小伝 宇野弘蔵(3)

著者: 大田一廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
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第一章 青春の憂愁――修学時代――

 

第二節 『資本論』事始め――思想と学問と――

社会主義的な思想と『資本論』への関心を深めつつあった宇野は、1918(大正7)年に東京帝国大学法科大学独法科に入学する。ちょうどこの年、宇野のような高等学校の独法出身者でも経済学科に入ることができるようになったから、当初の希望にしたがって宇野はただちに法科から転科した。経済学科に転じた以上は「『資本論』が読めるようになりたいという希望」が叶えられるはずであった。

経済学科は宇野が入学した翌年の1919(大正8)年に、高野岩三郎の尽力によって経済学部として独立したのだが、高野自身は、ヴェルサイユ条約(1919年)で創設されたILOの国際労働会議への派遣問題が紛糾し、その代表を辞退するとともに東京帝大教授も辞職していた。当時の経済学科(経済学部)には、森戸辰男、大内兵衛、櫛田民蔵、権田保之助、細川嘉六らがいた。森戸や大内はともに高野の門下であり、同志社大学を辞めた櫛田や高野のもとで月島(東京)の実態調査にあたった権田も “高野派”の同人であった(櫛田と権田は東京外国語学校での高野の「経済原論」の授業で知り合った友人)。宇野がその陣容を、あたかも「一種の新思想の集団」というべきものであったと後年に漏らしているのも、「新思想」の可能性に期待を寄せていたからであろう。だが、卒業を控えて経済学部の助手をめぐる進路の選択に“逡巡”する宇野を、倉敷紡績の大原孫三郎が設立した大原社会問題研究所(1919年創立、大阪)に誘ったのはドイツ語経済書講読を通じて知っていた権田だったらしい。

そのような環境のなかで大学では、山崎覚次郎の貨幣・金融論演習に参加した宇野は19世紀イギリスの「ピール条例」(「通貨学派と銀行学派」)に取り組んだ。山崎自身のノミナリスティックな貨幣観をまえに宇野がどのように反応したのか分らないが、演習での成果は乏しいものだったという。ピール銀行条例の論点である銀行券発行制限問題はそれ以後も、宇野にとって理論的な「難問」として遺ることになった。のちに宇野はピール銀行条例について、中央銀行の通貨管理(“資金配分”)を社会主義イデオロギー(“中央計画指令”)から類推するサン・シモニアン流の制度の考え方、つまり銀行制度の政治的管理による資金の社会的配分という“技術主義的”構想は銀行制度への社会主義イデオロギーの過剰適用であったと語り、この銀行制度は原理的には貨幣の存立とその構造にかかわるものとされた。当時、社会主義の思想的立場と学問的思考とをどのように“調停”するかに腐心していた宇野にとって、この貨幣・金融をめぐる演習は正負の貴重な経験となったにちがいない。

そういう宇野にとっても『資本論』そのものの研究は、所期の意向に反してほぼ無縁のままであった。宇野が『資本論』のテクストに直接に触れその摂取に努めて格闘するのは、第二章でみるように、大学の卒業後に勤務した大原社会問題研究所(東京支所)に在職のまま私費で留学したベルリンにおいてであって、在学中に熱心に接したのはその当時相次いで現われた河上肇の個人雑誌『社会問題研究』(1919年)、山川均の『社会主義研究』(1919年、堺利彦らと発刊。翌年から山川の“実質的な”個人雑誌)、高畠素之訳のK.カウツキー『資本論解説』(『新社会』前掲に連載、単行書1919年刊。原題「カール・マルクスの経済学説」)などであった。河上の『社会問題研究』は創刊号から欠かさずに読み、カウツキーによる『資本論』第一巻を主とする解説は繰り返し読んでいる。そしてカウツキー『資本論解説』(高畠訳)との出会いが、とにもかくにも『資本論』という書物の世界に触れたはじめての経験となった。だが、カウツキー版Das Kapitalドイツ語原書(民衆版)を卒業の間際になってようやく入手したのだが、それを読む機会はなかったという。(なお、このころ、高畠素之訳『資本論』第一巻、第一分冊【第一巻第一篇~三篇】、大燈閣、1920年が出版されている)。

