的、実証主義的な時代の知的傾向を多かれ少なかれ背景にしていたことは否めない。ウェーバーがロッシャー論に寄せて、概念の構成と現実の経験との「非合理的な裂け目」(hitaus irrationalis)を指摘し、そこにいわば歴史的な一回性の個性的認識の“実用的な”出発点を措こうとしたのは、逆説的ながら「救いがたき自我」(E.マッハ)をなお救おうとした“実証主義の反転”であったようにさえ思われる。一方、認識の対象設定に関与するウェーバーの主観的な価値判断論の“虚妄”を批判する宇野は、この批判にあたって「個性記述的方法」を主張するリッカート、ウェーバーに対して、ヴィンデルバント以来の表現に仮託して言えば、〈社会科学における法則定立的概念構成〉あるいは〈法則論的構成〉の可能性を考えていたフシが窺われる。だが、〈概念的構成〉といっても、宇野の場合にはリッカート(ないしウェーバー)のような「諸要素の組み立て」(リッカート『文化科学と自然科学』)といた技術的構成ではなく、経済的諸事象を論証的に記述する体系構成が問題であったのだと思われる。しかし、ことはそう単純なものではない。
そこで論点を見やすくするために、戦後における体系期の構制から宇野弘蔵の段階―原理認識を顧みれば、つぎのようである。――『資本論』の「いわゆる原始的蓄積」論に典型的な“歴史的夾雑物”(宇野自身の規定)の排除と純化による原理論の構制を基準にして、近代資本主義の発生・発展・爛熟の展開過程の、それぞれの段階に支配的な資本形態(商人資本・産業資本・金融資本)の蓄積様式の変化とこれと相即する経済政策(重商主義・自由主義・帝国主義)の歴史的性格を解明する試み、ということになる。そして、近代資本主義の歴史過程におけるこれら経済政策の変化は「全く性質の異なった資本の中心的勢力の転換」にもとづくこと、およびこの「資本の中心勢力の転換」が段階的な構造をもつこと――これが、政策論としての段階論の中心的な論点であった。
『経済政策論 上巻』の「序論」では、資本主義に内在的な政策形成の“主体”(支配的資本)とその運動(資本の蓄積様式)に対応して、経済政策が「一般社會的な利害関係」を代表し、しかもそのことは世界史的に必然的な傾向であるとされている。そして、宇野が学問としての社会科学の方法について集中的に論じるのは、こうした資本蓄積の様式とこれに相関的な政策形成の場面においてである。
宇野によれば、経済政策は「商品生産者乃至所有者としての行動を或る程度まで社會的に或いは制限し或いは擴張することによって客觀的なる価格の運動法則を通して始めて實現せられる」が、資本主義社会の内部関係は不断に変化し、中心的位置を占める支配的資本も、それを支える勢力関係の変化とともに交代するのであって、その交代に応じて経済政策もまた変化する。そのうえで、政策形成における政策主体の政治的関与(Bezieung)について宇野は、つぎのように規定する――政策形成にあたって、「それ自身客觀的なる社會的存在」としての政策主体の判断や目的形成は、個人の価値判断によって主観的に決定できるものではなく「常に與えられたる歴史的社會関係によって必然的に客觀的に決定せられるもの」であって、政策主体も「一定の法則に従ってこれに必然的なる目的を設定する」というのである。
宇野は以上のような観点から、ウェーバーの「価値」論を批判する。その結論的な文言を挙げればつぎのようである。
社会科学としての経済政策の研究の目的とその基礎とは、かかる価値判断[目的形成に対する“価値”の主観的な判断]が一定の社会関係によって必然的に規定せられるという点にかかっている。実際経済政策の主体はそれ自身客観的なる社会的存在として意識的にしろ無意識的にしろ一定の法則に従ってこれに必然的なる目的を設定して、始めてこれを主張しこれを実現すること出来るのである(『経済政策論』上巻「序論」、『著作集』、第七巻)。
