第三章 日本資本主義の〈特殊性〉と経済学体系の模索
(3)資本主義の「特殊形態」と段階/原理視角の生成
[Ⅰ]1935(昭和10)年前後
1935(昭和10)年前後のわが国は明治国家の建設以降、昭和前期(ほぼ1925[昭和1]年前後から敗戦の1945[昭和20]年までを想定)における国家の存立と社会秩序の形成、それにかかわる思想と理論の構想、ひいては〈近代〉そのものをいかに捉えるか、その成り立ちの条件と根拠は何かをめぐって、政治過程についてはもとより、科学や技術をふくむ学問の領域においても、“自然主義”以来の文学の意匠にとっても、対立と抗争と暴力が激しく鬩ぎ合い、とりわけ国家形態の構想をめぐる政治システムの在り方、さらには在来の思考図式やパラダイムの有効性が根源的に問われる事態を迎えていた。端的に言えば、それは、〈近代化〉をめぐる理念の再審と論理の臨界が争われた“イデオロギーの時代”ともいうべき性格を備えていたと言ってよい。むろんそのことは、近代資本主義の世界的な展開とその“制度的”な波及、いわゆる帝国主義的な世界秩序の生成を特質とする歴史的過程と無関係ではあり得ない。宇野弘蔵が経済学の研究を本格的に始め、いくつかの理論的知見と方法上の見通しを得たのも、この1930年代においてであった。
昭和前期における“イデオロギー”という言葉は、三木清が言うように「われわれの時代の合い言葉」(「イデオロギー論」『イデオロギー論』理想社、1931[昭和6]年)としてひろく流通していた一種の流行語であって、ときにマイナスの価値を負わされた政治(主義)的な偏向思想として流布し、それを弄する者は悪しきイデオローグとして指弾されたのである。だが、イデオロギーはそうした見立ての思想傾向に限定されるわけではない。イデオロギーという言葉の歴史上の原義(観念+ロゴス)を遡れば分かるように、そしてさらにマルクス主義の影響下に、「現実的な生活そのもののうちに与えられる」〈虚偽の意識〉(虚構ないし擬制[フィクション])をふくむ社会的意識(および観念諸形態)一般に及ぶさまざまの機能と形象をもつ多義的な用語として使用され、注目を集めていたのである。
現に、三木の論文「イデオロギー論」を巻頭にもつ理想社版の論文集『イデオロギー論』に収録の個別諸科学あるいは領域にかんするそれぞれの論文にはすべて、「イデオロギーとしての」という限定がタイトルに付されている。そのタイトルだけを挙げれば、「イデオロギーとしての経済学」(本多謙三)以下、法律(田中康夫)、政治(佐々弘雄)、歴史学(羽仁五郎)、哲学(戸坂潤)、道徳(長谷川如是閑)、宗教(山崎謙)、芸術(小口優)、自然科学(岡邦雄)、数学(伊藤至郎)、という具合である。この「イデオロギーとしての」という一様な限定句は奇妙な印象をあたえるが、「唯物論的歴史主義」、つまり唯物史観を標榜する書肆編集部の意向によるものらしい。それはおそらく、三木の主導による「生活と学問とが相交渉する地点」をイデオロギー論の対象として定位しようとする試みのひとつだったと思われるが、そこでの論調は多かれ少なかれ、それぞれの主題の歴史的な性格と社会性あるいは“階級性”を指摘するものになっている。三木自身は、イデオロギー論の対象を「文化の全内容性とその全体の連関性」における「意識」と規定し、それを「意識形態の学」として位置づけている。その際、超個人的な「無意識的虚偽」の現実的な在り方を問うことがイデオロギー論には必須の課題であることを強調していた(「イデオロギー論」)。
ここで注目したいのは、三木のいう「意識形態の学」における〈形式〉と区別される「形態」という考え方についてである。三木は「形態」の概念について、「内容は必ず自己の一定の形式に結びついて存在する」という〈内容―形式の存在〉図式の観点から、個々の具体的な内容がそれに相応しい特定の形式を備えて存在する存在の仕方を「形態」と規定する。それは、「実体的なものと関係的・機能的なもの」との両契機を統一的に具え協同的に形成されるものであって、いわば“構造–形態”という性格を有っている。そして、三木はこの「形態」概念の認識論な意義を、〈実体の模写説〉と〈機能の構成説〉に対してそれらをともに包摂すべき表現作用に類比的な〈形態の形成〉という点に求め、これを「形成説」としていた。ただし、そうした三木の「形態」論が他方では、「東亜の新秩序」の協同的な形成に関連して提出された事情には注意する必要があるだろう(「新日本の思想原理 続篇――協同主義の哲学的基礎」1939[昭和14]年、昭和研究会)。
