小伝 宇野弘蔵(7)-Ⅱ

著者: 大田一廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
タグ: ,

 第三章 日本資本主義の〈特殊性〉と経済学体系の模索

(3)資本主義の「特殊形態」と段階/原理視角の生成

[Ⅱ]日本資本主義の性格規定――「後発」と「散種」――

  • 日本資本主義の性格規定をめぐる「講座派」と「労農派」の論争もまた、〈日本の青春性〉(萩原朔太郎)をめぐる問題圏と無縁であったわけではない。というよりもむしろ、それは明治国家の構想以来、連綿として模索されてきた「近代」あるいは「近代化」をめぐる〈青春性〉のひとつの、しかしやや不幸な“決算”という性格をもっていたと言うべきかもしれない。宇野弘蔵が第二次世界大戦の終結(「大東亜戦争」/「太平洋戦争」の敗北)以後に日本資本主義論争について、経済学が負うべき社会科学の課題を果たそうとして果たしえなかった「歴史的産物」(「日本資本主義論争とは何か」1950[昭和35]年)であったと総括したのはおそらく、そうした日本資本主義の歴史的性格と経済学の学としての可能性と限界をめぐる社会的・政治的文脈を意識しての発言であったにちがいない。そこには、「宇野三段階論」と称される経済学体系の構想へといたる渾身の思索を顧みて拘泥たる反省と秘やかな自負も、介在していたことだろう。

宇野が自らに問うた社会科学の課題とは何であり、それに応ずる経済学の果たすべき「学問的任務」とは何であったか――それは端的にいえば、〈歴史過程としての近代資本主義とは何か〉という、それ自体としては直截的にすぎる設問ではあるが、問いとしては根源的な主題につらなるものであった。すでに繰り返し指摘してきたように、この端的な問いは、宇野にとっては年来の課題である〈社会科学による社会主義の基礎づけ〉あるいは〈経済学にとって唯物史観とは何か〉の実質的な展開をめぐる主題であった。1935(昭和10)年前後に、わが国をその一部としてふくむ近代資本主義世界の歴史的現在を把握するにあたって宇野が構想した段階/原理という方法的視角は、そうした社会科学の任務に相応しい経済学の条件にかんする学問的方法としての意義をもっていたのである。

後に体系的な装いをみせる宇野の所論に即して言えば、社会科学としての経済学の課題は、近代資本主義世界の歴史構造を、「原理」(資本主義“一般”の「経済機構」の「原理」をなす経済法則)・「段階」(発生・発展・消滅の経過をたどる資本主義の世界的な展開の諸過程に支配的な、政策形成の政治過程に相対する資本蓄積の典型)・「現状」(各国資本主義社会の歴史的現在とその総体的状況の分析)の「三段階」に方法論的に分節化し、この分節化された三段階に対応する恐慌・戦争・革命の諸条件とその諸形態を把握することーーこのように方法論的に分節化された三段階の論理構制を通して〈資本主義の歴史構造と社会主義の可能性の条件〉を方法的に基礎づけ、それを宇野の謂う「論証」の理路にしたがって系統的に叙述することにある、というのであった。

しかし、そのような「宇野理論」の体系期に整序されるいわゆる三段階論の構想を可能にするような方法論的視野はいかにして育まれたのだろうか――。すでにヒルファディングやレーニンが指摘していたように帝国主義的段階にある近代資本主義の世界的展開と、これに応じた日本資本主義の性格規定をめぐる論争は社会構造の政治的変革を志向する〈革命の戦略的綱領〉の形成と密着して展開されたのであるが、このような論争の動向に対して宇野は、社会構造の政治的変革という政治課題と学問的秩序の方法論的な在り方についていかに対質するかを迫られたはずである。そして、宇野が選択したのは、日本資本主義論争が前提とする〈場の特殊性〉について問いこれを分析しうる経済学の条件をめぐって、彼がたびたび口にしている〈政策を原理から分離する〉というものであった。

後段で見るように、宇野はこの〈政策を原理から分離する〉(あるいは端的に〈段階と原理を区別する〉)という方法的な観点に即しつつ、帝国主義段階に固有の資本形態たる金融資本はその蓄積を、関税政策や銀行制度に関する“統制型”ともいうべき政策形成に象徴される内外にわたる諸種の政策の政治的形成を媒介にして実現することを指摘し、したがってこの金融資本という資本形態には本質的に高度の政治的性格が内在することを強調する一方、その反転として政策形成の政治過程から相対的に自立した資本蓄積の一般的形態を想定し、これを“原理化”するという方向を採ることになったのである。

1930年前後の歴史的世界における日本資本主義の〈特殊性〉がその〈特殊性〉に関して社会秩序の歴史構造とどのような関連にあるのか――。これは、〈近代〉(あるいは〈近代化〉)の形成をめぐる資本蓄積の諸条件と「国制」(nation-constitution)の課題にいかに向き合うかに係わる主題であったから、その論究にあたっては多方面にわたる論判とこれを可能にする視座を必要としたはずである。宇野弘蔵はそのなかで、社会科学的思考の条件とは何であり、これに応じた経済学の可能性と限界とはどのようなものか、という論点に自分の課題を設定したのであった。それが、「政策を原理から分離する」という宇野弘蔵の判断であり、方法的な選択であった……。

