小林敏明氏「近代の超克」新論を拝聴して /2019年10月5日 於 明治大学

戦後、「近代の超克」という言葉がタブー視され、京都学派の哲学者も公職追放の憂き目にあうこととなった。その後、竹内好の「近代の超克」(1959)、廣松渉の『〈近代の超克〉論』(1980)が発表される。後者は、全共闘運動の世代にも「近代の超克」論を再認識させる意義を持ったといわれる。しかし、「近代の超克」ということばが、これだけ思想史的な厚みを持ちながら、後続世代で共有されているかというと、どうもこころもとない。悪名高い座談会として忌避されるか、特殊歴史的な事例として消え去ってしまうおそれがある。

専門分化が進んだ現代からすると、各界の知識人が一堂に会したことは、議論が収斂しなかったことを差し引いても驚くべきことである。学問的なタコ壺化のみならず、党派的な緊張関係も、垣根を超えた議論をむずかしくしているように思われる。「近代の超克」新 座談会を望むことがむずかしい現状において、「近代の超克」論からなにを学ぶべきだろうか。

 

氏の講演では、まずは「近代の超克」座談会と「世界史的立場と日本」座談会の丁寧な解説がなされた。京都学派が20年代に歴史哲学に傾倒していたことについて史的背景を踏まえつつ論じられたのは、廣松『〈近代の超克〉論』にとどまらない点であろう。とくに、京都学派と近衛新体制に関係する新資料を踏まえて現実政治に対してなされた周到な分析は、小林氏独自のものといえる。周辺にいた原田熊雄、高木惣吉、天川勇といった面々の特異な立ち位置を紹介しつつ、今後研究が展開する可能性を示唆された。氏の問題提起をもとに細かな史実に目を向けることで、海軍から影響を受けていた京都学派の「世界史的立場と日本」座談会を、これまでとは異なった視角から読み直すことができるだろう。

氏が強調されたのは、これまで近代の超克論が挫折してきた後も、資本主義批判として近代の超克論の問題意識を継承すべきであり、現代思想のモードを追いかけていては問題の本質を見失ってしまうということであった。意匠をさまざまに変えてはいるが、ポストコロニアルといったヨーロッパ中心主義批判は京都学派の認識と同型であるし、ウォーラーステインの世界システム論や柄谷行人の世界史の構造が昨今ひろく読まれているのならば、高山岩男の世界史多元論も読まれるべきという氏の主張に筆者は強く共感する。これはたんなる反動や復古主義ではない。高山だけでなく、批判にさらされた廣松晩年の「東北アジア論」も、今後アクチュアリティを持つ可能性がある。その時々の時勢や「東亜」という表現が呼び起こす拒絶反応ゆえに遠ざけられてきた議論を、われわれは何度でも冷徹に見つめなおさなければならないのではないか。氏の言葉を借りれば、〈理念としての近代の超克〉を今いかにして構想すべきかを考え続けなければならないのである。

近代科学が産み落とした負の遺産たる原発をはじめ、環境破壊、共同体破壊といった諸問題に対していかなるオルタナティヴを提示できるのか。これらの問題は、もはや知識人や前衛党が先導してどうにかなるものではなく、ライフスタイルを漸進的に改変していくことによるほかないのではないかと氏は締めくくられた。

 

廣松自身は、マルクス主義に依拠しつつ近代の地平を総体として超えていくことを追究していた。小林氏は質疑応答のなかで、廣松はもともとマルクス主義にもとづいて近代を超えることを標榜しており、『〈近代の超克〉論』はその後別の文脈で著されたものだと説明された。私見では、『〈近代の超克〉論』の特徴のひとつは、すでに共同主観性や四肢構造といった哲学体系を整備していた廣松がそれまでの守備範囲を超えて著したことにある。文学史や文藝、京都学派や右派言説へと踏み込んだ『〈近代の超克〉論』は、戦後の稀有なグランドセオリストである廣松が論じたからこそ、独自の意義を持っている。

ところで、「近代の超克」論座談会に話を戻すと、マルクス主義を早々に切り上げ座談会にも出席しなかった保田與重郎が東洋思想へと沈潜していったことは、ひときわ異彩を放っている。マルクス主義に依拠しつつ新たな価値はアジアから生まれると説いた廣松と保田の本質的な違いはどこにあるのか。時代も思想潮流も隔たった両者を比べるのは、荒唐無稽かもしれない。しかし、廣松の思想遍歴を踏まえて「近代の超克」論周辺で生じていた磁場を判定することも今後必要な作業となってくる。近代を超えることの行き先を見定めることができるのか、はたまた転じて反近代へと回帰するのか。われわれが現在置かれた文脈に照らして考えなければならないだろう。

「世界史的立場と日本」座談会に出席した京都学派の哲学者は、近代資本主義の隘路として世界大戦を捉えたうえで日本のモラリッシュ・エネルギーを説いた。時代を降って、冷戦後に、廣松もブロック経済を視野に入れたうえで「東亜の新体制」を宣揚した。エスノナショナルな価値へと回帰しているかにも映るが、〈近代とは何か〉という普遍的な問いを追究した廣松の思想を東洋思想へと還元してしまっては、廣松にとっては不本意であろう。東洋の哲学思想として飛びつくのではなく、世界性を志向しながら東アジアへと立ち戻ったことにどのような理論的可能性が残されているのかを探ること。廣松の遺志は、こうした形で引き継がなければならないだろう。

現段階では、「近代の超克」ということばにこだわる必要はないのかもしれない。いま「近代の超克」をことさらに謳いあげても、アナクロニズムとして黙殺されてしまいかねない。いま届くことばに装いを変えることも一つの方法ではあるだろう。

後続の世代に課せられているのは、格差や貧困、環境破壊といった現代起きている諸問題が依然として「近代の超克」という問題系の延長上にあることをまずは理解し、それぞれの持ち場で「近代とは何か」を考え続けることではないだろうか。そのためにも、われわれは往時の「近代の超克」を読み直さなければならないのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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