「ロゴス的なもの」と「パトス的なもの」とを「形なき形」において包摂する「形態」という概念をめぐって三木は、客観的な契機に応ずる主体の表現的な意志の作用による〈構想力の論理〉を強調し、それを「擬制の論理、形の論理」とも表現している。そして、「擬制的な力」としての制度の拘束性がそうした構想力の属性のひとつだと言うのである(『構想力の論理』1937[昭和12]年)。一方、宇野弘蔵はすでに触れた「貨幣の必然性」に関するヒルファディング論で、エルスナーが党派的に批判するような単なる“流通主義”には還元され得ぬ、商品経済に特有の価値の「形態」的な性格を強調していた。宇野はのちに、「商品経済の本質はその実体[“労働”]を価値とする形態にある」(『資本論五十年』上、1970[昭和45]年)と表現しているが、この観点にしたがえば、「形態」は実体的なものを「価値」へと変換する構造様式として見ることができる、ということになるだろう。このような宇野の言説はもちろん、マルクスの規定する「価値形態」の構造と資本の運動過程における「諸形態」の形態としての在り方を『資本論』体系のそれぞれの場面でどのように捉えるか、という問題に関連する。
ここで考えたいのは、三木も宇野もともに、それぞれの主題にとって「形態」を基礎的な“視座”として設定していることである。私見では、三木の「形態」概念には「基礎経験」に内在する〈交渉の仕方〉という性格を看てとることができると思われるが、この基礎経験における交渉という視座と、他方、マルクスの価値形態論から析出され、価格関係には解消できない経済的価値の“流通形態”としての「形態」を強調する宇野の思考には、直接の理論的な共通性は認められない。言語や意識に関する文化的次元の「形態」論と経済的な価値をめぐる「形態」規定とを、ただちに同列に扱うことは拙速というものであろう。そうではあるけれども、宇野は、「形態自身は資本主義的な社会関係全体を包んでいる」あるいは資本主義社会の「全過程が商品形態によって処理される」と規定し、資本主義自体が有つ「商品形態」的な性格を強調するのであって、この場合、この「形態」規定(「商品形態」)を、過程的な観点においては、商品経済的な制度形成に関与し、資本主義的な社会諸関係の成立と再生産に対してある種の〈体制化〉として機能する固有の様式として捉えることができるとすれば、宇野の言う「形態」規定は事柄の再–生産に与する〈体制化の仕方〉としての〈形態化〉(Gestaltung)という意味で、三木の言う「形態の形成」と重なる側面があるといえるかもしれない。とはいえ、宇野の「形態」概念については、『資本論』体系の解読に対する方法論的な操作的機能としての「形態」と、歴史的過程としての資本主義の展開における“実在的な”制度的機能としての「形態」とを慎重に考慮する必要がある。この論点、つまり近代資本主義の歴史的過程はいかなる手続きによって理論的に把握可能かという問題は、宇野がのちに提唱する「方法の模写」という方法とも関連する。
だが、この時点では少なくとも次のことは指摘できるのではないか思われる。ーー同じ世代(1897年生まれの同い年)の三木清と宇野弘蔵がそれぞれの文化的素養と学問的蓄積を異にしながら、偶然にもせよともに「形態」の問題に方法的な関心を示したということは、「生活と学問が相交渉する地点」の構造をめぐって試みられた昭和前期における学問形成のある種の傾向と踵を接していた、といってよいのではあるまいか。
それについて一例をあげれば、当時、「形態」(Gestalt)について『科学ペン』(1938[昭和13]年4月)が「全体主義哲学と認識論」・「ゲシュタルト心理学」の特輯を組んでいた。この特輯号で、エーレンフェルス以来のゲシュタルト心理学の成立と普及(E.マッハにも触れている)にかんする簡単な紹介のほかに、ナチズムを「普遍的世界観」へと至る「歴史的必然」と規定しつつ相半ばする心情をのぞかせる三枝博音(「全体主義とナチズムの認識論」)、「世界経済の全体性と国民的アウタルキ-」を言挙げする杉村廣蔵(「経済学に於ける全体主義)らの論文とともに、ゲシュタルトをめぐるいくつかの話題が論じられていた。そのなかで永野為武が生物学に関する論文(「全体主義とゲシュタルト」)で、ゲシュタルト論を「統一体内のディナミックな配備」を理解しうる可能性にあると評価しつつ、アトミズムとホーリズム、機械論と生気論に対する第三の可能性として〈場〉の生体論を位置づけ、それに関連させてゲシュタルト論の方法的な意義について、おおよそのところ、公平な考察を加えている。