だが、近衛文麿体制による「国家総動員法」(1938[昭和13]年)のもとに展開された〈昭和国家〉の「科学技術」の開発・導入とセットにして形成された「産業合理化」をめぐる産業政策にせよ、ドイツ歴史学派の政策論に淵源する国家学に類比的な社会政策[学]やワイマール期のSPDに典型的な、「社会化」に関する政策形成を要素とする「組織された資本主義」論にせよ、あるいは当面の問題たる講座派や労農派に連なる政治党派の革命綱領にせよ、それらの政策形成や綱領設定には当然のことながら、その基礎づけとなる何らかの理論的根拠が施されていたはずである。しかも、そのことが近代資本主義の歴史的展開に制約された社会的規範やイデオロギーと無関係にそれ自体として定立可能である、とただちに断定することも難しい。そうであれば、宇野が設定する〈政策を原理から分離する〉(あるいは〈段階と原理の区別〉)という着想(これは事実上、『資本論』から “歴史記述的な”要素、のちの宇野の表現で言い換えれば「歴史的挟雑物」を排除するという操作につながるのであるが)、いわば方法上の断案なるものは、これを権利づけ正当化しうる然るべき認識図式が立てられねばならないだろう。一方で、〈原理〉から排除された〈政策形成的なもの〉は資本主義の歴史的展開における資本蓄積の諸形態とどのような関係にあって、そこで何が主題となりうるのか、他方、そうした政策論の政治的次元から分離された原理なるものは、いかにして資本蓄積の“一般原理”として措定されうるか、言い換えれば、仮にもし原理の“原理化”ないし“純化”という操作によって資本蓄積の“一般原理”を原理として把握可能になるというのであれば、その根拠と機制は何か――これら政策[論]と原理[論]に関する方法論的操作は、近代資本主義が一定の体制として存立しうる〈歴史的世界の社会的構造〉を把握しそれを記述するにあたって妥当なものであるかどうか……。これが改めて問われねばならないだろう。

そのような問題が相互に関連する具体的な論点として検討されたのは、1935(昭和10)年前後に集中して執筆された諸論攷においてであった。すでに指摘したものもあるが、とくに注目すべき論攷を挙げれば、「フリードリッヒ・リストの『国民経済学』――『経済学の国民的体系』――」(『東北帝国大学法文学部十周年記念経済論集』1934年9月)、「資本制社会に於ける恐慌の必然性」(『改造』1935年2月)、「資本主義の成立と農村分解の過程」(『中央公論』1935年11月)、そして『経済政策論 上巻』(岩波書店、1936年5月)である。『経済政策論 上巻』は次項で主題的に考察するが、近代資本主義の歴史的展開とその段階的な推移の構造を、支配的な資本形態と政策形成の相互制約関係を基軸に形態論的な典型として捉えようとしたもので、段階/原理の方法的視角がほぼ一定の方向性を見せた論攷であった(この間に、「社会党の関税論」[1936年6月]や東北帝大で行われた1936年度「経済原論」講義などが介在している。ドイツの保護関税論に関する諸論攷、〈第一次経済原論〉あるいは〈祖型 経済原論〉というべき「講義プリント 経済原論」については後に触れる)。

ここで、これら上記の論攷についてかいつまんで言えば、次のようになるだろう。すでに触れた「恐慌の必然性」を資本の過剰と相対的過剰人口の調整関係を基軸として論じる恐慌論の構制が、生産力と生産関係の制約関係という構図に類比されるかぎりで「唯物史観の縮図」としての意義をもつとしたこと、ドイツ歴史学派につらなるF.リストの所説、とりわけ後発資本主義国における「国民的生産力」概念の批判的検討、帝国主義段階における金融資本の蓄積形態と政策論の相互関係に関する考察――これらに並行してあるいは往反的に、論文「資本主義の成立と農村分解の過程」において宇野は、先進資本主義国のもつ圧倒的な「生産力」の側圧を受けた日本資本主義に固有の資本蓄積の特殊性を、「資本家的生産方法」(科学技術と産業技術)の移植(導入形態)とその「散種(dissémination)」(受容形態)、農村分解の不徹底と労働人口の流動化、労働力の「動員」とこれを組織する「国民国家」による統治システムの構築などに即して指摘したのであった。そして、これらいずれの論攷もそこで主題とされた論点は、資本の蓄積と〈労働力商品化〉の歴史的条件、とりわけ資本による統治の技術をめぐる〈段階[論]的差異〉とその諸形態はどのような構造にあるのか、に関するものであったと言ってよい。とくに論文「資本主義の成立と農村分解の過程」は後段で立ち入って考察するように、日本資本主義の後発性をめぐって、段階/原理への方法的な配慮が如実に胚胎する重要な論攷となったものである。「学問的任務」に心を砕く宇野はこうした思索過程を通じて、段階/原理視角を構想し、この方法の有効性に経済学の可能性(および限界)を託したのではないかと考えられる。