経済政策の「主体」も、その政策にあたっての目的形成の判断や選択も、「客観的なる社会的存在」に応じた「一定の社会関係」に規定されるのであって、いずれも「法則」的な必然性のうちではじめて客観的な意味をもつ、というのが宇野の基本的な主張であるが、それとともに経済学の認識対象についても同じように、「経済生活自身を何らかのイデーとか、立場でもってつかまえるという考え方」によってではなく、「経済生活の一定の形態が社会的に出てくる」ものとするほかないと主張する。宇野にとって経済学の対象認識は「新カント派やカントのイデアリスムスでは片づかない」問題なのである。それは、ウェーバー流の分析者ないし研究者の「関心」や「観点」に基づく単なる観念や「理念」などのイデーの“所産”ではなく、歴史的に生成する「社会的事実」だというのである(『資本論五十年 下』)。そして、この「経済生活」一般から区別される「商品形態」の“社会的実在性”、つまり「社会的事実としての形態」という観点は、宇野の処女論文「貨幣の必然性」におけるヒルファディング批判の論点以来、ほぼ一貫して維持されているといってよい。だが、宇野が「社会的事実としての形態」と言う場合、その〈商品の形態的性格〉はいかなる規定性における「形態」(ゲシュタルト)なのであろうか。
ウェーバーが自分に課した方法的・理論的な課題というのは、たとえば〈貨幣経済がなぜ歴史的に今日のような意義をもつようになったのか〉と問い、そしてこのような設問を社会科学にとって〈客観的に妥当する認識はいかにして可能か〉と捉え返すことにあった。それは要するに、社会科学の認識対象を、具体的・個性的な「観点」を統制する「価値理念」への関係づけによって当事的な「価値」として設定し、このようにして措定された「文化意義」をもつと見做され「知る」に値する対象を、「本質的部分」として〈布置関係へと帰属〉させ、「理念型」の装置とともに因果論的に記述する、といった具合なのである、例えば「手工業」とこの形態に見合う「理念型」というように。
こうしたウェーバーの設問と応答に対して、宇野はいわば客観的な「与件」として与えられる経験的事実の歴史的形成を対置し、経済政策の発動によって価格形成に伸縮の幅を与えつつも、結局のところは過程の繰り返しを通じて法則性が一定の構造として存立すると主張するのであった。しかし、ウェーバーが謂うところの、個別的な当事主体には内在的な、価値理念から選択され「文化意義」をもつ「目的」とその「手段」の“合理的な”形式的連関が、政策形成の過程を通じて「一般社會的な利害関係」として妥当し、この事態が対象的な“因果連関”において客観的に生成するという制度形成の社会的構造を明らかにしないかぎり、ウェーバーに対する直接の批判にはなりえない。むしろ、ウェーバーの認識批判的方法が、価値理念の統制的関係と因果的布置連関の帰属をめぐって一種の循環論になっていることが問題とされなければならないだろう。それは、価値をめぐる妥当(Geltung)の問題にほかならないと考えられる。
ウェーバーにとって「文化的価値理念」はそれ自身「価値体系」のような抽象的な普遍性ではなく、「研究者と彼の時代を支配する多様な諸価値理念」なのであって、この「価値理念」は社会的に通用する(geltend)かぎり「価値」として “実在”し、それゆえにこの「価値」が「研究者と時代」を支配する。翻って「貨幣経済」なるものの「個性的な現象の認識」が社会科学的に可能になるとされる場合、それは、当の現象がその「価値理念」に統制的に関与する〈われわれ〉の「観点」ないし「関心」によって選択されてはじめて「文化的意義」をもち、そのようにして措定された固有の“理念的“形態において認識の対象として生成するからだ、というわけである。ある事柄が「文化価値」として特定の「観点」に媒介されて認識の対象としての意義をもつのは、それがすでに「価値」として社会的に通用し・妥当するがゆえに、当の「観点」そのものが構造として成り立つ……という次第なのである。これは、ある種の〈循環論〉というべきものではないか。
ウェーバーの「価値」論の構成にある種の循環論が孕まれているとすれば、宇野が政策形成の社会的過程において「政策主体」による目的の設定は〈法則に従う〉という場合、これはどのような事態になるのだろうか、そこでの「政策主体」が「社会的存在」として演じる役割機能はなにか。法則に準ずる目的形成が可能なら、それはいかなる次元の社会的行為の場面において成り立つといえるのか。