一方、ケーラーに学んだ佐久間鼎(「ゲシュタルト心理学の将来」)が適切にも指摘する危惧ないし批判にも拘わらず、『原理日本』の主宰者たる蓑田胸喜(「認識論と全体主義世界観」)がゲシュタルト概念を「国体明徴」をめざす「全体主義世界観」として捉えているように、ゲシュタルトなる言葉が単なる「全体性」の優位に還元され、さらには政治過程における統治の「全体主義」と直接に等値される向きがあったことは、指摘されねばならない。この意味で「ゲシュタルト」論には、少なくとも『科学ペン』に掲載された論文にかんする限り、〈要素的総和以上のあるもの〉(ケーラー)の構造をいかに捉えるかという点において、ことと次第によっては、〈両刃の剣〉という両義性に逢着する局面もあることは記憶しておくべきかもしれない。近衛文麿のもとで「国家総動員法」が公布されたのは奇しくも、この『科学ペン』の「ゲシュタルト心理学」特輯号が発行された1938(昭和13)年4月のことであった。(なお、K.コフカはゲシュタルト(Gestalt)を「体制化の産物であり、体制化はゲシュタルトを生み出す過程である」と定義し、体制化がゲシュタルト的な性格を有つとしていた。ゲシュタルトは〈体制化の原理〉なのである[『ゲシュタルト心理学の原理』1935年]。)
経済学についてはどうだろうか。理想社版『イデオロギー論』に収録の「イデオロギーとしての経済学」のなかで本多謙三は、河上肇(およびマルクス)の「上部構造」論の〈不整合〉性を批判する櫛田民蔵の所論(「社会主義は闇に面するか光に面するか」『改造』1924[大正13]年7月)を参照しつつ、イデオロギーを「階級から芽生えた〈精神的〉産物」と規定し、経済学(ないし経済思想)を「社会的意識形態」としてのイデオロギーと捉えたうえで、「階級は党となることによって、全体の肢体として活動できる。経済学は政治学に取り容れられることによって、再び事物の本質関係の学としての妥当性を恢復することができる」と主張し、「プロレタリアートの学問は経済学を棄揚するところの一つの政治学でなければならぬ」と断言する。こうした階級–党/経済–政治を構成契機とする経済学――古典派に触れた文脈での本多の意を汲んで言い換えれば、〈社会秩序の政治学〉(ポリティカル・エコノミー)はたんなる「学派」の枠組みをこえた「事物の本質関係の学」として復権すると本多謙三は言うのである。この本多の所説に対して、宇野がどんな反応をしたのかは明かではない。だが、このような本多の「イデオロギーとしての経済学」は、ある種の全体性への傾斜と機械論的なモティーフも見られるが、階級形成をふくむ政治過程と経済現象とをめぐるイデオロギーと学問知との規定関係を考える場合、宇野の思考にひとつの微妙な機縁を正負双方において与えた可能性もある。
ところで、この論集にはなぜか「言語」が主題として設定されていない。すでに三木は公表されたばかりのマルクス/エンゲルス『ドイッチェ・イデオロギー』(リャザノフ版、1926年。三木の邦訳、岩波文庫、1930[昭和5]年。後出)に触れて、「マルクスの人間学」を「客観的公共性」に開かれたイデオロギーと規定した本文の註で、「言葉は他の人間との交通の欲望と必要とから生まれる。言葉は意識と共に古く、むしろ言葉は実践的なる、他の人間に対しても存在し、したがってまた私自身に対しても存在する、現実的なる意識である」というマルクス/エンゲルスの、いまでは著名となった一節を参照していたし(「人間学のマルクス的形態」1927[昭和2]年)、さらに言語を「〈言葉―我々〉の形式」における「交渉的な現実的な意識」[三木はVerhältnisを「交渉的関係」と訳出している]と考えていたはずであるが(「マルクス主義と唯物論」1927[昭和2]年)、上記の理想社版の「イデオロギー論」では必ずしもそれが活かされているとはいえない。三木が「イデオロギーといふ言葉はそれ自身のうちに既に或る見方を含んでゐる」という場合、当のイデオロギーには〈自他の批判性〉という契機を伴うとみられるが、こうした三木の洞察からみれば、イデオロギー(一般)を「生活過程」に相関的な「社会的意識(形態)」と規定するマルクス/エンゲルスの観点を踏襲しようとするかぎり、一般にイデオロギーが言語活動とは無関係に独立して成り立つ事態だとは考えられないはずである。とすればこの場合、言語現象ないし言語活動をイデオロギー論の論点として設定するということは、「イデオロギーのイデオロギー性」(戸坂潤)を「〈言葉―我々〉の形式」(三木清)において俎上にのせることになるはずである。それは帰するところ「社会的活動の自己膠着」(『ドイッチェ・イデオロギー』)とその分節化の構造を問うことにほかならない。