だが、そもそも〈歴史的世界〉における政策形成の諸過程を排除された、いわば透明な〈生の原理〉なるものはいかにして可能になるのだろうか、仮にもし原理を“原理そのもの”として把握することが可能なら、それはいかなる根拠と理路によるのであろうか――。自ら負った社会科学の「学問的任務」を遂行するにあたって宇野は、たとえば〈観察・枚挙・論証〉を学の条件とみなすある種の近代科学の常套的な流儀、あるいは若き日に熟読したH.リッケルトの〈価値の認識〉理論(『認識の対象』)やW.ヴィンデルバントの科学論(法則の定立と個性の記述)、さらにオーストリア・マルクス派のM.アードラーの「社会的-ア・プリオリ」論などもふくめて、当時一般に論じられていた新カント派の思考にどのように対峙し、いかなる関係に立つことになったのか、さらにそのことが、「経済学批判」(あるいは「経済批判」)を体系の基礎的モティーフとする『資本論』の学問的方法、「唯物史観」のイデオロギー論といかなる関係にあるというのだろうか――。これらの論点、すなわち方法としての段階の設定と原理の純化、〈形態〉と体制化の論理、イデオロギーと近代科学の方法、そして『資本論』の“批判的継承”と「唯物史観」の「論証」は、生涯にわたる宇野弘蔵の理論的課題となってゆくのである。

さて、その一部についてすでに触れたように、1935(昭和10)年前後のイデオロギー的な状況は厳しい対立と相剋に揺れていた。とりわけ政治過程においては、党派の権力主義が憎悪を生み、政治的言説の空語が跳梁するといった喧噪の坩堝にあった。政治革命の戦略と日本資本主義の性格規定をめぐって、コミンテルンが相次いで打ち出した「日本問題に関する決議(二七年テーゼ)」(1927[昭和2]年7月、いわゆる二段階革命論)、「日本共産党政治テーゼ草案(1931[昭和6]年4月)」(いわゆるプロレタリア革命論)、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(「三二年テーゼ」1932[昭和7]年5月)」(「社会主義革命への強行的[促成的]転化の傾向」をもつブルジョワ民主主義革命論)にそのまま無条件に追随するというように、左翼戦線には頽落する政治と卑猥な言説が跋扈していた。そうした政治の喧噪と公認イデオロギーの席捲のさなかに、「講座派」という通称の由来になった『日本資本主義発達史講座』が、1928年のいわゆる「三・一五事件」以後、壊滅的な解体状態に陥った日本共産党の理論戦線の強化を狙って野呂栄太郞を中心に組織されたのである。

この『日本資本主義発達史講座』は1931(昭和6)年の春頃から準備されたようだが、その「趣意書」が野呂栄太郞によって書かれたのは、「三二年テーゼ」が公表された直後の1932(昭和7)年6月のことであった。この「趣意書」で野呂は、「三二年テーゼ」に呼応しつつ、「資本主義の一般的危機」と「恐慌の破局的深刻化」によって「国際的対立の脅威的緊張」と「階級的対立闘争が不可両立的に激化」し、いまや「日本資本主義の危機からの革命的活路」に就くべきことを呼びかけていた。いわゆる講座派はそうした『日本資本主義発達史講座』(全七巻、岩波書店、1932[昭和7]年―1933[昭和8]年)に寄稿した一群の研究者や理論家さらには活動家などコミンテルン=日本共産党とその周辺に形成された理論集団である。主要には野呂のほかに、山田盛太郎、平野義太郎、服部之総、羽仁五郎、大塚金之助らが講座派を形成していた。

先にも指摘したことだが、宇野弘蔵にとって「忘れ得ぬ」旧友の西雅雄も、『日本資本主義発達史講座』第六巻「第三部 帝国主義日本の現状」に未完ではあるが「最近における階級諸運動」(岩波書店、1933[昭和8]年6月)を書いていた。そのなかで西は、「合法団体」による大衆的政治運動への「方向転換」を唱えた山川均の「アナルコ・サンディカリズム」を解党論の「精算主義」として批判するとともに、「組合主義的闘争から社会主義的闘争への転換」を主張した福本和夫も、「山川主義の哲学的批判」にとどまり「精算主義」を“精算”していないと批判し、講座派の立場に拠ることを自覚的に表明していた。無論、宇野は西のこのような言説と政治活動を一応のところは承知していたにちがいない。革命運動の実践活動に専念する旧友の西に対して、その「社会主義」をめざすという政治活動一般のあり方を基本的には首肯しながらも、自身は「理論的実践」に限定した社会的活動に研究者として参与するーーおそらく宇野は、このような心情を深く潜ませながら「自己限定」を施し、社会科学的思考の条件について思索を重ねていたのではないか……。