カウツキーの『資本論解説』は訳者の高畠が伝えるところでは、多くの読者に迎えられ初版(1919年)から改訳版(1927年)を通じておよそ二万部が発行されたという。『資本論解説』の執筆にはいわゆる「修正主義」論争の当事者たるE.ベルンシュタインもかなりの程度かかわっていて「大工業」論は彼が書いたものらしいが、この時点では両者は一応、盟友関係にあった(初版「序文」1886年)。カウツキーの見立てでは、『資本論』は「本質的に歴史的著作」であって「理論的論述の歴史的特質」にこそマルクスの独自性があるとされるが、この観点はたとえばマルクスの「価値形態」論の「方程式」を商品生産の歴史的発展の諸形態に対応する「史的形態」と見做す解釈に現われている。『資本論』の「価値形態」をめぐる「理論的論述」は商品生産の発展過程に見合う交換価値の歴史的諸形態を追認したものだというわけである。この解釈が妥当かどうかは『資本論』理解の基本的な、とりわけ貨幣をどのように説くかという課題として宇野の記憶に深く刻まれたことだろう。

さらに宇野が熱心に読んだという『社会問題研究』創刊号の「序」で河上は、前年に出版した『貧乏物語』――宇野はこれを読んでいない――を承けて、さらに「未だ知らざる経」に踏み込む決意を表明し「社会問題」について次のように規定している――

抑々社会問題とは何であるか。簡単に云へば、社会の大多数の人が貧乏して居る。

其を如何にして救治するを得るかと云ふこと、それが即ち今日謂ふ所の社会問題である。

このように定義された「社会問題の根本的解決」を河上は、「社会全体の利益」を達成する「社会主義的経済組織」に担保させるとともに、その“社会的基準”を最終的には「人間の道徳的完成」に求めていた。そして「社会主義的経済組織」の可能性と必然性を証明する「一の纏まった別個独立の学問」が「社会主義の科学」であるとされた。『社会問題研究』の連載論攷「マルクスの社会主義の理論的体系」は挙げて、「資本主義の経済組織」がやがて「新しい経済組織」へと転変するその歴史的構造を「唯物史観又は経済史観」によって論じたものだが、この「新しい経済組織」では生命的身体の維持・健康と個々人の道徳的完成とがともに達成されるはずだというのである。おそらく宇野は「社会主義の科学」とその歴史的性格をめぐる河上の主張、「別個独立の学問」の可能性とその条件はなにかを課題として受け止めたと思われる。

経済学科の同期には同じく法科から転科した向坂逸郎がいた。向坂はのちに雑誌『労農』(1927[昭和2]年創刊)に拠って、いわゆる日本資本主義論争においては日本共産党系の“講座派”に対して“労農派”の論客として論陣を張り、戦後も「社会主義協会」の理論的指導者として、また『資本論』(エンゲルス編、岩波文庫)全巻の翻訳者として知られるが、宇野は当時から彼との個人的な関係をほぼ継続的に維持していた。後にみるように日本資本主義論争について、向坂とは異なっていわば局外からそれを冷静に見守っていた宇野は、論争そのものの〈場〉とその理論的前提を問い、そのうえで日本資本主義の構造分析における『資本論』の適用とその限界を改めて論究することになるのだが、この課題に本格的に取り組むのはベルリンに留学して以降のことである。因みに向坂は、「社会主義への意志」に自分を向かわせた背景のひとつに、丘浅次郎の『進化論講話』(1904年)の読書があったと語っているが、向坂が強調するダーウイン=丘流の“社会進化”の「自然史的基礎」、あるいは〈進化と自然〉をめぐる問題は、宇野においては経済学における「唯物史観」の〈適用問題〉と絡んでいたはずである。