それゆえ、三木が「虚偽の意識としてのイデオロギーがイデオロギーの一般的概念に結びつく」と言うように、論点となるのは近代における〈虚偽の意識〉の“実在性”とその内在的規定如何ということになるだろう。その際、ドイツ文学者・小口優がおなじ『イデオロギー論』に収録の論文「イデオロギーとしての芸術」のなかで、イデオロギーの「母胎」を「日常の言語を媒介とする意識と感情の公共圏」としていることは注目に値する。彼が三木清の言う「公共圏」(ないし「公共性」)を踏襲しているかどうかは不明だが、日常の言語的交通に媒介された「公共圏」としてのイデオロギーという観方は、〈虚偽の意識〉(虚構ないし擬制)の生成と存立構造の分析にとって、有効な方法的視座のひとつではないかと考えられる。
現代の“イデオロギー的問題状況”からみれば、 “マルクスの言語論”の論究、さらには「国語は帝室の藩屛なり」(『国語のために』訂正再版、冨山房、1897[明治30]年)と宣揚する、帝国の国語学者・上田万年にはじまる明治期以来の「国語」の制度化に関する理論的・歴史的分析は重要な課題となると思われるが、それはそれとして、既存の、あるいは並行する講座派に典型的な“公認イデオロギー論”とはべつに、言語・意識・イデオロギーをめぐる『トイッチェ・イデオロギー』ショックともいうべき事態にいかに応ずるかが喫緊の課題にのぼっていたというべきかもしれない。ここでは、小林英夫がF.ソシュールの『一般言語学講義』(初版、1916[大正5]年)を『言語学原論』(岡書店、1928[昭和3]年、原著再版[1922年]の邦訳)として訳出していたこと、そしてそのソシュール批判を通じて時枝誠記が「言語過程観」(「心的過程としての言語観」1937[昭和12]年)を提唱したことを指摘するだけにとどめたい。【なお、三木清『構想力の論理』(1937-43[昭和12-18]年)には「第五章 言語」が予定されていたが、それは書かれないまま未完に終わった。また、戦後のことになるが、スターリンの『マルクス主義と言語学の諸問題』(1950[昭和25]年)、時枝誠記のスターリン言語学批判などにはのちに触れる機会があるだろう。】
そうした三木清らの企てと同じ1931(昭和6)年には、坂田太郎・樺俊雄・戸坂潤・本多謙三らの社会学研究会が「いかなる立場の人々の関心をも強く牽きつけるイデオロギー問題」に関して、K.マンハイムの「知識社会学の問題」(1925[大正14]年、樺俊雄訳)や『イデオロギーとユートピア』(1929[昭和4]年、湯浅興宗訳[抄訳])などを紹介している。「生産過程に基礎をおく階級概念」と「精神的諸立場」とを媒介する「構造概念」としての「精神的諸層」を設定し、この「概念」と「立場」の間に開かれる「層」の次元において「人間の集団」が一定の時代の特定の経済及び思惟様式に“拘束”された「社会的単位」として存立する、というのがそこでの論点であった。そして、マンハイムはそれを、W.ベンヤミン(『ドイツ悲劇の根源』1925年)を踏んだ〈Konstellation〉(「星宿」あるいは「星座」)のイメージに類比的な「配置状況」の位相において捉えることを提案していた(社会学研究会編『イデオロギー論』同文館、1931[昭和6]年)。
ことほど左様に「ありとあらゆる思想」が流行っていたさなかに、戸坂潤が「ニッポン・イデオロギー(日本精神主義・日本農本主義・日本アジア主義)」なるものは「自由主義」に内在する観念的な不定形のイデオロギーから生まれたのではないかと指摘し、「イデオロギーのイデオロギー性」を暴き、生活世界に必然的に生じる〈虚偽の意識〉とそのからくりの構造を「日常性の原理」として探求することを目指したこと(『日本イデオロー論』1935[昭和10]年)も、1930年代における〈時代の思考〉の趨勢を物語るといってよいだろう。戸坂にとって「日本の民衆こそ唯一の日本的なるもの」というそのこと自体が、いわば日常性としてのイデオロギーの事実的な在り方なのであった。「事物をイデオロギー論的に把握する」という戸坂の構えは、三木清(『唯物史観と現代の意識』1928[昭和3]年)がそうであったように、マルクスの唯物史観に言うイデオロギー論の基礎的な発想、「社会的意識(形態)」論を継承しようとする試みのひとつであったし、G.ルカーチの影響下から出発し〈認識の視座制約性〉を指摘したマンハイムの「知識社会学」も、それとの対質の裡に生まれたことは指摘するまでもないだろう。そうして三木清が、当時始めて公表されたマルクス/エンゲルスの遺稿『ドイッチェ・イデオロギー』(R.