そうした西雅雄が恩師の山川均から離反する契機ともなった福本和夫(Kurohki)の〈分離の後に結合する〉という前衛形成の政治組織論が、ブハーリンの「原案」(実質上の執筆)になる「二七年テーゼ」によって「レーニン主義の漫画」と批判されるや、にわかにその理論的な影響力を失ったいわゆる福本イズム(北浦千太郎の命名とされたことがある。『社会科学』1927[昭和2]年8月)に替わって、共産党の指導理論として形成されたのが講座派理論である。とりわけ山田盛太郎『日本資本主義分析―日本資本主義における再生産過程把握―』(1934[昭和9]年2月)と平野義太郎『日本資本主義の機構―史的過程よりの究明―』(1934[昭和9]年4月)がほとんど専一的に、この時期の日本資本主義論の思考を領導していたのである。山田の『分析』と平野の『機構』はそれぞれの「序文」が語るように、『日本資本主義発達史講座』に発表された「講座派」の「見解」の集大成として位置づけられていたからである。

一方、「労農派」は、「戦闘的マルキスト理論雑誌」を掲げる『労農』(1927[昭和2]年12月創刊)に拠った“合法的な非共産党系マルクス主義”のグループである。『労農』創刊号には山川均「政治的統一戦線へ!ーー無産政党合同論の根拠」、新島一作[猪俣津南雄]「日本資本主義の現勢(日本無産階級運動に関するテーゼ〔一〕)」、猪俣津南雄「日本無産運動の一般戦略」などが掲載されている(但し、猪俣は後に山川と岐かれるが)。山川はそこで「わが国資本主義の現在の段階」を「独占的金融資本の時代」と規定し、「政治闘争の対象は帝国主義ブルジョワジーの政治権力である」と宣言する。そして、プロレタリアートと農民(「貧農」・下層農民)を主体とする「政治闘争」を目指し、「宗派的分裂主義」を排して大衆的な「政治的統一戦線」を形成するというのであった。雑誌『労農』は当初の意図としては、「宗派的分裂主義」と断定する福本イズムの批判を課題として発刊されたものであったようだが、山川のこの「政治的統一戦線へ!」はことの成り行きとして、山川自身(Hosshi)も批判されたコミンテルンの「二七年テーゼ」に対する対抗テーゼとしての政治的意義を実質的にはもっていたと言えるだろう。

講座派は、明治6年の地租改正以降、とりわけ明治30年代に成立をみたとされる「産業資本主義確立期」とそれに続く日本資本主義の展開を基本的には、半封建的土地所有制と地主―小作関係(半農奴制的関係)に基づく「封建地代」を「基柢」とし、「軍事機構=鍵鑰(キイ)産業」(「純粋軍事警察的輸送通伝機構」・「造兵製艦隊機構」・「近代的大工業」など)と零細な生産諸形態をもつ紡績業を「基軸」とする「軍事的半農奴制的型制」(山田盛太郎)と捉えることによって、国家権力の性格を〈天皇制絶対主義〉と規定する。そして当面の革命戦略を「三二年テーゼ」にしたがって「社会主義革命への強行的[促成的]転化の傾向を持つブルジョワ民主主義革命」と設定して、「軍事的半農奴制的日本資本主義」の解体すなわち天皇制の打倒を目標としたのであった。

山田盛太郎によれば、英独に比べ「世界史的低位」にある「印度以下的労働賃金」を典型とする「顚倒的な日本資本主義」はそのようなものとして「軍事的半農奴制的型制」なのであって、しかもこの「型制」が日本資本主義の再生産構造の「型」を規定するというのであるから、山田=講座派の日本資本主義論は「純粋日本型」の分析ということになる。そこに前提されている方法は、「産業資本確立期」に成立した日本資本主義の「型制」がそのまま「帝国主義転化期」(「軍事的半農奴制的金融資本」)に持ち込まれるという図式であった。そうして、この「基柢―基軸―型制」に基づく範疇―段階図式によるかぎり、いったん再生産構造を規定する「型」が確定し、それに対応した土地所有制と国家権力機構が成立すれば、「型」そのものは持続することになるだろう。「純粋日本型」資本主義論は方法的には、一国資本主義分析の埒を越える枠組みをもっていないのである。