しかし宇野はこの段階では、資本家(商品生産者)の当事的行動を制約(制限ないし拡張)する経済政策と「客觀的な価格の運動法則」との相互規定関係にはほとんど触れるところがない。既に見たように宇野は論文「相対的剰余価値の概念」(1936[昭和11]年)のなかで、としての政策生産方法の更新を“自覚する”資本家の行為的動機と資本蓄積の再生産との“法則的な”関連について多少とも触れていたことは注意すべきだろうが、『経済政策論 改訂版』(1971[昭和46]年)においても、過程の繰り返しによって商品経済の法則性が客観的に成立するというだけに留まっている。確かに、構造形成の次元に即してみれば、歴史的に成立した商品経済の「法則性」を確証することは必ずしも不可能というわけではない。だが、「文化意義と因果連関」の認識を「価値」論の要諦とみなすウェーバーにとって、社会経済的認識の対象は〈法則的に反復されるもの〉ではない。社会的経験は法則の構成的契機ではなく、帰属への因果的配分にあるというのが、ウェーバーの「価値」の理論なのである。ここにはすでにある種の齟齬があるといわざるをえないが、この齟齬がいわゆる方法論的個人主義と方法論的全体主義の二項対立に起因する認識論上の帰結であるかどうか――これはにわかに論定し難い。
宇野がウェーバーの社会科学的認識における「価値自由(Wertfreiheit)」の問題構制にたいして、いわば認識一般の「存在被拘束性(Seinsgebundenheit)」(K.マンハイム)というべきものを対置し、そこに経済学の科学としての存立根拠を求めたのは唯物史観の基本的発想を自己確認するという意味ではさしあたって有効であるとしても、それだけではウェーバーの批判は完結しない。この文脈に即するかぎり、政策論をめぐる宇野の議論には当事行為論と法則性論とを架橋する社会的媒介の論理を欠いているといわねばならない。それは端的にいえば、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で指摘していた〈交通諸関係〉をふくむ「社会的活動[の自己膠着]」の次元にほかならない。この意味で、ウェーバーが構想する目的―手段―価値の合理化連関の設定自体が、近代社会の歴史的構造の分析にとって有効な方法的装置として妥当なものかどうかが、問われねばならないだろう。ウェーバーが口を極めて主張するような「文化的価値理念」と「価値自由」は、当事主体の経験的知覚にとって、言われるほどに多様で選択可能な流動的性格のものとして〈われわれ〉に対して開かれているものなのかどうか、ということである。この点についてはむしろ、参照可能な「価値理念」なるものは宇野がそう考えているように、一定の環境的世界に制約された制度拘束的な社会的形態として意義をもつようなものではないか、とも考えられる。そして、このような宇野の「社会的事実としての形態」論を拡張してよければ、それは、帝国主義段階の近代資本主義社会に支配的な金融資本の蓄積様式に照応するイデオロギー形態として〈われわれ〉に対して現前する、ということになるだろう。
ところで、ワイマール憲法の草案に関与し政治過程に介入した政治家・ウェーバーと同じようにとは言わないが、宇野にとって経済政策論はある種の社会的変革の政治課題に連なっていた。『經濟政策論 上巻』での「國家主義」にかかわる論点がそれである。
宇野によれば、重商主義・自由主義・帝国主義という資本主義の諸政策をその「歴史的必然性」において認識するということは、資本主義自身に内在的な矛盾の現前に呼応して、これを批判する「經濟學批判の立場」(「序論」)に拠ってはじめて可能となる。しかも、この「経済学批判の立場」に基づく政策論は「社會的発展の新たな動力としての社會運動のための政策」となりうるのであって、「社會的発展の自然的動力と自由實現の社會的基礎」を備えた「社會運動」は、資本主義の世界的な展開の内部から対抗的に後続してくる「歴史的必然性」をもつというのである。この宇野の言説は、帝国主義段階の金融資本によって組織される「國家主義」を転回させる可能性が〈われわれ〉に対して歴史的に開かれていると解釈できるだろう。『経済政策論 改訂版』「序論」の当該箇所では、この「社會運動」は「社会主義運動」と記述されていることからも、そのことは傍証できる。
