2016年3月18日
「政治的に公平」は「多角的な報道」と関わらせて
今回の小川氏の見解に限らず、報道の政治的公平が議論とされる場合、賛否の意見をバランスよく伝えたかどうかが問題にされることが多い。しかし、言葉の本来の意味に立ち返ると、それはいわゆる報道の「中立」の問題であって「公平」の問題ではない。しかも、放送法には「公平」という言葉はあるが、「中立」という言葉はない。
ここで私が留意したいと思うのは、放送法第4条第1項第4号が「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と定めていること、「意見が対立している問題については、それぞれの意見を公平に伝えること」とは定めていないことである。
どちらであるかで意味が全く異なることは明らかである。では、放送法が前者のような定めをしたのはどうしてだろうか? この点を考える上で参考になるのは荘宏氏(放送法の制定作業にかかわった元電波監理局次長)の次のような指摘である。
「この〔政治的公平を要請した放送法の〕規定は一見政治的な不公平を避ければよいとの消極的制限の規定にとどまるかのように見える。しかしながら政治的な公平・不公平が問題となるのは意見がわかれている問題についてである。そこで本号では第4号との関連において、単なる消極的制限のみの規定ではなく、政治的に意見の対立している問題については、積極的にこれを採り上げ、しかも公平を期するように各種の政治上の見解を十分に番組に充実して表現していかなければならないとしているものと解される。」
(荘宏『放送制度論のために』1963年、日本放送協会、136ページ。下線は醍醐が追加)
つまり、荘氏は、放送法第4条第1項第2号の「政治的に公平であること」は、それ単独でではなく、まして、対立する意見をバランスよく伝える「中立性」の意味ででもなく、同項第4号の「多角的な論点の提示」と関連付けて解釈すべきものと理解しているのである。
では、第2号規定と第4号規定を関連付けるとはどういうことか? この点を考える上で、荘氏の次のような指摘は含蓄に富んでいる。
「政治運営に不可欠な常識の普及 (前略)この政治のあり方を決定づけるものは主権者たるわれわれである。すなわちわれわれは国会議員などの議員を選挙し、その活動ぶりを注視し、議決された法律・予算等を理解し、政府その他の行政当局の施策を知ってこれに基づいて行動するとともに、これを批判し、立法及び行政について希望を表明し、さらに次の選挙における意思を固める。・・・・民主主義国家が完全に運営されるためには、国民にあまねく高度の常識が普及していることが必要である。放送はこの目的のためにその機能を発揮しなければならない。」
(荘、同上書、148ページ。下線は醍醐が追加)
メディアの使命をこのように、「国民にあまねく高度の常識を普及させる、それを通じて国民の政治参加を民主主義国家にふさわしいものとすること」と理解することは、放送法がその目的を謳った第1条で、「放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」と定めたことと整合する。また、国民の知る権利に奉仕することがメディアの根幹的使命と広く理解されていることとも合致する。
「多角的な論点報道」に「中立」はなじまない
ところが小川氏は記事の中で、放送法4条第1項4号の定めを原文で紹介しながら、在京6局の安保報道を批判する段になると、上記の4で紹介したように、安保報道番組における法案に対する賛否のバランスを問題にしている。
しかし、意見が分かれている問題について、「賛否をバランスよく伝える」ことと、「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」は全く別個の問題である。
意見が分かれている問題だからこそ、国民に賢明な判断の拠り所となる情報を多角的に伝える報道機関の使命が大きいと解するのが立法趣旨に適った解釈なのである。
小川氏が事務局長を務める「放送法遵守を求める視聴者の会」のHPを見ると、「知る権利とは?」と題した記事が掲載され、その中で、次のように記されている。
「ただし『報道の自由』の目的は、国民の「知る権利」に奉仕することです。報道が多様な情報や意見を公平に紹介することによって、国民は主権者としての政治判断を適切に行うことが可能になります。報道が国民の『知る権利』への奉仕であるからこそ、取材や発表が自由に行えること(=報道の自由)が大切となるのです。」
最後の文章に異論はない。問題は、「国民の知る権利に奉仕する報道」とは何を指すのかである。安保法案に賛成する意見と反対する意見をバランスよく伝えること(それも必要な要素の一つではあるが)が国民の知る権利にどれほど奉仕するのか?