リャザノフ編『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』第一巻、1926[昭和1]年。岩波文庫、1930[昭和5]年7月)を訳出し紹介したことは、〈時代のイデオロギー的状況〉を象徴する記念すべき事態であったと言ってよい。さきにみた理想社版の『イデオロギー論』はそれに対する応答のひとつであったとも見做しうるだろう(なお、リャザノフ編『ドイッチェ・イデオロギー』の邦訳にはほかに河上肇・櫛田民蔵・森戸辰男共訳、我等社。由井保一訳、希望閣/永田書店があり、いずれも1930[昭和5]年に刊行されている。三種類の邦訳が同じ年に現われたというわけである。河上肇らの邦訳はマルクス/エンゲルスによる加筆部分などを註記したリャザノフ版の全訳であるが、三木の邦訳ではそれらは省略されている。)
1930年代はこのように各方面における〈知の状況〉と相接するかのように、宇野にとっても、経済学をめぐる学知の形成と心情の自己了解において“疾風怒濤”ともいうべき時期にあたっていた。宇野の著名な論文「資本主義の成立と農村分解の過程」(『中央公論』1935[昭和10]年6月)と段階論の基本的な構図が示されたと言っていい『經濟政策論 上巻』(弘文堂、1936[昭和11]年5月)は、そうした昭和初期からの“冬の時代”が「満州事変」(1931[昭和6]年9月)の“勃発”以降いっそう深刻に始まろうとしていた時期、すなわち1936(昭和11)年の二・二六事件を挟んだ前後半年の間に発表されたものである。一方、『資本論』のテクストに即した“原理的な”研究も、日本資本主義論争を冷静に観察しながら〈資本主義の特殊形態〉を分析しうる方法の模索と往反的に進んでいた。
ここで、「政策論」に関連する宇野の思索は次章で扱うことにして、後論への含みを兼ねて、『資本論』そのものの研究について見ておきたい。宇野は『資本論』全三巻のうち、重要と見做されたいくつかの主題を、執筆の順序は前後するものの1930年代に相次いで検討している。それは次のようであった。さきにも触れたことだが、ヒルファディングの貨幣論を論評した「貨幣の必然性」(1930[昭和5]年6月)で資本制的商品経済における貨幣形態の意義を問う価値形態論の重要性が主題として設定され、単なる“流通主義”とは異なる「形態規定」視角ともいうべき方法が析出される。続く「相対的剰余価値の概念」(1936[昭和11]年11月)では「資本家的生産方法」の更新と剰余価値の生産との「経過」的関係が、「生産方法」の改善と更新をめぐる「資本家的」な動機に即して分析される(この「資本家的」な動機分析の視点は「差額地代」論にも及んでいる)。この点は、当事主体(資本家)の行為的動機と法則形成の構造に関するいわば形態的規定が、法則認識と原理論の体系構成をめぐる方法的視座として具体的に適用されつつあることを示している。次いで『資本論』第二巻の再生産論については、すでに見た「再生産表式論の基本的考察」(1932[昭和7]年11月)によって資本の再生産過程における商品資本の回転循環に焦点があてられ、これを承けて「貨幣資本と現実的資本」(1937[昭和12]年11月)では、資本の循環過程から遊休化した「貨幣資本」が銀行制度を媒介にした信用関係の展開によって自立化する過程――この自立化の過程が、「産業資本から金融資本への転化」の形態的関係の展開として説明される。そうして「資本制社会における恐慌の必然性」(1935[昭和10]年2月)において、「資本の過充」と利潤率の低下との“矛盾”が、恐慌を画期とする景気循環過程をつうじて「資本の過剰」(生産力過剰)が処理され「過剰人口」も相対的に調整されることにおいて、商品経済のシステム内在的に”現実的な“解決をみるという恐慌論の構案で締め括られる、といった次第である。
ただし、些細なことかもしれないが、宇野がこの「恐慌の必然性」論文で、資本主義ではなく「社会」に重点をおいた「資本制社会」という用語を遣っていることに注意する必要がある。というのは、この「社会」なる措辞は、近代資本主義をそれに相応しい社会構造として成り立たせる基底的条件、それゆえ原理論の体系にとって隅の首石となるべき労働力商品化をめぐる論点に繋がっているからである。事実、論文「資本主義の成立と農村分解の過程」は労働力の流動化とその社会的制約(農村社会における“共同態”の変容と過剰人口問題)を重要な論点としていたのである。総じてこれらは当時『資本論』における「難問」とされた論題であるが、いずれも資本制的商品経済の機構的な“結節点”をなす論点であって、宇野の関心が一定の理論的領域に集中していたことを示している。