これに対して、『労農』に拠った労農派はむしろ単純である。労農派の論陣を張った向坂逸郎によれば、「資本主義の発展は、凡ゆる国において同一の型を経るものではなく、各国はそれぞれの特殊性をもつ。しかし、かかる特殊性は常に、資本主義の発展とともに一般性の下に消滅する傾向、あるいはこれに適応する傾向を示すものである」(「『日本資本主義分析』における方法論」『改造』1935[昭和10]年10月)という主張に尽きていた。この向坂逸郎の規定にしたがうかぎり、労農派においては「資本主義の一般性」に向かう特殊なものの消滅、あるいはそれへの適応の傾向が日本資本主義分析の課題となるにすぎない。そして、日本の資本主義もその発展とともにいわば〈資本主義そのもの〉に近接してゆくというわけである。このような資本主義発展史観に立てば、天皇制はたんなる旧弊の「遺制」にすぎず、国家権力はすでにブルジョワジーが掌握し、高額小作料も土地をめぐる小作農どうしの「競争」の結果であって、山田盛太郎が言うような半封建的な地主の政治的な「経済外強制」(「公力=〔経済外的強制〕」)によるものではない。櫛田民蔵にしたがえば、それは「経済的強制」なのであって、「資本家的生産方法」の支配下にある「わが国小作料は現物納であっても観念的には貨幣化されており、生産物地代としての封建地代から区別されねばならない」(「わが国小作料の特質について」『大原社会問題研究所雑誌』1931[昭和6]年6月)からであった。

ところで、ここで触れた小作料の現物納形態をめぐって、ひとつの論点を指摘することができるように思われる。小作料の現物納は、講座派=山田盛太郎が主張するような「半農奴制的型制」に基づく「封建地代」ではなく、後発資本主義国のわが国においても機構的にはすでに観念的に貨幣化された地代形態として意義をもつと櫛田民蔵は言うのであるが、この櫛田の解釈は資本主義社会の形態論的構造の把握に対して一つの示唆となりうる。或るもの(ここでは地代形態)が「観念的に貨幣化された」ものとして意義をもつのは、この当の事態を成り立たせる一定の「意味成態」(池上鎌三)が既存の貨幣的関係に応ずる〈観念的な類比による同化〉という思考の回路を通じて社会的に妥当する形象として産出されていることを意味するだろう。とすれば、「観念的に貨幣化された」地代形態は客観的には、資本主義社会に汎通的な〈近代における貨幣的秩序〉のネットワークの一様態として捉え返すことができると考えられる。だが、この場合、高率小作料の現物納を貨幣的関係に観念的に同化する当事者は直接には小自作農であって、この当事者としての小自作農の意識構造を考慮しなくてはならないだろう。この点について、宇野は戦後の論文で、強固に持続する「小農の封建的思想・感情乃至慣行」とその背後で進行する中小地主・大地主・資本家らの繰り広げる「経済的作用」との相互制約関係(「わが国農村の封建性」『改造』1946[昭和21]年)を指摘する一方、戦後の「農地調整法改正」による農地の政治的な配分によっても、歴史的に慣行化され生活感情に根ざす「農村の封建性」は容易には「払拭」されないことを強調している。

それはともかく、向坂逸郎や櫛田民蔵の所説とはべつに、また櫛田の言う「観念的に貨幣化された」地代を「現物年貢(生産物地代)の一の便宜的転化形態」にすぎないと不問に付す山田盛太郎は論外として、近代資本主義社会には、自らを構成する諸要素関係をある局面において観念化せしめ、これを一定の貨幣的秩序へと編成するゲシュタルト化(Gestaltung)が「体制化の原理」として備わっている、と敷衍することができるのではないか……ということになるだろう。

この案件はもとより、『資本論』第三巻の地代論、とくに「資本制的地代の生成」(エンゲルス版、第47章)で論じられている「生産物地代」をめぐるマルクスの規定に関連する。この「資本制的地代の生成」は、労働地代―生産物地代―貨幣地代という地代形態の“歴史的な”推移の系譜を検討しつつ、市場関係を結節とする借地農業者の〈蓄積〉[再生産]構造と資本制的土地所有との関係を主題として論じたものであるが、そのうち資本制生産様式が支配的な社会諸関係のもとでなお存続する「生産物地代」の性格に関して、マルクスはそれを「貨幣地代の中世的に仮装された表現」であると規定している。

問題はこのマルクスの規定をどう理解するかに係わっている。私見では、「貨幣地代」のように〈仮装的表現〉を“纏う”「生産物地代」は、質料的には現物形態であるが、地代の形式としては「生産物地代」ではなく、「貨幣地代」そのものでもない。むろん「封建地代」ではありえない。それは貨幣地代のように〈仮装されたあるもの〉であって、この〈仮装されたあるもの〉は旧弊の単なる因習、擬装による虚偽の「残滓」形態などではなく、資本制生産様式にとって一定の適合的な形態的意味をもつ社会的作用の所産ではないか……、このように考えうる余地がある。つまり、「生産物地代」を「貨幣地代」のようなものとして形態的に「仮装」させ、それをいわば固有の地代形態として形象化させる資本制的な編成システムが実的に働いていると見なければならない。この意味でマルクスによって「仮装的表現」と規定された地代形態が、わが国のような後発資本主義における土地所有の構造と相関的な「小作料の現物納」において、いわば散種の波及形態として現実的に機能していたと捉えることができる。おそらく櫛田民蔵は、そこに資本主義的な商品経済のダイナミズムを見て取ったのかもしれない。〈観念的に貨幣化された地代〉を主張した櫛田民蔵の言説が妥当するのは、少なくともそのような「意味地帯」(池上鎌三)の成立を前提してのことであろう。この「意味地帯」はしかし、本稿の観点においては資本制生産様式における〈近代の貨幣的秩序〉の性格とその構造をいかに把握するかにかかっている。