「多角的に論点を明らかすること」と定めた放送法第4条第1項4号規定の趣旨に沿っていうなら、疑問点が多岐にわたる法案を報道する時にそれらの疑問点を考える情報を独自の調査報道も手掛け、掘り下げて伝えてこそ、「国民は主権者としての政治判断を適切に行うことが可能にな」るのである。
こう考えると、疑問点が多岐にわたる法案を報道する時に、多くのコメンテーターが、それらの疑問点を指摘し、それに費やす放送時間が多くなるのは自然なことであり、「政治的に公平であること」と矛盾するわけではない。
そもそも、法案の疑問点を指摘することを以て「法案に反対する論者」と決めつけること自体が稚拙な独断である。このようなレッテル貼りこそ、事なかれ主義を報道機関にはびこらせ、メディアの劣化に拍車をかける罪深い主張なのである。
植木枝盛は次のように述べている。
「人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これにくけ込み、もしいかなる政府にても、良政府などといいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかも斗り難きなり。」 (家永三郎編『植木枝盛選集』岩波文庫、11~12頁)
メディアの権力監視は市民による政治監視を有効にするための土台であり、ジャ―ナリストは政治権力者のパ-トナー、広報官であってはならない。メディアによる権力監視の基礎には「権力を疑え」という思想がある。このような使命を持つメディアの政治報道に「中立」を要求するのは、「国民の知る権利に奉仕するメディアの使命」を理解しない低俗で危険な反理性主義である。
「放送法遵守を求める視聴者の会」が昨年11月14日(産経新聞)と15日(読売新聞)に出した意見広告の中で名指しで攻撃された岸井成格氏は、「私たちは怒っている」という横断幕を掲げた6人のジャーナリストの記者会見(2016年2月29日)に出席し、意見広告に関する感想を聞かれて、「低俗だし、品性どころか知性のかけらもない。恥ずかしくないのか」と答えた(「朝日新聞」2016年3月1日)。このような気骨が報道界に広がり、共有されることを私は期待している。
「放送法」遵守というなら、放送法違反を繰り返す籾井NHK会長の罷免こそ急務
小川氏は放送法違反を口にし、小川氏が事務局長を務める視聴者の会は「放送法遵守を求める」という文言を冠している。それなら放送の自主自立を謳った放送法のイロハに反する言動を繰り返す籾井会長の資質を問題にし、同氏の会長不適格、辞職を促すのが筋であり、急務である。
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権力監視 大切な自立性
醍醐 聰
メディアには時の権力を監視する役割が期待されています。テレビで放送された番組が政治的に公平かどうかを総務大臣が判断するのは、監視される側が、監視先をチェックするという矛盾が起き、問題です。
政権の意向におもねることなく、伝えるべき課題を探り、それを調査して報道する使命がメディアにはあります。
例えば昨年、安全保障関連法案の違憲性が指摘されました。政府は「必要な自衛のための措置」はとれるとした1959年の砂川事件最高裁判決を根拠に、集団的自衛権の行使は「合憲」と主張しました。これに対しテレビ朝日系の「報道ステーション」は裁判に関わった元最高裁判事が判例集に書き込んだメモを発見し、政府の解釈に無理があると指摘しました。
こうした調査報道こそメディアの自立的報道の強みを発揮したものです。番組内容には偏りがあるか判断するのは視聴者、各放送局の審議会、NHKと民放が設置した放送倫理・番組向上機構(BPO)です。
「政治的に公平である」などと書かれた放送法第4条は、放送事業者が自覚すべき倫理規定だと考えています。4条に違反したとして行政処分や法的制裁が科されれば、憲法21条で保障された言論や表現の自由を侵害する恐れがあるからです。
自民党はやらせ問題などを理由にNHKやテレビ朝日の幹部から聴取するなど、メディアへの介入を強めています。政権との摩擦を避けるためか、当たり障りのない番組が増え、テレビ界全体で自粛ムードが広がっている気がします。政権に物申してきた報道番組のキャスターもこの春、一斉に交代します。
今回の総務相発言について、わたしたちは発言撤回と大臣の辞職を求める申し入れを行いました。しかし、肝心の放送事業者から反論が噴出して来ないのが気になります。(上田貴子)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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