このような宇野の政策―主体形成の歴史哲学は、ヒルファディング『金融資本論』の最終編「金融資本の経済政策」における社会化論にアナロガスであるといってよい。そして、おそらくこの「經濟學批判の立場」は“社会主義の基礎づけ”あるいは唯物史観の「論証」という課題に根ざすというのが、宇野の自覚であったと思われる。だが、いかにして「經濟學批判の立場」に立ちうるのだろうか――のちに宇野は、“社会主義思想によるブルジョワ・イデオロギーの排除によって”と応えるのだが、そこに濾過されて成立するのは遺憾ながら、スキエンティア・モデルにもとづく啓蒙の科学主義とほとんど択ぶところはない。
そのような宇野の「立場」とは別に、社会科学の可能的な方法をめぐっては、近代科学の合理性と客観性、および実践的な価値理念と関心の所在を「社会的活動[の自己膠着]」のゲシュタルトという場面において洗い直す必要があるように思われる。ここで再び、ウェーバーのいう経験科学の〈個性記述的方法〉の構制の裡に、「因果的思考」の埒内とはいえ、社会的に妥当する価値に関与的な認識の主体が同時に〈社会関係に内在的な記述者〉として立ち現れるものかどうか――これが問われうるだろう。
近代資本主義社会における「社会的活動」のゲシュタルトという本稿の観点から言えば、このゲシュタルトをウェーバーが目的―手段―価値の体系と原因―結果―帰属の発生的因果連関として分節化したのだとすれば、宇野は宇野でそのおなじ事態を、商品価格の変動を通じて客観的な経済法則が形成される構造化の過程と見做し、この過程を「社会的事実としての形態」の歴史的生成と考えていた、といってよいだろう。そして、〈社会科学にとって客観的に妥当する認識はいかにして可能か〉というウェーバーの問いに応ずるかたちでいえば、宇野はやがて〈法則を認識する方法そのものを模写する〉という「方法の模写」説を主張することになるのだが、〈社会関係に内在する記述者〉の問題はこの「方法の模写」に関連するはずである。
(2)資本の蓄積様式と経済政策の歴史的形態
すでに見たように『経済政策論』諸版の基本構制には大きな変更はない。後年に「三段階論」として展開される宇野のモティーフに即していえば、それは資本による労働力商品化の組織化の可能性と限界を基軸にして編成されている。『経済政策 改訂版』にしたがえば、ほぼ次のようになるだろう。――
生成期の資本主義は「農民からの土地の収奪」(マルクス)を前提とし、農業と工業の商品経済的分離を通して「労働力の商品化を国民的に一般化してゆく過程」であるが、これはイギリス羊毛工業の歴史的展開のうちに強行されたプロレタリアの暴力的な創出過程であって、いわゆる原始的蓄積の典型的形態であった。資本主義の生成が、異質な諸社会の間に発生した商品経済の「破壊作用」に促迫され、伝統社会の政治権力によって社会諸関係が暴力的に解体され、これを通じて創出される労働力商品化という社会的形態を存立条件にするかぎり、生成期の典型をなす商人資本はそうした労働力を商品として組織する“自律的な”機構をもっていない。労働力商品化の「国民的な一般化」は統一国家を志向する権力の「政治的力」に俟つほかにない。「重商主義」の思考システムと各種の保護主義的政策は、その典型なのである。