このような〈仮装化システム〉をその積極的な意味を汲んで敷衍すれば、マルクスの規定する「仮装的表現」は、資本制生産様式に基づく諸関係の展開に応じて諸要素の観念化が産出されるゲシュタルト・プロセスのひとつの契機として捉え返すことも可能となるであろう。とはいえ、このように地代の形式をめぐる「仮装的表現」の論理を一般化して構造形成のゲシュタルトに組み込むことが可能であるかどうかは、なお慎重な考察を加える必要がある。それは、「経済[学]批判」を基礎視座とする『資本論』の課題意識、いわゆる〈フェーティッシュ〉(Fetisch)につらなる論点ではないかと見込まれるからである。

ここで確認しておきたいのは、労農派(=向坂)の規定する「資本主義の一般性」とは結局のところ、19世紀イギリスの産業資本主義の歴史過程に近似的な形態を想定したものであって、地代をめぐる「経済的強制」もその文脈においてのものであった、ということである。こうして、「資本主義の一般性」とは、『資本論』が経済学体系を立論する歴史的基盤として前提したとされるイギリス・モデルの〈原基形態〉であるというのであった。

だが、天皇制という権力=支配構造を封建的遺制と捉えるかぎりでは、労農派も講座派もそれほど大きな違いがあったわけではない。いずれも、イギリス資本主義の歴史過程がそうであったように、「顚倒した」日本資本主義も半封建的遺制を漸次的に、あるいは「促成的に」解消しつつ、いわば目的論的な経路を辿って『資本論』の世界に近接してゆくに違いないという共通の基本認識に立っていたのであって、両派ともに一国資本主義発展史観を共有していたと言わねばならない。したがって日本資本主義論争なるものは、レーニンやヒルファディングが示唆していたように帝国主義段階へと移行した資本主義の世界史的な支配構造の体制ないし枠組みにおいて、しかもそのヘゲモニックな構造の制約を受けた日本資本主義の歴史的現在をそのようなものとして位置づけていたとはいい難い。

とすれば、後発国の資本主義化を、帝国主義段階における資本蓄積の固有の運動と『資本論』に展開された資本の「一般的原理」(『經濟政策論 上巻』「序論」)との関聯に立ち返って捉え返さなくてはならない。それが、宇野弘蔵の課題となったのである。「いわゆる日本資本主義論争は、『資本論』をもって直ちに解決しようとした現状分析の欠陥を互いに争ったものである」(「日本資本主義論争とは何か」)ということになる。それゆえにこそ、『資本論』の次元と「現状分析」の〈場の特殊性〉とを媒介する論理は何かが改めて問われるのであった。こうして宇野はまず、〈政策を原理から分離する〉ことによって論争そのもの場を転移させ、次いでこの「分離」によって生まれる論理的な“空白”を媒介する関係項について、分離された政策形成の政治過程と相即的な資本蓄積の“歴史的な”典型を立て、この資本蓄積の典型形態の〈歴史的次元〉を「段階」として設定した、といってよいと思う。宇野の「段階」論が当初は『経済政策論』として展開されたのは、ここでは〈政策論的段階論〉の当否は措くとしても、このような政策―原理―段階の方法的な推論を媒介にしていたからであろう。もちろん、「段階論」の設定は同時にその反面としてあるいは往反的に「原理論」の構想を伴ったことは言うまでもないが、こうした宇野の思考過程には、すでに触れた福本和夫によって提起された『資本論』の体系構制における論理次元の階層的な構造といわゆる「プラン問題」が控えていたことを指摘しおきたい。

  • 繰り返し指摘してきた宇野弘蔵の重要論文「資本主義の成立と農村分解の過程」(既出、1935[昭和10]年11月)は、以上に素描したように1930年代における日本の革命綱領とその理論的基礎づけ、およびこれに直接・間接に連なる社会的・文化的形象をめぐって競い合うという“イデオロギーの相剋”を背景にして発表されたものである。現に、宇野はこの論文の執筆にあたって、農村問題(=農業問題)を「日本資本主義の全体の関連」において理論的に分析することを共通の目標としながらも、平野義太郎(「日本資本主義経済の特質」『中央公論』1935[昭和10]年10月)と向坂逸郎(「『日本資本主義分析』における方法論」『改造』1935[昭和10]年10月)とが「相反する見解」を展開していることを指摘し、そのうえで、「向坂氏と同様にすでに山田盛太郎氏の『分析』に対して方法論的にもその所論にも幾多の疑問をもつものである」ことを表明している。「農業における半封建的な支配的諸関係」を「基柢」とする「資本主義発展の半隷農的土壌」とそのうえに成り立つ「工業資本の不具の形態と畸形な機構」を主張する平野義太郎の所論に対して、向坂逸郎は、そうした「聖徒の一団」の言説とは異なって、各国資本主義の「特殊的な構造は資本主義の発展と共に、資本主義の一般的傾向――二大陣営の対立の傾向――に近づく」と規定し、いわゆる「両極分解」論を主張するのであった。宇野の「農村分解の過程」論文はそうした「相反する見解」で対立する平野義太郎論文と向坂逸郎論文と同じ年(1935年10月)に発表されたわけである。

