小伝 宇野弘蔵(2)

著者: 大田一廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
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第一章 青春の憂愁――修学時代――

第一節 「テロリストのかなしき心」

ふと記憶の断面がよぎるときがある。ほのかにも甘美な憂愁が一抹の疚しさをともなって回想される〈青春〉の一齣――のちに「経済学の鬼」と綽名されたマルクス経済学者の宇野弘蔵にも、そのような〈青春〉の体験があったのである。

宇野弘蔵は1897(明治30)年11月12日、播州倉敷に生まれている。倉敷は宇野が生を享ける前後から、幕府直轄の天領から紡績業(大原孫三郎が蒸気力と外国綿によって倉敷紡績の操業を始めたのは明治21年)を中心とする近代都市へと徐々に変貌してゆくが、宇野が生まれる三年前には明治国家の政治的形成にとって一つのエポックとなった日清戦争(1894~95年)が起こっている。

宇野と同郷の先輩にあたる社会主義者・山川均は当時の倉敷を回顧して『ある凡人の記録――社会主義者の七十年――』(『山川均自伝』1961年)のなかで述べている。やや長いが「産業革命の余波」をうけつつあった当時の倉敷を伝えているので引用しておきたい。

ところが日清戦争の前後になって、産業革命の余波がこの片田舎にも打ちよせるようになると、こういう状態〔富の実力と社会的地位とのずれ〕にもいちじるしい變化がおこったように思う。この作用が代表的に、ないしは集中的に現われたものが、紡績会社の創立だった。このころから、私の町にも見知らぬ顔が目立ってふえてきた。この工業に直接間接につながりをもって、いままでのような、田地と金貸しを基礎とした資産家とはちがった型の、ちがった経済的基礎の上に立つちがった型の資産家が急速に成長した。コウ屋(染物屋)だとか、カジ屋だとか、銀細工屋(カザリ職)だとか、油屋、ロウソクの製造や砂糖しぼりのような職業がだんだんと姿を消す一方、いままで無かったいろいろの商賣や職業が現われてきた。こういう新しい職業のなかで、いちばん印象に残っているものは、活版印刷だった。小学校三年のころだったか、級友の山本の隣で宇野さんが活版屋をはじめた。初めはミノ版【美濃判?ほぼB4サイズ】くらいのたった一台の手ずり印刷機だったが、この印刷機こそ、開びゃく以来、この町で運転された最初の活版印刷機だった。私たちは、ここで初めて活字というものを見た。宇野さんは活版のほかにも、肥料のホシカ(北海道のニシン屑)を扱っていた。これも土地では新しい商賣だった。私たちはよく宇野さんの店で、印刷機械の操作を見物したり、ホシカの俵からカズノコをほじくりだしてかじったこともある。そのうち宇野さんは紡績会社にも関係し、証券の取引(これもまったく新しい商賣だった)なども始め、まもなく、町でも指折りの新しい型の資産家となった(この宇野さんが宇野弘蔵氏の親父)。

このような日本資本主義の黎明期を担った紡績業を中心として「新しい型の資産家」をも産み出していた“近代”の倉敷に育った弘蔵少年が、青春の憂愁に誘われるのは岡山県立高梁中学校に入学してからである。備中松山城をいただく城下町高梁の中学時代に弘蔵少年にとって決定的な出会いとなったひとりの“落第生”がいた――「忘れえぬ級友」西雅雄(1896-1944)である(岡山県立高梁高等学校『有終』1957年12月)。西はのちにみるように堺利彦を委員長とする第一次共産党(1922[大正11]年)に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくのだが、岡山県勝田町(現美作市)出身の早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を開かれてゆく。修学旅行の帰りの汽車で西から教えられた大杉栄・荒畑寒村が創刊した『近代思想』(1912[大正1]年10月)や石川啄木の詩や短歌(土岐哀果編『啄木遺稿』1913[大正2]年)などに心を奪われる。