それに対して、機械制大工業に生産拠点をもつ資本主義の発展期を代表する産業資本は、恐慌に続く不況期に固定資本の更新によって創出される相対的過剰人口を基礎にして、その再生産過程のうちに「自力で労働力の商品化を確保する」形態的な機構を展開する。だが、その場合でも、個々の産業資本は労働力の商品化を無制限に組織化する自立的な固有の回路をもっているわけではない。個別資本にとっては、不況期の死活的な競争と既存の固定資本の制約のために生産方法を不断に更新しえないからである。産業資本の蓄積はそのような資本価値の制約を受けながら、「資本主義の発展に伴う労働人口の自然増加からある程度まで解放せられある程度拘束されつつ景気の変動という特有の過程をもって増進する。」そしてこの産業資本の蓄積様式を宇野は、「外部的な政治勢力」に依存しない「それ自身の独立した機構」と見做し、そこに資本主義が「歴史的に一社会を形成しうる体制」の根拠を設定するのである。自由貿易論に示される「自由主義」の政策体系は、このような産業資本の蓄積構造に見合った、産業資本自らが産み出す自己体制化形態(ゲシュタルト)なのである。
このような宇野の規定を、その閾域を超えて積極的に拡張し『資本論』におけるマルクスの流儀を転用すれば、「自由主義」なるものはそうした産業資本の運動に適合する「客観的な思想形態」だということになるだろう。とはいえ、宇野は一般に、イデオロギーや思想形態を企業資本家の選択行動を構成的に機縁づける内在的な形態規定としては認めない。だが、一方、宇野によれば、歴史過程において稼働する産業資本はもとより、原理としての資本にとっても、労働力の商品化にはもともと資本自身によっては制御しきれぬ原理的な「無理」があるとされるのであって、組織化の限界は免れないのであった。この資本にとっての労働力商品化の原理的な「無理」について宇野は、資本が労働力を他の諸商品とおなじようには商品として生産できないことに求めているが、この論点は後段でやや詳しく検討するように、資本主義社会を〈商品による商品の生産〉と規定する宇野の〈商品形態〉論の体系構制に起因するはずである。それはともかく、私見では、ここでの宇野の主張は事実上、産業資本したがって“資本一般”の蓄積様式にとって、広義の「自由主義」のイデオロギー(たとえば典型的にはマンチェスター派の思考)が資本の自己体制化を実質的に可能にする適合的な思想=思考形態として媒介的な機能を演じる、とパラフレーズできる。こういう文脈に即する限り、宇野の謂う〈産業資本の自立化〉は自由主義の政策体系とともに、それに媒介されて「一社会の体制」として存立する、ということになるはずである。
帝国主義段階の支配的な資本である金融資本は、「重工業における固定資本の巨大化」に伴って、労働力の商品化を商人資本や産業資本とは異なった関係として展開する。株式会社形式による産業企業の発展を基礎とする金融資本ははじめから、「社会的再生産過程そのものを資本の集中によって支配しつつその蓄積を増進する。」巨大な固定資本をもつ株式会社においては、株式市場を通した社会的資金の集中を基礎にして、個別産業資本の制約条件であった固定資本の制約から解放され、有機的構成の高度化よる相対的過剰人口の形成がいっそう純化され促進される。したがって「労働人口は資本の集積がそれより以上には増進しない限り不断に過剰化の傾向をもつ」。とくに「旧社会関係の分解」がイギリスのように徹底しなかった後進国ドイツの場合、株式会社形式による重工業の発展を基礎にした資本の金融資本化は、一方では「過剰人口を農業その他の中小企業に形成し、保育しながら、他方でその吸収を制限する」ことになる。その結果、「一方の過剰人口と他方の過剰生産物」は、「市場の開発」と拡大を媒介にして貨幣市場を基礎とする資本市場に「投機的な好況期」をもたらし、そこに景気の「周期性の攪乱」も生じる。こうして金融資本の独占的利益は「一般的にいえば不断の過剰人口を基礎とする労働力の商品化による」のであった。こういう金融資本の発展はさらに「いわゆる俸給生活者や類似の従属的社会層」を大量に形成し、自由に支配できる資金を「あらゆる社会層から動員することによってその利害関係を証券相場の変動のうちに埋没させる」ことを通じて、資本みずからが「一国の利益を代表する」かのような「幻想」を産出する。宇野によれば、このような“国民”の大衆的動員によってその「経済的力」を直接に「政治的力」に転化するところに、後進国ドイツに代表される金融資本の蓄積様式を典型とする帝国主義の段階的な特質がある、というのである。