宇野はそのような関心にしたがって、論文「資本主義の成立と農村社会の分解」で発展段階の異なる資本主義諸国の制約を受けた後発国における資本主義の独特の形成を問題とし、そのうえで帝国主義段階における「資本主義の特殊形態」の分析にとって要件となる論点――先進国で開発された資本主義的な生産方法の「移植」と後発国における農村の分解過程の不徹底という構造を指摘したのである。それは、後発国における機械制大工業の“機械的な”「移植」および農民層の分解過程の不徹底による過剰労働力の存続、つまり「労働力商品化」の特有の形成に着目することによって、後発国の資本蓄積が帝国主義段階に応じて繰り広げる独特の「後発と散種」の構造に迫ろうとしたものであった。宇野のこの着眼は、後発資本主義国の発展は「土着」から起こる内発的なものではなく、先進国の資本と生産関係の「輸入」によって行われるという、ヒルファディング『金融資本論』の資本輸出論(「金融資本の経済政策」)から一定の示唆をうけたものと言ってよいだろう。

宇野によれば、後発国の資本主義化は先進国で長期間にわたって開発されてきた機械制大工業システムを短期間に移植することによって機縁づけられる。機械制大工業の展開には相対的過剰人口の創出を必然的に伴うから、その生産方法を後発国が移植して資本蓄積を実現する場合には、イギリス資本主義の歴史的な生成過程に典型的ないわゆる原始的蓄積とは異なって、農民層の分解が不徹底のまま相対的過剰人口も堆積する。その結果、一方において資本主義の顕著な発展をみながら、他方では旧社会関係の分解を比較的緩慢に実現するというのである。この事態は、先進国で開発・利用された資本家的生産方法の移植が株式制度の導入による後発国の資本蓄積にとって先進国と同様の効果をもつのではなく、産業技術の機械的移転がその模倣に伴って異質の形態を産出する「散種」の効果として機能したということになる。つまり後発国のような初発から「機械的大工業をもって始まる資本主義は、それ自身に特有なる人口法則を展開するものであって、農村の強力的分解による過剰人口を工業に吸収するという典型的な機構を有していない」のである。わが国のように農村の子女が産業予備軍として代表的産業(紡績産業)に供給されるのは、その顕著で特異な形態であった。

このような農村社会の分解過程の不徹底は、国内市場を狭隘化させるとともに外国市場への帝国主義的な進出を必然的に促迫する。先進資本主義国の側圧を受けた後発国の資本主義化は、保護政策と株式制度を利用した「資本の集中」を通じて資本形態そのものを「變質」させるのであって、「産業資本」形態とは異質な「金融資本は農村社会の不徹底な分解のために、産業的には寧ろ此等の後進諸國にとってその資本主義確立の最も有力なる手段となった」のである。そしてこの新たなる金融資本は「國民國家」の政治的な「中心点」を形成し、そこに「國家主義」が生み出されるというのであった。

この後発資本主義社会における「国民国家」と「国家主義」をめぐって、宇野は次のように述べている。やや長いが引用する――

この新たなる資本形態[金融資本]は各国の資本主義勢力の各々の集中によって政治的には国民国家の新たなる中心点を形成するのであった。国家主義が新たなる内容をもって主張されなければならなかった。分解の過程にあった農村は政治的に極めて重要なる意義をもつと同時に、この分解過程は如何にかして阻止されねばならなかった。資本主義の下に農業と工業とを国家的に統一するといふ、経済的には斯かる国民国家にとって殆んど不可能なる問題が政治的には絶対的に必要なるものになって来たのである。それは植民地の獲得によって償ひ得る以上のものを有して居た。

注目すべきことに、宇野はここで、資本主義の後発性に見合う金融資本を主体として組織される「国民国家」の「国家主義」的性格が、農村社会の不徹底な分解と金融資本の強力な対外進出とを結節点として形成されるとみていることである。「国民国家」の「国家主義」を後発資本主義国に適合的な政治=権力形態と規定する宇野の国家論は間接的にではあるが、天皇制への批判を含意するとともに、労働運動の内部における「農村の運動」と「プロレタリアのいわゆるヘゲモニー」への期待にも及んでいる。(この論点は、『経済政策論 上巻』を扱う次項で触れる。)