宇野が大杉の文章に直接触れたのは岡山の第六高等学校に入ってからで、大杉の評論を収めた『生の闘争』(1914[大正3]年)や『労働運動の哲学』(1915[大正4]年)においてであったが、こういう文学趣味の気分と社会・政治論への昂ぶる関心とが宇野に、「美はただ乱調にある」(「生の拡充」『近代思想』1913[大正2]年5月)という大杉栄に対する漠然たる共感をベースにした〈社会主義的なもの〉に興味をもたせることになったと思われる。みずから回想しているように宇野の思考には、労働者の自然発生的な生のエネルギーに期待を寄せこれに希望を託す「サンジカリズム」がひそやかに根づいていることはたしかだろう。ベルクソンをベースにして“経済的進化”と「生の拡充と創造」を労働者運動の基軸に据えたアナルコ・サンジカリズムは〈社会的個人主義〉を標榜する大杉の基本的な主張であったが、後年宇野は大杉のやや大袈裟な振舞いのスタイルからは一定の距離をとっていたと回顧している。だが、「サンジカリズム」的なものへの共感には、大原孫一郎が率いる倉敷の紡績業を支えた「女工」たちの過酷な労働と寄宿生活の実態(劣悪な労働条件や病人の絶えない健康環境など)を家族から聞かされていた少年宇野の、いわば原型的な記憶がその背景としてあったのかもしれない。

高梁中学時代に宇野にはもうひとりの親友がいた。年長の松田享爾(未詳)という同窓生だ。茅原華山が主宰する社会評論誌『第三帝国』(1913[大正2]年創刊)を定期購読し松田とともに熱心に“政治論”を戦わせたという。宇野にとって〈政治的なもの〉への初発の興味が芽生えたのはこの『第三帝国』の読書体験だった。特待生になるほどの秀才・松田享爾は一高・東京帝大へと進み、やがて内村鑑三門下の黒崎耕吉(1886-1970)を師とする熱心なキリスト者となるのだが、高梁中学以降、宇野との交流はほぼ途絶えている。その松田享爾には自身が編集・刊行した『小出義彦遺稿集 聖國を慕ひて』(1920[大正9]年)という小冊子がある。同郷の小出義彦は享爾の兄・壽比古の友人で、同じ黒崎耕吉門のキリスト者であった。『遺稿集』の巻頭には内村鑑三が小出の早すぎた死を悼んで「美はしき死」を寄せ、松田自身に宛てた小出を偲ぶ内村の書簡も収録されている。後年のことになるが、ドイツ留学(1922[大正11]年9月)に向けて神戸港から乗った船で宇野はぐうぜん黒崎(当時、住友の社員)に出逢ったという。義父の高野岩三郎の東大時代の教え子として紹介された黒崎から“今、神戸港で松田君に見送って貰ったところだ”と聞かされて、宇野は“絶句”したという、“会えなくて惜しいことをした”と……。

1915(大正4)年に岡山の第六高等学校に入学するが、宇野は一部丙独法(外国語がドイツ語クラス)を選択している。一方『早稲田文学』の購読者であった西雅雄の方は、文学普及会の縁で早稲田へ来ないかという相馬御風の誘いを断り、高梁中学を卒業後すぐに兄のいた朝鮮に渡り、江原道の春川の役所に一年余り勤めているが、その間に“文学同好会”などを通じて大杉栄の一派と知り合ってその影響を受けたらしい。“内地”の岡山と“外地”の春川とを行き交った宇野と西の葉書による「読書の通信」は、西雅雄の文学青年から社会主義への「方向転換」(山川均)を示すとともに、宇野の社会主義熱をも徐々に増幅させた。このとき交わされた「幾百枚」にものぼる西の葉書は失われて現存しない(戦中の「治安維持法」の統制下、“拘束の危険”を感じて関西在住の友人に預託したが、戦災で焼失したという)。

兵役に服する前の数ヶ月、岡山に帰ってきた西が宇野の近くに下宿してから、ふたりは「社会主義乃至無政府主義の文書」を探し出しては熱心に議論した。堺利彦や大杉栄のものならどんなものでも読み漁ったが、その中で雑誌『新社会』が社会主義への手引きとなった。『新社会』は堺が1915(大正4)年に創刊した雑誌で、そこに高畠素之訳のK.カウツキー『資本論解説』が連載されていた(第3巻第6号、1917[大正6]年~第5巻第7号、1919[大正8]年。単行書は1919年刊)。宇野はマルクスという「偉大な名前」に出会い、『資本論』をなんとかして知りたいという欲求を抑えきれなかった。このときの異貌の世界への清新な憧憬と厳粛な畏怖とがその後の宇野弘蔵の思考を促迫することになったとみてよいだろう。そのころ、「無名氏」」の筆名で山川均が中央論壇にデビューし、雑誌『中外』に吉野作造・大山郁夫らの民主主義論を批判していた。山川の鋭利な論評に瞠った宇野は、「無名氏」が同郷の先輩であることはこの時点では知らない。