そして注目すべきことに、上記の諸論文が第二次大戦以後はじめて刊行された宇野の論文集『資本論の研究』(岩波書店、1949[昭和24]年)に、さきに挙げた順序に即して収められていることだ。そうした編集構成から見直せば、宇野が1930年代の時点で、「無政府性」を本質的性格とする資本制的商品経済の経済法則とその現実形態に関して、『資本論』を資本の生成と存立構造をめぐる形態的諸規定の展開として捉えるべく方法的な思索を重ねていたことがうかがえる。しかも、宇野が東北帝大で行った1936(昭和11)年度の「経済原論」の講義プリント(「宇野助教授講述」、東北帝大法文共済部)によれば、「経済原論」の基本構成は第一篇流通論(商品・貨幣・資本)・第二篇生産論(資本の生産過程・資本家的生産方法・資本の再生産過程)・第三篇分配論(利潤・地代・利子)となっていて、このかぎりで言えば、経済学の体系構成への関心のもとに、「経済原論」の「流通・生産・分配」という三篇構成の構想とこの三篇にそれぞれ配当される「貨幣の必然性」以下の諸論文の論点形成が、相互規定的に遂行されたことを思わせる。
とはいえ、この時点で宇野が、「経済原論」の体系構成と資本の形態的規定についての方法的・理論的聯関をどの程度まで追究していたかどうかは明らかではないが、うえにみた1936年度の「経済原論」の講義で宇野は、労働価値説の「論証」は『資本論』の「商品論」ではできないという趣旨の説明をしていたらしい(『経済学を語る』1967[昭和42]年)。このとき宇野はおそらく、「形態規定」の方法的有効性、のちの体系期の言説(『価値論』1965[昭和40]年)を援用して表現すれば、価値の形態規定の発展を通じて価値の「実体」としての「労働」を価値の本質(価値形成過程)において「論証」するという、『資本論』の読解に対する〈形態論的方法〉の可能性を秘かに意識していたにちがいない。回想によれば宇野は、1936年度の「経済原論」講義はすでに『経済政策論 上』(1936年5月刊)を書きあげた後のことであって、その時点で原理論の構想はほぼ整っていたと言っている。この回想的事実は経済学体系における〈段階/原理〉視角の形成が、このオーダーで構想されたことを傍証するものでもあるだろう。とはいえ、宇野のこのような〈形態論的方法〉と体系的叙述における「論証」の手続きがそのまま歴史的世界としての資本主義社会の構造分析とその叙述にとって妥当なものかどうかという問題は、のちに見るようにべつの考察を必要とする。
いずれにせよ、『資本論の研究』を構成する以上の諸論文は戦後に書かれた「序説」(1946[昭和21]―48[昭和23]年)を除いて、いずれも1930(昭和5)年から1937(昭和12)年にかけて精力的に執筆されたものである。だが、翌1938(昭和13)年2月に宇野は不当にも、いわゆる「人民戦線事件」に連座し「労農派教授グループ」のひとりとして宮城署に拘束され、学問研究の中断を余儀なくされた。“容疑”は治安維持法違反であった(後述のように、宇野は「目的遂行行為」なる訴因によって起訴されたのだが、判決は無罪であった)。
この際、「人民戦線事件」について留意しておくべきことがある。大内兵衛、有澤廣巳、向坂逸郎ら「労農派」につながる教授グループの拘束をその一部として始まった「人民戦線事件」なるものが、大学内部の政治的対立とともに、さきに触れた雑誌『原理日本』に拠る蓑田胸喜(1894-1946)を理論的指導者とする「大学粛正運動」、要するに「国体明徴」運動の一環として行われたことである。「刑法理論」の瀧川幸辰を免官させ、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉を葬り、津田左右吉の古代史研究を封印ないし発禁に追い込み、さらに末弘厳太郞をも告発するといった一連の思想弾圧に蓑田が係わっていたことはまちがいない。宇野弘蔵とほぼ同じ世代に属する熊本・八代出身の蓑田が遡っては、東京帝大の学生時代に会員として活動していた「興国同志会」は、美濃部の「天皇機関」説を否定して「天皇主権」説を対置した上杉慎吉の影響下に、吉野作造につらなる帝大「新人会」に対抗して組織された団体であって、この上杉が実は、帝大経済学部の創設にあたって発刊された『経済学研究』創刊号をめぐる「森戸事件」(1919[大正8]年)に関与していたのである。先に見たように、森戸辰男と編輯者の大内兵衛は『経済学研究』に掲載された森戸のクロポトキン論に対する「興国同志会」の激しい糾弾によって辞職を余儀なくされたのであるが、この思想と学問をめぐる大学内部の政治的・イデオロギー的対立の”現場“に若き宇野弘蔵は、向坂逸郎とともに帝大生として立ち会っていたのである。「森戸事件」は時を隔てて、宇野が「労農派教授グループ」のひとりとして不当にも拘束された「人民戦線事件」に連なっていたことになる。