こうして帝国主義段階における後発国の資本主義化は、経済過程(金融資本形態による資本蓄積)と政治的課題(農村の労働人口の動員と調整)との、前者から後者への規定関係を基軸とした複合的な社会的機構をとうして成立するのであった。ここに、近代資本主義の世界的な展開における先進資本主義の制約を受けた後発資本主義の成立と発展の「特殊形態」を分析する視角、すなわち帝国主義段階論の方法にいたる途が開かれたといってよい。

その場合、必ずしも一貫していないのであるが、論文「恐慌の必然性」に関して指摘したように、宇野が資本主義と資本主義社会とを使い分けていることに注意する必要がある。農村における労働人口の形成は語の厳密な意味で、歴史的に堆積した社会構造そのものの変容を伴うからである。この農村における社会構造に堆積された歴史的な〈イデオロギー性〉についてはたとえば、和辻哲郎がすでに見たように『風土』(1935[昭和10]年)のなかで、農村社会の家父長制的家族形態について「共同態のなかの共同態」と規定し、それが独特の「間柄」に基づくことを指摘していたが、宇野自身は先にも触れた敗戦直後の論文「わが国農村の封建性」(『改造』1946[昭和21]年5月)で、戦前の「高率なる物納小作料」は「小農自身の保有する封建的思想・感情乃至慣行」によって「変装」され「擁護」されさえしたと述べて、農村社会に残存するいわば生活世界に妥当する強固なイデオロギー性に注目していた (但し、この論文の基調は、小農が抱える「封建的感情乃至慣行」の背後で進行する資本蓄積の「経済的作用」を強調する点にある)。たしかに宇野が指摘するように、「国民国家」が農業と工業とを資本主義的再生産過程に安定的にとりこむことができない諸要素、とりわけ農村の労働人口と農民の生活感情としての「封建的感情乃至慣行」を存続させる社会構造に依存するかぎり、「国家主義」的な資本主義社会には常に破綻の可能性が内在していることになる。だが、「国家主義」が労働人口の動員システムを媒介に成立するとすれば、その動員の諸形態や構造は追究されなくてはならないが、そのような動員システムを構成的契機とする「国民国家」の存立構造について、宇野の想像力はこの時点ではそれ以上には及んでいない。

一方、この論考で宇野は、いずれの資本主義国においても「資本の一般的原理」そのものは貫かれることを強調している。すでに触れたように1936年度に東北帝大で講じた「經濟原論」の講義プリントによれば、「流通論・生産論・分配論」という戦後に体系化される『經濟原論』と変らない体系構成のもとに、宇野は、「商品形態」が「一般的社会的規定としての社会的再生産過程に制約せられることによって始めて歴史的社会としての資本主義社会の諸法則を展開する」ことを強調しつつ、「資本主義社会自身をも一つの歴史的過程として把握すること」を課題として『資本論』の純化と原理論の構築に着手していた。そして宇野が原理論の体系的な基礎視座として設定したのが、「商品形態」の論理であったのである。したがって、以上のような段階[論]の設定と原理[論]の構案はその基礎的な枠組みにおいて、前者の着想を機縁としつつ往反的に成立したとみてよいだろう。

その際、留意したいのは帝国主義段階論が後発国の資本主義化の「特殊形態」を分析する視点から着想されたものであって、この後発性の視座は宇野にとっても、資本主義的諸関係の形成とともに、その形成過程に応じて国民国家の統治構造を構築するという後発国が抱える“近代”の両義的な課題に規定されていたことである。それは、ほかならぬ西欧社会の思想的伝統を負いながら、同時にその批判的超剋をモティーフとして成立した『資本論』の理論を、〈日本の青春性〉の裡にいかに引き受けるかという難問をともなっていた。おそらく宇野弘蔵は、この後発性の立場における理論の段階論的継承という後発国における両義的な課題を深く自覚していたに違いない。それは、先進国における資本制生産様式に適合した「資本家的生産方法」の導入がわが国の資本主義の展開に対して独特の特殊な形態において受容されるとともに、『資本論』の理論的な受容の仕方においても、「段階」に応じた理論体系の変容をともなって適用される、という関係にあった。これを言い換えて一般化すれば、帝国主義段階の近代資本主義世界においては、資本主義の後発国にとって先進資本主義国で展開された「資本家的生産方法」(とりわけ産業技術)と理論体系(『資本論』の理論)がいわば〈原型〉そのままに「遷移」として機械的に継承されるのではなく、その模倣と伝播のプロセスを通じて拡散し異質な形態を産み出す「散種」として機能すると言ってよいだろう。少なくとも、近代資本主義の歴史的構造は帝国主義的段階の特性として、先進国にとっては自前のシステムの「遷移」とその拡大が後発国にとっては特異な形態の「散種」として作用するという性格を内在させていることーーこの点は、記憶しておいてよいと思われる。

次項では『経済政策論 上巻』(1936年)について検討する。(続)

2025年3月23日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1349:250324〕