高梁中学時代に宇野が購読した『第三帝国』の茅原華山が論じていた「民本主義」論と吉野作造の「民主主義」論とがおなじ“民本主義”(という言葉)を標榜しながらも天皇制の存続を巡って対立するものだったことを、宇野がこの時点で自覚的に弁別していたかどうかは分らない。後年宇野は茅原の政治論を“書生的国家”論だとしているが、その「愛国的な論説」から離れるのと並行して〈社会主義的なもの〉へと関心が移ったようである(宇野「私と文学」『文学』1954年1月。茅原建『茅原華山と同時代人』1985年)。

高等学校での宇野の読書はさらに幅を拡げ、西田幾多郎(「自覚における直観と反省」)、新カント派のH.リッケルト(山内得立訳『認識の哲学』)、現象学(〈文化の経済哲学〉)の左右田喜一郎、社会学(「サンディカリズム」論)の米田庄太郎、『キエルケゴール』の和辻哲郎など多方面におよんでいる。とくに〈明治天皇暗殺計画〉なる大逆罪のフレーム・アップによって多くの“社会主義者・不穏分子”が拘束され(1910[明治43]年)、翌年、幸徳秋水・菅野スガら12名が極刑に処せられた大逆事件(1911[明治44]年)(堺利彦、大杉栄、山川均は収監中のゆえに連座を免れたといわれる)の衝撃の後に、高梁中学時代に西雅雄から聞いていた土岐哀果編『啄木遺稿』(1913[大正2]年)を手にした宇野は「非常に感銘を受けた」と感慨をもって語っている。『遺稿』の傑作といっていい「呼子と口笛」から「ココアのひと匙」の第二連を読んでみよう――

はてしなき議論の後の

冷めたるココアのひと匙を啜(すす)りて、

そのうすにがき舌觸(したざわ)りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を

――「ココアのひと匙」(土岐哀果編『啄木遺稿』東雲堂、1913年)

テロルへの屈折した明晰な思考と細やかな情調の美学は政治的・社会的な問題をめぐる啄木の表現の到達点と言ってよいものだが、おそらく宇野も、若き才能たちを捉えた「ココアのひと匙」一連の「テロリストのかなしき心」に「果てしなき議論のあと」の無垢なる青春の魂を動かされたのかもしれない。このとき、V NAROD!と叫ぶテロリストの苦悩が「ことばとおこなひとを分かちがたきただひとつの心」・「奪はれたる言葉のかはりにおこなひもて語らんとする心」(第一連)として宇野の内奥に深く浸潤し“棘”のごとくに突き刺さったにちがいない。さらに『遺稿』ではじめて公表された「時代閉塞の現状」(1910[明治43]年8月執筆)を宇野がどのように読んだのか――、大逆事件の評価を含め本当のところは分らない。だが、これは推測なのだが、宇野が好んだ徳田秋聲を問わないとして、自然主義と懐古趣味を捨て「現代社会組織の欠陥」を撃つ「我々自身の時代に対する組織的考察」に賭ける啄木の思考を、宇野は共感をもって迎えたにちがいない。

注目すべきことに宇野は萩原朔太郎にいちはやく反応し『月に吠える』(1917[大正6]年)は、その「異様な幻想」がなんの無理も感じさせないほど「僕らの憂鬱」そのものだったと、表紙を飾った田中恭吉の版画(「夜の花」)の魅力とともにしみじみ述懐している。その際、“社会主義でも詩はのこる。朔太郎は生きている。ドストエフスキーは遺らないかもしれない”――という意味のことを漏らしているが、「詩の不思議な面白さ」を教えてくれ「本物の詩」の世界を表現する朔太郎は若き宇野の魂を捉えて離さなかったのである。『月に吠える』を終生手許においていた宇野は、のちに『萩原朔太郎全集』揃えるほど朔太郎への関心を持続させている。(続)(2023年7月30日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1271:230731〕