要するに、生成期の近代資本主義を代表する商人資本が資本にとっては外部の政治権力(「政治的力」)を利用し、自身の経済的支配(「経済的力」)としてこれを取り込んだとすれば、発展期の典型とされる産業資本の蓄積様式においては、資本は外部の政治権力に依存せず「それ自身の独立した機構」によって「純経済的に」自己再生産を図ろうとし、またそうした〈自立化〉(=自律性)の傾向をもっていた。これに対して帝国主義段階の金融資本は、過剰人口の不断の形成による労働力の商品化と株式市場への大衆動員を通じて、いわば政治支配の国民的システムを構築する。したがって帝国主義段階における資本の蓄積様式はそれ自体、高度の政治的性格を内在させているわけである。その意味で、金融資本の蓄積様式においてはそれが資本として稼働するかぎり、「国民国家」と「国家主義」とはほとんど同義の政治=社会権力としての機能を演じている、ということになる。端的に言えば、帝国主義段階における株式会社形態を媒介にした資本の金融資本化にとって、近代の「国民国家」は「国家主義」イデオロギーを伴ってこれと一体の政治権力として形成された、というのが宇野の見立てであった。
その間の事情について宇野はつぎのように規定している。
それ[金融資本の独占的な利益追求]は旧社会関係の分解を産業資本のように一面的
に促進するという傾向を逆転するばかりでなく、俸給生活者あるいはこれに類似する
従属的社会層を大量的に形成するとともに、金融資本が自己資本と同様に支配しうる
資金をあらゆる社会層から動員することによって、その利害関係を証券相場の変動の
うちに埋没せしめるという点である。それはまたしばしば会社の運営や証券操作によ
る金融資本の暴利に対する非難によってますます隠蔽される。正常な範囲に制限され
れば金融資本は一国の利益を代表しうるものであるかのごとき幻想さえ生じてくる。
かくして重商主義の時代には政治的力が直接経済的力に転化したのに対して、帝国主
義の時代は経済的力をして直接政治的力に転化せしめる社会的基礎を有しているもの
といってよいのである(『経済政策論 改定版』:「金融資本の蓄積様式」、『著作集』第7巻)。
経済政策と資本蓄積との関連について宇野は、金融資本の蓄積様式をめぐって「政治的力」と「経済的力」の相補的関係規定を基軸にしてこれを捉えていることが判る。資本の蓄積様式が労働力商品化の歴史的形態を原理的な条件として成り立つとされる以上、段階論における経済政策と支配的資本との関係規定は、経済政策の「政治的力」と資本の蓄積様式を構成的に駆動させる「経済的力」が、労働力商品化の〈組織化〉をめぐって、たがいにどのような補完と依存の相関的な関係にあるのかという問題に即して論述されるわけである。そこでは、いわば「社会的力(soziale Macht)」(gesellschaftliche Macht)の形成とその体制化が労働力商品化の条件をめぐる基軸の論理となっている、とみてよいだろう。(ただし、この「社会的力」というマルクスの概念を宇野が『経済政策論 上巻』の段階で方法論的な用語として自覚的に使っているわけではない。)
宇野の論点はこのように限定的なものではあるが、近代資本主義社会を分析する方法的な視座を、「政治的力」と「経済的力」の統合と分節が「社会的力」のゲシュタルト編成として生成する様式に定位することも可能かもしれない。そして、この視座に即して言えば、帝国主義段階におけるテクノロジーとポピュリズムを主要な要素とする金融資本の「動員」論は文化的ゲシュタルトの一階梯であると見做すことも、それほど奇異なことではない。ヒトラーが政権を掌握する直前に、E.ユンガーが『労働者 支配と形態』(1932[昭和7]年)でゲシュタルトとしての労働者の「総動員」による「ゲシュタルト革命」を唱えたのも、固定資本の巨大化と科学技術の制度化を背景にしたワイマール期の“政治文化”のひとつの、やや屈折した形象であったといってよいだろう。
次稿では、「経済学批判の立場」と戦時〈転向〉問題について検討する。(続)
2025年8月5日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1356:250804〕