なお、序でながら、蓑田には「『資本論』の方法を論じて勞働價値説に及ぶ」という論文(『原理日本』1928[昭和3]年2月)がある。そのなかで彼はマルクスの「価値」概念について、”使用価値“の生産活動に携わる具体的な人間の営みを無視した「抽象的人間労働」なる概念は現実的に経験できぬ抽象的な「実体」にほかならず、マルクスの「価値」概念はたんなる「幻術的対象性」(gespenstige Gegenständlichkeit)であり「形而上学的観念」に過ぎないと批判し、労働価値説に対していわゆる需給説を対置していた。W.ゾンバルトに依拠した蓑田胸喜もまた、マルクスが規定する商品価値の「幻術的対象性」[幽霊のような対象性]の構造を実体主義的に”取り違えて“(quid pro quo)いたわけである。因みに、「革新官僚」として戦時期の「産業合理化」政策に深く関わった岸信介は上杉慎吉の弟子であった。
さて、「資本主義の成立と農村分解の過程」は『中央公論』(1935[昭和10]年6月)の創刊を記念した「續五十周年記念號」の巻頭論文であり、「編集後記」で宇野は「マルクス經濟學の権威」として紹介されている。同じ号には日英同盟論、エチオピア問題、サラリーマン論、発刊「五十周年」を記念した内閣総理大臣岡田啓介や島崎藤村の祝辞とともに、齋藤茂吉の「ヒットレル事件」が載っている。
茂吉の言う「ヒットレル事件」とはA.ヒトラーが武装蜂起を企てたミュンヘン蜂起(1923[大正12]年11月)のことである。宇野はこのときベルリンにいてヒトラーの蜂起を知っていたにちがいないが、それについてはほとんど触れていない。茂吉が伝える「ヒットレル事件」は彼一流の好奇の眼をもって、医学研究のために留学中のミュンヘンで経験した記憶と手帖のメモと当時の新聞によって再構成した旧稿に加筆したものであるが、蜂起の1923(大正12)年11月8日は木曜日でミュンヘンに初雪が降ったという。ヒトラーの蜂起の現場に立ち会って、あたかもそれを実見していたかのように詳細に描かれたこの「写生文」の発表を茂吉は、帰国後に急遽仕込んだ「マルキシズムに関する稚拙な言説」を恥じてためらったと言っている。だが、この1935(昭和10)年の時点での公表はかえって「マルクス主義に対する戦闘」を主張し「純独逸精神」にもとづく「国民革命」を志向したヒトラーを奉じて、「猶太人の猶太訛」に眉をひそめ「民族と言語の純粋」を推奨するかのような翼賛の言説とも受け取れる。実際、大統領ヒンデンブルクの「薨去」(1934[昭和9]年)に対する総統ヒトラーによる追悼の言葉を開局間もないラジオで聴いてしばし「幸福」の感興を味わった、と茂吉は書いていたのである。当時のマルクス主義がいかに人々の耳目を集めていたかは、『赤光』(1912[大正2]年)の歌人「くれなゐの茂吉」(中村草田男)の振舞いにもあらわれている。宇野は自ら言うように歌集『赤光』を読んでいるが、読んだのはおそらくこの茂吉の「ヒットレル事件」に接したころではないか思われる。
西田幾多郎の周辺でも、カント、ヘーゲル、マルクス、現象学などが盛んに論じられていて、そのなかには「全体性の立場」を標榜する高橋里美(宇野の第六高等学校時代のドイツ語教師で、東北帝大法文学部では同僚であった。宇野は高橋を「恩師」と慕い高橋は宇野を「人民戦線事件」の裁判でも一貫して支えていた。)、田辺元、三木清、戸坂潤といった錚々たる研究者がいた。とりわけ三木清(『唯物史観と現代の意識』1928[昭和3]年、『観念形態論』1931[昭和6]年)がマルクスを精力的に論じはじめたこともあって、西田をして「夜ふけまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする」と言わしめるほど、「此頃屢ゝマルキスト來たりマルクスを論ず」という日々もあったらしい(「歌并詩」1929[昭和4]年4月、『續思索と軆驗』所収)。