ところで、宇野の在学中に発足直後の経済学部で、いわば国家意思による思想の検閲と

告発による“筆禍事件”が起こっている。いわゆる森戸事件(1919.12月~20年1月)である。経済学の〈国家学〉からの自立を標榜して発刊された経済学部の学術雑誌『経済学研究』創刊号(1919年12月)に載った森戸辰男の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、「無政府共産」の思想なる廉で当局の忌諱にふれ槍玉にあがったのだ(回収・発禁処分とされた創刊号には櫛田民蔵が訳出したマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の一節「社会主義及び共産主義文書」も掲載されていた)。「新思想の集団」が眼の敵にされたわけであるが、当時の東京帝大内部の学内事情がどうであれ、早くからクロポトキンの社会思想に触れていた宇野がこの事件に身辺穏やかならぬ「ショック」を受けたことは確かなようである。森戸事件は、実践志向をもつ向坂逸郎が積極的に森戸擁護に動いたのにたいして、宇野においては少なくとも心理的には、自身の思想的立場を“整理”するひとつの契機、端的に言えば、学問的思考への傾斜と実践的思想の条件の限定につながったのではないかと推測される。実際、この“筆禍事件”によって森戸辰男と『経済学研究』編輯人の大内兵衛は休職を余儀なくされ、最終的には「朝憲紊乱」の罪で処罰されたのである。

一方、兵役を了えた西雅雄が養家を脱走して東京にきてから、ふたたび宇野と西との交流がはじまった。この間、松田享爾を加えた三人で東中野あたりの郊外にでかけ高梁中学時代からの旧交を温めたこともあった。そのころ、宇野も西も松田もそれぞれ自己の生涯を賭けるに相応しい進路の選択と覚悟に心を砕いていたにちがいない。松田は黒崎耕吉門のキリスト者として若き生を全うし、山川均門下の俊秀として政治活動と理論研究を始めた西はいわゆる山川イズムから福本イズムを介してやがて講座派の陣営に与することになるが、宇野はそういう西との交流を維持しながら、自身がよって立つべき社会主義への “共感の根拠”を求めて、〈社会科学〉の〈自立性〉を支える学問的条件と実践的世界におけるイデオロギーの〈機能〉をめぐって繰り返し反芻していたのではないか思われる。

やがて西雅雄の方は印刷会社・秀映舎(のちの大日本印刷)の印刷工になるのだが、宇野は西とふたりで、堺利彦、大杉栄の「北風会」、山川均の「水曜会」を訪ね社会主義者のグループを知る。西と訪問した堺の家では、朝鮮の独立と社会主義運動とをどちらを優先させるべきかという深刻な問いを朝鮮人の活動家から発せられたことを、傍にいた堺は黙ったまま結論を下さなかったらしいが、宇野は感慨をもって語っている。そのうち西は堺の紹介で山川の雑誌『社会主義研究』、『前衛』(1922[大正11]年創刊)の編集を手伝うようになるが、同じこの年、堺利彦を委員長とする第一次日本共産党(1922年)が結成され、山川の「水曜会」も西も参加している。宇野は西のような党派の政治活動にも、吉野作造を“後見役”として東京帝大の宮崎龍介や赤松克麿らによって創設された「新人会」(1918[大正7]年)の“社会伝導”的な運動にも「同調」できなかったという。当初の目的であった『資本論』を学びたいという願望は充たされぬまま、宇野は1921(大正10)年に大学を卒業し大原社会問題研究所に嘱託(助手)として勤務する。このときの研究所長は東京帝大を辞していた高野岩三郎(のちに宇野夫人となるマリアの父)であった。

大原社会問題研究所での仕事といえば、権田保之助が組織する浅草の大衆娯楽(歓楽、興業、風俗などの“生態”)の実態調査や、高野から与えられたフェビアニズムの理念に基づくシドニー・ウエッブ/ビアトリス・ウエッブ『産業民主制論』(高野岩三郎簒訳、1927[昭和2]年)の翻訳などであった。宇野は、民衆文化の実態分析が社会認識にとって一定の有効性をもつことをまったく認めていなかったわけではないし、サンディカリズムにも共感と期待を抱いていたのではあったが、結局、『資本論』を読破したいという願望は叶うべくもなかった。こうして翌年(1922年)の秋、『資本論』を読むために宇野はマルクスの母国ドイツ(ベルリン)への留学を決意したのである。

だが、「ワイマール」期(1919-1933年)のドイツは第一次大戦以後、ハイパー・インフレーションの凄まじい浸潤による市民生活の破局的な混乱、ドイツ革命の貶質と敗北、マルクス主義の理論的混迷、表現主義やダダイズムの破壊的な芸術運動など、敗戦による戦後処理とその後の政治過程、社会秩序、そして文化形成をめぐってラディカルな狂躁と騒乱の渦中にあった。(続) (2023年9月5日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1275:230906〕