そのことは、小林秀雄にもあてはまる。小林の「私小説論」と中野重治の「村の家」が『經濟往來』1935年(昭和10)5月号に同時に掲載されたのは、その意味で象徴的な出来事だった。1932(昭和7)年3月に始まった官憲の弾圧が激しさを加え、とりわけ1933(昭和8)年2月に小林多喜二が拷問によって虐殺され、6月には日本共産党中央委員の佐野学、鍋山貞親が上申書を提出して獄中から「転向」声明(「共同被告同志に告ぐる書」)を発するといった“異常な”政治的事態と社会的混乱のなかで、拘束された中野重治は非合法の政治活動からの「転向」を真摯に受け止めようとして、〈共同態〉の類縁意識に連なる〈家〉の陋習と自立の不安の相剋に揺れながら「やはり書いて行きたいと思います」と言い切っている。そうした党派活動家あるいはマルクス主義者の「転向」に触れて小林はマルクス主義との対質をめぐる自身にとっての秘やかな「転向」を意識しつつ、「自然主義」の文学理念に包まれた「私小説は亡びたかもしれないが、人々は『私』を征服したろふか」と鋭く問いかけ、「私」なるものを根柢から問い直す思考の回路を持たず、単に「歴史性」を「社会性」に還元するに過ぎない政治主義的なマルクス主義を批判し、抗いえぬ歴史の経験の具体性に単独者として立とうとしていた。小林にとって「伝統は私の血のなかに流れている」のであった。だが小林秀雄の批判とはべつに、宇野弘蔵が愛読していた徳田秋聲の『あらくれ』(1915[大正4]年)に描かれた「お島」という女性の〈私〉としての成熟も、移りゆく世間的秩序に応じて臨機に〈生〉を営むひとつの〈私性〉の形象であったことだろう。
〈伝統〉をめぐってはおなじ頃、和辻哲郎が日本の〈家〉を「共同態のなかの共同態」と規定し、それが「国民的性格」の特質たる「しめやかな激情、戦闘的な恬淡」のごとき「間柄」に支えられていること、そしてそのような意味で「主体的な人間存在の表現」としての〈家〉の「歴史的・風土的構造」を指摘したこともまた、「左傾」の社会的傾向に対するひとつの人間学的な反応であったと言ってよいだろう(『風土』1935[昭和10]年)。
宇野が関心を寄せていた萩原朔太郎においても事態は深刻であった。詩集『氷島』(1934[昭和9]年6月)で〈家郷〉への相半ばする情念を歌いつつ、「反動かつ別個の闘争」としての社会主義に抗し、「蜃気楼」に終わったとはいえ「西洋的なる知性」によって〈日本の青春性〉を見なおしその「回復」を志向しながら、深い悲哀の淵にあったのである――「小さな一つの倫理(モラル)が、喪失してしまったのだ」(『絶望の逃走』1935[昭和10]年10月)。孤独と寂寥に沈む朔太郎が「永遠の漂泊者」として「日本的なものへの回帰」をややアイロニカルに表白したのは、ことの成り行きでもあっただろう(『日本への回帰』1938[昭和13]年3月)。朔太郎にとって「日本的なもの」とは、空漠としてその実体が不明でありながらすべての「日本人を感激させる無批判のゾルレンとしてア・プリオリに承認されている」ある種の“心情”であり、「大和魂」はそのような意味でカントの道徳哲学に言う「純粋形式」のような空虚な原–観念であった。だが、「漂泊者」を自認する朔太郎においては畢竟、自己の存在そのものがひとつのアイロニーとしてあったにちがいない。このことは、伝統の喪失意識と仮構の美を自己の存在理念とした保田與重郎のアイロニーについてもあてはまる。『日本浪曼派』の創刊(1935[昭和10]年3月)はそのような〈喪失の美学〉の宣言であって、そこに流れていたのはおそらく「私」をめぐる「不透明な不安の精神」であったように思われる。保田がローマの石造りの橋とは異質の「日本の橋」に遺された擬宝珠の銘文に触れて、「理知」の果てに「永劫に美しい感傷」に差し含んだこと(「日本の橋」『文學界』1936[昭和11]年10月)も、そうした抒情と相被う〈喪失の美学〉の帰結であった。朔太郎が、『日本浪曼派』の同人として保田與重郎と親密な交誼を結んだのは偶然ではないのである。
社会主義に関心を寄せていた宇野弘蔵が論文「資本主義の成立と農村分解の過程」と『経済政策論 上』を執筆した背景には、マルクスの唯物史観を継承すべく「事物をイデオロギー論的に把握する」という三木清や戸坂潤らの社会哲学の営みが息づいていたことだろう。おそらく宇野はそうしたイデオロギー論をめぐるイデオロギー的状況を冷静に、しかも真摯に観察していたにちがいない。宇野にとってイデオロギーと学問知との相互規定関係をいかに捉えるかは、自らの「経済学体系」の基本性格を規定する世界=社会認識の方法的な基軸をなす論点であったからである。(続)
2024年12月20日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1334:241221〕